楽しい「観察と試行錯誤」の繰り返し

「俺はこの道何十年のベテラン、新人は黙っとれ」と言われることが。しかしどう見てもどう考えても違う、と、新人の方が気づいていることが。なぜこうした現象が起きるのだろう?
さりとて、新人ばかりでよいかというとそうでもない。大半の新人は経験がないと右往左往。どう考えるべきなのだろう?

ナイチンゲールの言葉で次のようなものが。
『経験をもたらすのは観察だけなのである。観察をしない女性が、50年あるいは60年病人のそばで過ごしたとしても、決して賢い人間にはならないであろう。』
観察してこそ「経験」になる、という指摘は興味深い。だとしたら、

この道何十年のベテランだと、観察していなくても、それなりの気づきがあり、トラブルを処置してきているから、一応経験値は積み重なる。けれど観察をしていない場合、気づきの密度が低い。そのために、ぽっと出の新人に気づきで負けることが起きうるらしい。

では「観察」とは何だろう?何十年のベテランだっていろんな物事を見ているはずなのに、「観察」していないと、気づきの密度が低くなる。「見ている」と「観察」にどんな違いがあるのだろう?「観察」とは何なのだろう?

「見ている」とは、見たものを過去の体験、すでに知っていることに当てはめて解釈し、安心する行為なのかもしれない。既存の知識で解釈し、処理するから、気づきがない。今までにない現象だったとしても「たまたまだ」と軽く見て、既存の枠組みの中で処理するのが、「見ている」なのかも。

他方、「観察」とは、自分の知らなかったもの、気づいていなかったことを探そうとする行為なのかも。既存の知識や経験では処理しきれないものは存在しないのか、ということを鵜の目鷹の目で探す。分かったつもりになっていることからも「わからない」「知らない」を探す行為と言えようか。

氷の上は滑りやすい。長年体験していればよく分かっていること。でもなぜ滑りやすいのか?と聞かれると、答えられる人はそうはいないだろう。実際、氷の上はなぜ滑りやすいのか、真剣に研究している人がいる。分かっている気がすることの中にも「わからない」は潜んでいる。

私が研究する前、水耕栽培(養液栽培)では有機肥料は使えない、というのは常識だった。けれどそれがなぜなのかを突き止めた人はいなかった。私はなぜだろう?と考え、水の中に有機肥料を加えては水が腐っていくのを観察し、仮説を立てては試行錯誤を繰り返した。

すると、有機肥料の分解は、土の中だと2段階で進むのだけれど、水中では1段階目で止まってしまうことが分かった。2段階目の分解がなぜ進まないかというと、その分解を担う硝化菌という微生物が、有機物大嫌いで死んでしまうためだということを突き止めた。

「大嫌いで毒になる言っても、ほんのちょっとずつ与えたら慣れるのでは?」という仮説を立て、また、土の中で硝化菌が有機物まみれでも死なないのは「他の微生物が守ってくれるからではないか?」と仮説を立てた。で、硝化菌だけでなく雑多な菌が入るよう、土を水に入れ、ごく少量の有機物を加えた。

すると、水中でも有機肥料を2段階で分解できるようになった。水は腐らなくなり、植物はスクスク育った。水が腐るというのは、分解が1段階目で止まるという現象だったということがこれで分かった。そして2段階目まで進める方法を見つけられた。「観察と試行錯誤」を繰り返したからだ。

分かっているつもりの現象にも、必ず「分からない」が含まれている。それを観察で見抜き、試行錯誤すると、まだ誰も見つけていない現象を発見することができる。そして改良する方法も見いだせる。新技術も生まれる。大切なことは「観察」(知らない、分からないを探す)することだろう。

孔子の言葉集「論語」に「之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為す、是れ知るなり」という言葉がある。知っていることと知らないことの境界線を明らかにする。それこそが知るということだ、という意味だろう。観察は、知っていることと知らないことの境界線を見極める行為だともいえる。

しかし私が思うに、「知っている」の中には必ず「知らない」が含まれている。「知っている」と多くの人が考えていることにこそ、みんながびっくりするような「知らない」があり、それを明らかにすれば、知っているつもりだっただけに、驚きが強くなる。

アジサイは土の酸性、アルカリ性で花の色が変わることで知られている。そう考えると、リトマス試験紙のように、赤から青までのグラデーションになっているような気がする。ところがアジサイの花びらを顕微鏡観察すると、青い点、赤い点があっても、その中間の色の点がないのだという。

赤っぽい紫(赤紫)、青紫みたいな中間色の点はなく、青い点が赤い点より多めだと全体としては青紫に、逆に少なめだと赤紫に全体としては見える、ということらしい。だとすれば、酸性の土で育てると青い色になるというけれど、それでも赤い点が少数あることになる。意外。不思議。

「分かっている」つもりになっていることから「分からない」「知らない」を探す。知っているつもりになっていても、どこまで知っているのか、その限界をわきまえておく。その上でその境界線の向こうにある「分からない」「知らない」を探す。これが「観察」なのだろう。

若者が「こんな新しい発見が!」と言ってきても「ああ、それはね」とベテランが過去の体験知識で処理してしまい、発見が潰されることは起こり得る。もしかしたら「分からない」「知らない」現象が起きたのかも、と、検証してみる柔軟さがベテランであっても必要。

よく知っているつもりの現象から「分からない」「知らない」を見つけたら、それはイノベーションのカギになる。近年のイノベーションは深く広い知識がないとできないと言われるけれど、私はそう思えない。iPS細胞の山中教授は「知らないからできた」とよく発現しておられる。

もし山中教授が、過去の研究のことを勉強し、無数の失敗例を知っていたら、「無理だ」と諦めていたかもしれない、という。変にそんなことを知らなかったから、それでいて目の前の現象をよく観察し、試行錯誤を繰り返したから、iPS細胞は成功した面があるようだ。

目の前の現象を過去の知識で料理しようとしすぎると、すべて既知の現象に見えてしまう。しかし、分かっているつもりの現象にも「分からない」が無数に含まれているということを、私たちはもっと把握しておく必要があるように思う。私たちは表面的にしかわからない、知ることができないのだから。

分かっているつもり、知っているつもりの現象でも、どれだけ表面的にしかわかっていないか、知らないかを把握すること(知るを知るとし、知らざるを知らずとす)が大切。その上で、やはり既存の知識で料理しきれないと思ったら、ともかく試行錯誤してみること。

知らないこと、分からないこと探しの「観察」は面白くて仕方ない。観察して気づいたことがあれば試行錯誤する。すると、思ってもみなかった反応が結構起きるので、これまた楽しい。「観察と試行錯誤」をぜひ楽しんでほしいし、この楽しみを多くの人に知ってほしい。特に子供たちに。

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