見出し画像

俳優を目指し、東京へ #4

アメリカの大学を中退し日本に帰国後は、心機一転、東京に拠点を移しました。シェイクスピアから現代劇まで扱う老舗の劇団や、全国の小・中学校を廻りながら子供たちにお芝居を届ける旅廻りの劇団に参加し、イチから演技の勉強を始めました。

滑舌が悪く田舎育ちで訛っていた私は、上京当初はよく発声練習をしていました。夜な夜な環七通りの歩道橋の上でやっていました。たまに通る人には不審がられたりもしました。それでも楽しかった覚えがあります。でも舞台では、本当に言いづらい言葉は早口で言って誤魔化していました。

また自分がお芝居をしている時もそうですが、それ以上に自分の役のことを考えたり、その作品に関わることを調べたりする中で自分が知らなかったことや歴史や出来事を学べることがとても楽しいと感じていました。私は、どちらかというと本番よりもそのプロセスの方が好きなのかもしれません。

©北原美喜男

そして、俳優部として演技をするだけではなく、照明部、音響部、美術部などの舞台づくりに必要なスタッフワークを学ぶ機会も得ました。

あれは、小学校の体育館に照明機材や美術を仕込んで舞台を上演したときのこと。普段と違う体育館の様子を見た子供たちが、驚いて目を輝かせながら歓声を上げているところを目にしました。それは、自分がやっていることで誰かに喜びを与えることができたと実感した瞬間でした。あの感動は今でも忘れません。

また舞台活動と並行して、ずっと憧れを抱いていた映画の世界にも挑戦しました。

私は幼い頃から休みになると祖母と映画館に出かけたり、テレビのロードショーでかかる古い洋画を祖父と観ていた記憶があります。その頃から映画には親しみを感じ、自分も銀幕スターのようにスクリーンの中で活躍してみたいと思うようになっていた気がします。

ある時、とある映画監督がこんなことを話してくれました。

「世界とはひとつ確かなものがあるのではない。一人ひとりの頭の中にそれぞれの世界があって、それを通して物事を捉え、見ているだけだ。そして映画監督とは、映画を通して『私の見ている世界はこんな感じですよ』と他の世界に向けて伝えているのだ」と。

それまでは、誰それの演劇論だとか演技論というものばかりにとらわれ、かなり狭い視野でしか演技や作品というものを捉えられなかった私は、これを聞いた時、恥ずかしながら初めて舞台や映画等の作品が社会と繋がっているということを感じ、とても深い感銘を受けました。

それからというもの、こういう考え方を持った方たちがいる世界で私も一緒に仕事がしたいと考えるようになり、映画というものづくりにずっと携わってゆきたいと思うようになっていったのでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?