言葉を紡ぐと世界が変わる

私が子育て本を書くことになる前の2016年まで、社会には子育てに対する厳しい空気が蔓延していた。幼稚園や保育園を新設しようとしたら、地域住民から「騒音だ」と言って拒否される。電車で子どもが泣くと「ちゃんとしつけろよ」と刺すような空気。母親を見たら虐待を疑え、みたいな空気も。

その空気に風穴を開けたのが、イノッチの「ひよこボタン」。電車や飛行機で赤ちゃんが泣いたとき、そのボタンを押したら「ぴよぴよ」と音が鳴って、「泣いても大丈夫だよ」「赤ちゃんは泣くのが仕事」というメッセージを伝えては?という提案だった。
https://www.huffingtonpost.jp/2016/10/18/yoshihiko-inohara-hiyoko-button_n_12550052.html

しかし、社会の空気は容易に変わらなかった。2018年になっても「赤ちゃんを連れて電車に乗り込むなよ」という意見が平気で出てくる状況になっていた。このため乳幼児を抱えた母親は、新幹線に乗るのもためらう空気になっていた。子ども関係の施設建設に反対する報道も繰り返し出されて。

2016年に息子は生まれたのだけど、YouMeさんの言っていた言葉が忘れられない。「そんなに泣くと、虐待だって疑われて通報されちゃうよ、そしたら離れ離れになっちゃうよ」と。私は「赤ちゃんは泣くのが当然、そこまで心配するのはちょっと極端では?」というと、

「育児支援室に通うお母さんたちの間では、この話題は常識だよ」と答えられて、私は衝撃を受けた。あまり長く子どもが泣くと近所から虐待を疑われ、児童相談所に通報されて、母子が引き裂かれる事例が実際にあり、母親たちは戦々恐々として、子どもを必死に泣き止ませようとするのだという。

まるで「子育てすることは社会にとっての迷惑」みたいな空気が蔓延していることに、私は強い懸念を持った。どうにかこの空気を変えることができないか?そんな時、たまたま私の体験したことをつぶやいたら、驚くほどバズった。電車の中で騒ぐ子どもに声をかけたエピソード。
https://grapee.jp/716683

この記事が出たあたりから、社会の子育てに対する空気がガラリと変わり出したように感じている。この記事では、子育てにおいて第三者の関わりがいかに重要かを指摘した。親だけで子どもを静かにさせようたって、それは無理。だって赤の他人は決して介入してこない「背景」でしかないのだから。

いつしか多くの人が、赤の他人が子育てに口を出してはいけないと遠慮するようになった。その代わり、子どものしつけはすべて親に押し付けるようになった。その結果、親は自分だけで子育てしなければならくなった。しかし「背景」でしかない赤の他人を、人間と認識することは子どもには難しい。

だから私は「背景」から飛び出し、実は赤の他人は人間であったこと、そして感情を持つ生き物であることを、子どもに直接語りかけることで気づいてもらった。これは、親から教えることは困難。赤の他人は背景に引っ込んで出てこないのに、どうやって人間と認識しろというのか?無理無理。

この記事には、面白い反応がいくつもあった。「子育てで苦労している親御さんを見ると、何か自分にできないだろうかと考えていたけれど、第三者ならではの子育てアシストってあるんですね!」実は、赤の他人である私たちも、何かできることはないかと探していた面がある。

第三者は第三者なりの、立場をわきまえた「子育てアシスト」が可能。それに多くの人が気づいてくれたらしい。この記事が出てから、てきめんに電車の中での、騒ぐ子どもに対するとげとげしい空気が激変した。騒ぐ子どもをにこやかに眺め、接する大人が増えた。やり方が分かった感じ。

恐らく、多くの人にとって、子育て世代にどう接したらよいのか分からなくなっていたのだろう。2000年代に入って早教育ブームが始まると、多くの親が「理想の教育」を施そうとして、その邪魔をする他者からの口出しを極端に嫌がる時代が続いた。その余波が、2010年代後半になっても続いた。

「ワンオペ育児」という言葉は、2016~17年あたりに流行してきたように記憶する。前の子育て世代が第三者からの口出しを嫌う行動が裏目に出て、それより若い子育て世代は、誰からの子育てアシストも受けづらいつらい環境に置かれた。孤独な育児を強いられた。

保育園や幼稚園を「騒音が出る迷惑施設」とみなす社会空気が生まれたのも、前の子育て世代が「うちの子に手出し口出ししないでください」という拒絶がもともとの発端だったように感じている。その拒絶が反発を招き、子育てしている親への無理解、冷酷さを引き出してしまった気がする。

しかしその原因となった子育て世代は卒業し、新たに子育て世代となった人たちには何の罪もない。罪もないのに前の子育て世代が残していった「拒絶されたことへの恨み」を引き受けなければならかなった。母親を見たら虐待を疑え!みたいな空気、子どもを騒音とみなす空気に耐えねばならなくなった。

私はその空気を変えたかった。幸い、多くの方々がいろんな形で訴えたことで、社会の空気が変わってきた。第三者ならではの子育てアシストがあることに気づき、それを実践してくれる人が増えた。感謝にたえない。本当にありがたいこと。

私はこの体験から、社会の空気が人々を追い詰めることがあることを知った。そして、その空気は、少し違った視座、変わったものの見方を提供することで、ガラリと変えることができることも学んだ。そして空気が変わると、「関係性」が大きく変わることも。

乳幼児が常に静かにしていることは無理。その「存在」は変えられない。変えられるのは、乳幼児を抱えた親子と接している私たち赤と他人との「関係性」。そしてその関係性は、社会の「常識」がどうなっているかによって大きく左右される。この常識は、もはや人間の手では変えられない気がしてしまう。

しかし、「常識」は人間が生み出した「虚構」に過ぎない。そこに一つの別のものの見方が加わることで、大きく変化することがある。私は、赤の他人である第三者だからこそできる「第三者による子育てアシスト」があり得る、という視点を提供した。すると、それを思い出して実践する人が増えた。

すると、社会の空気が急激に激変し始めた。子育て施設を迷惑施設と呼ぶ空気が急激に雲散霧消した。それどころか、自分たちに何かできることはないか?探しをする人が増えた。赤の他人だと何もできない、と思っていたから諦めていたけど、そうでないなら、と、考えを改める人が増えた。

ツイッターの素晴らしいのは、何の権力もない、一介の人間がつぶやいた言葉が、多くの人々に波及し、「そういえばそうだよね」と思っていただき、社会の空気が変わり得るツールを提供したこと。社会をアップデートすることが、ごく普通の人の何気ない言葉で可能になる面白さがある。

だからみなさん、社会の常識がどうであれ、違う視点を提供することを恐れないでほしい。あなたの一言が、社会を大きく変えるきっかけになるかもしれない。その言葉に力があれば、多くの人がリツイートする。すると、社会は急激にその方向へと動き出す。「そういえばそうだよね!」と。

「どうせ乳幼児は泣き止まない、だったら拒絶すればいい、迷惑なんだから」という「関係性」だったのが、「赤の他人である私でも役立てる方法は何だろう?」と考える「関係性」へ。そんな変化が起きたことで、子育て世代は以前と比べ、だいぶ救われたように思う。

もしあなたの目の前に、険悪な「関係性」があったとしたら、そこにどんな一石を投じると良好な「関係性」に変わるのか、考えてみてほしい。そしてそれを言葉に紡いで、共有してほしい。すると社会が変わる。今は、誰もが社会を変えるきっかけを投じることができる時代。それをぜひ活かしてほしい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?