失敗するから学びが生まれる(完璧な人間などありはしない)

ああ、私は傲慢な振る舞いが嫌いなんだな、と思った体験。
専門分野で深い知識を披露した先生に当初は尊敬申し上げたのだけど、それをもって「オレ以外はみんなバカ」をやりだした。ではその深い造詣でもって私にとって難問、あなたには簡単という問題をどう解くのか、と、尊敬の空気そのままに問うた。

その先生、若い連中にそのまま説教モードに入ろうと思ってたらしく、私達をバカにしたそのテーマで解決策を自前で用意はしてなかった。適当なことおっしゃるので「いや先生、それは非現実的ですよ。現場はこうです。その条件下で可能な策をご教示頂きたい」と問いを重ねるとシドロモドロ。他の人から声をかけられたのを幸い、

席を立って別のところに行かれた。
その先生の専門知識の深さは今も尊敬している。しかしその一事をもって、他の人をバカにしてよいと私は考えない。バカにしたらそれだけの応報は受けていただこうと私は考えてしまう。どんな大先生だろうと知ったことか、となってしまう。

もったいないな、と思う。時流に乗り、その先生の知識がまさに脚光を浴びるようにはなってるのだけど、傲慢になった途端、現場がわからなくなる。現場を見ない知識は結局役に立たない。本の中のお遊びに転じてしまう。

私に対して、お持ちの専門知識をあれこれ引っ張り出して私をへこませようとされたけど、「私はそれらの専門知識であなたにかなわないのは承知してます。で、最初の問いに戻りますが、現場はこうです。その前提条件で我々は何ができますか?」と、現場に話を戻した。結局は、その先生も答えを持たず。

とても残念だ。現場の問題を自分事として捉え、一緒に悩んで下されば、たとえ答えは出せなくても尊敬の念は揺るがず、むしろ高まったろうに。「俺なら簡単に解決できる、でもお前らは愚かだからできないのだ」なんて傲慢な態度を最初にとるから、じゃあ教えてえな、と問うた。

で、答えられないから恥をかく。人をバカにし、自分なら解決できるかのような自慢するからそうなってしまう。これでは、せっかくの専門知識も、人を見下し、自分が王様になるためのつまらない道具に化してしまう。現場を見ようとしなければどうしてもそうなる。

私も気をつけたいと思う。先日、私の知識不足から炎上した。最初ムッとしたのだけど(すみません)、なるほど、知識不足からくる記述の誤りが多々あった。おかげでそれまで統合できていなかった知識がつながった感。ご指摘くださった皆さんに感謝したいと思う。ツイッターは、こうした査読機能が強い。

ツイッターは修正が効かないし(有料会員はできるそうだけど)、後で修正意見を書いても、そんなおしりや枝毛のツイートは読まないから批判もやまなかった。でも、書き込みはそのまま残してある。炎上し、様々な査読意見がついてるのを残したほうがいいんじゃないかと思って。

先日、大学の先生から聞いたのだけど、今の学生は学会発表の要旨とかをなかなか見せようとしないのだという。もう締め切り直前になってしまって、ろくに修正のやり取りもできずに提出するしかなくなるのだという。「修正されたくないんですよ。間違いを指摘されたと思って。いや、間違うのが前提なのにね」。

そう。私も卒論で書いた原稿は、真っ赤っ赤に修正された。修正して再提出してもなお、半分くらい真っ赤。10回くらいやり取りし、あれが足りない、これも書け、と指導された。私が最初に書いた文字は一つもそのままに残っていないんじゃないか、と思う。

しかしその体験こそが、生まれて初めて文章の書き方の訓練を受けた体験だった(注・日本の教育のおかしなところ。作文はしたことあっても、人が読む文章を書く訓練を受けたことがない。卒論が初めての体験となる)。もし私がマシな文章を書けるようになったとすれば、その体験があったから。

それでも二十年前でさえ、「お前の書く文章は全然わからん」と、上司を困らせた。そうした上司や先輩たちの指導のおかげで、私の文章は徐々にマシになってきたのだと思う。いまだにアカンところは私の責任。それでも、わかりやすいと言って頂けることが増えたのは、恥をたくさんかいたからだと思う。

「たくさんフォロワーがいる人間は言葉に責任を持つように」と指摘する人が複数。でも私は、フォロワー数の多寡に関係なく、誰も恐れ入らずに間違いを指摘できるところがツイッターのよいところだと考えている。

たとえその人にどれだけフォロワー数があろうと、現実にその人がどんな社会的地位にあろうと、間違いを見つければツイッターは容赦なくそれを指摘し、炎上するという、「査読機能」が強烈に示される仕組みとなっているように思う。私がめったにツイートを削除しないのは、この「査読」を活かしたいから。

「査読」がたくさんついていれば、鵜呑みにしなくなる。また、指摘された側は、しばらくはムッとするかもしれないけど(人間だから、間違いを指摘する際も穏やかにお願いしたいとは思う)、やはり不十分な点があるから炎上するのであって、次から活かしたほうがよいように思う。

私の特徴(長所とは言わない)は、「恥をかいてナンボ」と思っているところ。最初から完璧を狙い、間違いを指摘されないようにするというのでは、進歩はおぼつかないように思う。恥をかかないようにばかりしていたら、学びは少ないように思う。

私はこれまで何度も炎上してきた。後から冷静に振り返ると、それらはやはり学びとなった。「ああ、こう書くとこんなふうな印象を持たれるのか。だとしたら、改めるべきはやっぱり私だな」と、考えを整理し直すきっかけとなった。もし私の文章がいささかでもわかりやすいのだとすれば、

それは、数々の゙過ちを繰り返し、恥をかいてきたからだと思う。たくさんの方々からのご指導を受けて、それを糧にすることができたからだと思う。
というわけで、「フォロワー数が多いくせに」というご意見は、スルーさせて頂こうと思う。フォロワー数がいくら増えても完璧な人間になどなれはしない。

むしろ、「どんだけフォロワー数が増えようと、完璧な文章なんか書けないんだな、間違ったらみんなからケチョンケチョンに指摘されるんだな」という存在になったほうがいいのかな、と思う。それによって、絶対完璧な人間などいないのだな、むしろ「衆知」が大切なのだな、というコンセンサスが得られるのなら、と思う。

私は、「この人が言うなら絶対だ」なんて完璧な人間になることは不可能と考えている。歴史上の天才と言われる人でも、すべての人が何らかの過ちをおかしている。ならば「この人は権威(あるいはインフルエンサー)だからその発言はすべて正しい」と仮定を置くこと自体、間違っているように思う。

人類が知見を広げていくには、「群盲象を撫でる」の方法しかないと私は考えている。昔、目の見えない人たち何人かで生まれて初めてゾウを触った話。尻尾を握った人は「呼び鈴のヒモ」と言い、耳を触った人は「カーテン」、鼻の人は「大きな吹奏楽器」、足は「柱」と、みんないうことがバラバラ。

もしこの中の誰か一人に権威を認め、その発言を絶対とみなしたらどうなるだろう?「あの人が呼び鈴のヒモというのなら、呼び鈴なのだろう」となってしまう。ゾウである、という真実にたどり着けなくなってしまう。誰もがゾウという真実の「輪郭の一部」しか把握できていないのに。

大切なのは「私が触れた輪郭の一部はこう感じた」と報告し合うこと。誰かの意見を絶対視せず、呼び鈴のヒモ、吹奏楽器、カーテン、柱、といった「輪郭の一部」を触った感想、意見を共有する。それを踏まえて改めて観察し、別の「輪郭」を報告し合う。こうして観察と共有を繰り返すうち。

「これはもしかして、ウワサに聞くゾウではないか?」と思い至ることができる。誰の意見も絶対視しないから、現場での観察であれば誰の意見でも尊重するから、その観察結果と考察を共有するから、触った事実の向こう側にある「真実」を探り当てることができる。これが「群盲象を撫でる」の力。

ツイッターは、「群盲象を撫でる」を実施するのに非常に適したSNSだと思う。みなさんがそれぞれ現場で感じる肌感覚と一致していればバズり、違うとなればその誤りを指摘する「査読機能」が発揮され、炎上する。その結果、変な「権威」が発生しない、というのがツイッターの特徴だと思う。

いくらフォロワー数が増えたとしても、肌感覚と異なること、すでに知られている事実と違うことがあれば、多くの人がそれを指摘する。決して「この人は完璧であり、その言葉は絶対視してかまわない」とはならない。これは、人間の現実にとても即しているのではないか。

自分を権威とみなし、絶対正しいと思い込み、傲慢になって構わない、他者を見下して構わない、というのは、つい最近まではびこっていた常識だったかもしれない。しかしそれは、それぞれの肌感覚を報告し合い、共有することに向いたシステムがこれまでなかったための「代用品」でしかなかったのではないか。

ツイッターは最近、いろいろ問題を抱えているが、それでもそれぞれの現場感覚、肌感覚、知っている知見を持ち寄るという点で優れている。私はそうした機能を信頼し、今後もやらかしたら皆さんが査読してくださると前提して、発言していこうと思う。そして実際に失敗したとしたら。

私は大いなる学びをその都度得ることができるだろう。卒論が真っ赤っ赤になって戻され、何度も先生に修正していただくことで、文章を書く訓練ができたように。失敗を前提とするから成長できる。その姿を50過ぎの年配者として、変に格好をつけずにお見せし続けようと思う。

若い人は失敗を恐れる、という話を聞いたが、ぜひ私の姿を見て、「失敗するからだんだんと知識が是正され、文章もマシになっていくのだな」ということを知ってほしいと思う。失敗は拒絶するよりも、むしろ学びを得る喜ばしい現象だととらえ直してほしい、と願っている。

文章書いて恥をかこう!失敗を重ねよう!人を傷つけるものでないなら、査読機能があなたの失敗を修正してくれる。だから恐れずに意見発信してみよう。炎上したら気持ちが落ち着くまで寝かしておき、次から何に気をつければよいか、学びをつかみ取る。それをぜひ若い人にも実践してもらいたい。

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