学ぶことを楽しみ、敬意を抱きあえる社会に

私が勉強(※学びではない)するようになったきっかけは二つある。一つは両親が商売を手放し、家にお金が1100円しかないという状態の時に、8万円もする大ガラスを割ってしまったこと。「そんなの弁償できない、どうしよう」と母は泣き崩れた。私は部屋の隅でションボリ。

すると、そのなけなしのお金で、父が喫茶店に連れ出してくれた。中2になる私に、父は次のように言った。「8万円はお前の返せるお金ではない。今働けるのはお母さんだけ(父は転職のための勉強中)。結局はお母さんが弁償するしかない。これから5つのことを話す。それをしっかり守りなさい」

「お前はいつも家事をイヤイヤやっている。お母さんを少しでも楽にさせるため、これから掃除、洗濯、料理は全部お前がやりなさい。
二つ目。家事が忙しいのを言い訳に部活をやめないように。お前の年頃は体を鍛えるのも大切なこと。部活は最後までやり通すように。」

「三つ目。お前はちっとも友達と遊ぼうとしない。けれど、友達は大切なものだよ。誘われたらなるべく友達と遊び、大切にしなさい。
四つ目。ずっと頑張ってばかりではすり切れてしまう。休みなさい。ただし、これまでのようにマンガやテレビでノンベンダラリではなく、メリハリつけて休みなさい。」

「最後に五つ目。お前はちっとも勉強しない。これから毎日、お父さんと一緒に机を並べて勉強しない。成績が少しでも上がってごらん、お母さん、何より喜ぶよ」

8万円も弁償しようがない私は、やむなく、言われたとおりにした。全然勉強していなかったのがするようになったので、成績が上向いた。

もう一つのきっかけ。
どうしたわけか、私によくしてくれる友人がいた。その友人は私と違って成績は学年トップクラス。当然、地域一番の進学校に進むつもりでいた。私は行ける高校がないと心配されていたほど成績が悪かったが、机に向かうようになり、上向き始めた。それでも友人とは雲泥の差。

ある日、友人が暗い顔して話しかけてきた。「オレ、進学校に行けなくなった」。前日の晩、家族から、普通高校、そして大学へとやれる金銭的余裕がないこと、高校出たらすぐ働いて家計を助けてほしいこと、そのために工業高校に行くように言われた、という。そして最後に「オレの分まで勉強してくれ」。

友人の悔しさはものすごく身にしみた。性格もよく、好成績のこの友人の分まで勉強する?だったら当然、地域で一番の高校に行かなきゃいけないし、大学は東大か京大とやらが一番難しいらしいから、それらに合格しなきゃならない。「友人の分まで」。それが勉強する大きなきっかけとなった。

でも哀しいかな、記憶力に劣り、理解力に乏しい私は、友人の足元にも及ばない成績。必死に勉強したものの、地域一番校を受験するどころか、二番校も落ちるからやめておけと担任から止められる始末。なんとか滑り込みで二番校に合格。

私は友人の無念を晴らすべく、高校に合格したその日、「京大を目指す」と宣言。すると母、大口開けて大笑い。「二番手の高校もギリギリだったのに」。父が制止したけど。

本来なら、人格者でもある友人が進むべき道を、私みたいなひねくれ者が進むのはおかしい、と思いつつ、「友人の分まで」勉強。

しかし根本的な理解力、記憶力の足らない私は四苦八苦。二番手の高校で一度も一番の成績をとれなかった。当時その高校では、現役で国公立合格するのが数人。それにも入れなかった。結局、三度目の正直でようやく京大に合格。友人ならストレートで合格していたろうに。

大学に入っても成績はパッとしない。大学院に進んでも、先生の言われたとおりに動くので精一杯、と言うか、言われた通りにもできやしない。友人ならきちんと成果を出したろうに、と思うと、ちっとも「友人の代わり」を果たせない自分の能力不足を常に罵っていた。

私がようやく、「友人の代わりとなれたろうか」と思えるようになったのは、クオルモンの研究と、有機養液栽培の二つの研究成果を出せた時。けれど。人格も優れた友人が望む道に進めず、私みたいなのが代わりに進む理不尽は、ずっとシコリになって残っていた。

勉強って何だろう?学ぶって何が違うのだろう?なぜ友人は望む道を諦めなければならなかったのだろう?学歴が高い人間がふんぞり返る社会って何かおかしくないか?
私は、高学歴を鼻にかけてる人間に非常に厳しく、ボロクソに言うことが度々。「お前なんかより友人だったら」という思いが強くて。

その後、オランダに留学した知り合いから興味深いことを聞いた。あっちでは、大学教授と大工、レストランの主人が対等に政治について語り合ったり議論したりするという。大学教授がヒエラルキーの上位、という感覚がないらしい。給与面でも大きな差がある訳ではない。

阪神淡路大震災では、様々な出自の人間が義援活動をした。被災者のために何ができるか。ひたすらその一点。学歴なんか関係なく、それまで「お勉強」をしてたかどうかも関係ない。ただ、この混乱した状況の中で何ができるかをいっしょに考えた。ん?学歴ってなんじゃらほい?

そうした体験を通じて、学歴とか勉強という「呪い」の正体が次第に見えてきた。勉強と学びは決定的に違う。どんな仕事も大切。どんな世界にも学びはある。ヒエラルキーで捉える世界観が崩れ、生態系ネットワークのように捉える感覚が強まってきた。

つらく苦しい「勉強(つとめて強いる)」ではなく、本来学ぶことは楽しいこと。世界はヒエラルキーで考えると、トップにいる人間だけが満足するいけ好かない世界観になるけれど、阪神淡路大震災の時のように、誰かに役立つため、欠落を補うことを皆が心がける世界のほうが楽しい。

私は「勉強」してきた。しかしそれは無理がある。私の場合、親に迷惑をかけた忸怩たる思い、友人が進学できなかった理不尽への怒りと、友人の願いを叶えたいという使命感があって初めて成立したもの。
でも、本来、学ぶことは楽しいこと。ワクワクすること。学歴とは関係なしに。

誰もが学ぶことを楽しめる世界を。どんな職業も、この世界を維持するために必要な、欠落を埋める仕事なのだと敬意を抱ける社会を。
もしそんな社会であったなら、友人の悔しさは少しは和らげられたのではないか。私ももう少しいびつにならずに済んだのではないか。

私がツイッターを続ける大きな理由の一つ。学ぶことを誰もが、生涯楽しめるように。どんな仕事にも誇りを持ち、工夫や発見を楽しみ、その喜びを共有できる社会を。
無駄につらい思いを生み出すことはない。世の中は、もうちょっと楽しいものに変えられるはず。そう思って、今日もつぶやく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?