人の政治信条を笑うな:2024年アメリカ大統領選挙について

ツイッター上で、以下のようなつぶやきを見た。

国際政治上の立場は違うが、鈴木一人先生は尊敬すべき学者であると認識している。しかし、「トランプが正気ではない」といった意見には強く反対したい。以下、その理由を述べる。

なぜトランプとトランプ支持者の悪口を言ってはいけないか


第一に、「資本主義 対 共産主義」という経済システム上設計上の対立が存在しない現代において、アメリカ合衆国が世界の平和維持のためにアメリカ合衆国国民の血税をつぎ込むべき理由は全く明らかではない。

例えば、フィリピンの島を守るために、なぜ海を隔てたアメリカが莫大なコストをかけねばならないのか。私がアメリカの納税者であれば、全く納得できないだろう。NATOについても、日米安全保障条約についても同じである。

結局のところ、ヨーロッパやフィリピンや尖閣諸島で小競り合いが起きようが、中国からもロシアからも遠く隔たり、莫大な核兵器を持つアメリカの安全保障が脅かされる可能性は限りなくゼロに近い。むしろ、アメリカがそれらの諸国の「主権」確保に興味を持つことの方が、正気ではないとも言えるくらいだ。

そのようなアメリカの立場の変化は、トランプ個人の政治的志向に由来するものではない。その証拠に、今度の選挙で独立候補として出馬するために活動を続けるケネディも、国際政治の安定という「公共財」提供に後ろ向きのようだ。

今回の大統領選挙の結果がどうあれ、アメリカはいわゆる「孤立主義」への傾斜を強めていくのは、ほとんど確実だと思われる。我々は、そうした未来に備える必要がある。正気/狂気という言葉は、冷静な判断を阻害するものでしかない。

第二に、トランプ支持者(MAGA派共和党員)を安易に批判するべきではない。トランプ支持者もまた、相当に合理的である。前回の大統領選挙の際に明らかになったことだが、トランプの選挙中の「放言」に対して、トランプ支持者は実際に割り引いて聞いているようである。

例えば、メキシコとの間に壁を作るという2016年大統領選挙キャンペーン中のトランプの発言を、トランプは任期中に守れなかった。しかし、MAGA支持者は、別にそのことを理由として、トランプを見限ることはなかった。つまり、トランプは「政治的な代表」として、その支持者に「信頼」されているのである。

代表というものは、その任期中、広範な政治的行動の自由を持つ。選挙キャンペーン中の公約は、あくまで公約であり、それに違背することが許される。何故かと言えば、政治は極度に複雑なので、選挙時点での公約に政治家が縛られてしまうと、政治的に逆効果だからである。有権者と政治家の関係が、いわゆる「命令委任」ではなく、「自由委任」となっている所以である。

そして、有権者と代表の間に、ある種の信頼関係が成立している場合、有権者は代表の豹変や、言行不一致を許容する。つまり、トランプが選挙に勝つか否かにかかわりなく、トランプはすでにアメリカ国民の多くの「代表」になっていると、好き嫌いに関わらず、言わざるを得ないのである。

第三に、とすれば、アメリカに安全保障を依存している以上、日本側はトランプもトランプ支持者についても、安易に悪口を言うことは控えねばならない。そのような悪口は、日本の国益を損ないかねない危険な振舞いである。

第四に、トランプ支持者(ひいては多くの共和党支持者)に対する悪口そのものが、アメリカにとって致命的なものになりうる分断を促進している重要な要因となっている。

例えば、ホックシールド『壁の向こうの住人たち』は、ルイジアナ共和党婦人会に参加していたあるゴスペル歌手の認識をこう報告している。曰く、「リベラル派はこう思っているのよ。聖書を信じている南部人は無知で時代遅れで、教養のない貧しい白人ばかりだ。みんな負け犬だって。わたしたちのことを、人種や性や性的志向で人を差別するような人間だと思ってるのよ。それからたぶん、でぶばかりだってね」(ホックシールド 2018: 35)。都市部リベラルによる、田舎の共和党員に対する蔑視こそが、民主党支持者と共和党支持者の分断を悪化させている。

アメリカの都市リベラルは、人種差別意識や性差別意識に対しては、敏感である。他方で、地方差別意識については、驚くほど鈍感である。我々の心に潜む差別心というものを認識するのは常に難しい証拠であろう。

第五に、確かにアメリカの共和党員の多くが(我々から見て)無知で、明らかに事実に一致しない荒唐無稽なことを信じており、専門知識を尊重せず、陰謀論を信じやすいことは確かだろう。だが、その無知が、彼らの「責任」に帰せられるべきだとは、私は思わない。

アメリカの公共育制度は、基本的にそのコミュニティ・レベルでの資金に支えられているはずで、連邦レベルでの補助は多くない。この場合、貧しい地域の小中等教育の質は低下し、豊かな地域の質は向上する。とすれば貧しい地域と豊かな地域で知識(や倫理)についてのギャップが致命的なまで拡大するのは当然だ。

さらに絶望的なことに、たとえ賃金は高くなくとも、教師はすくなくとも健康保険には加入できる(ようだ)。だが、アメリカの田舎の貧しい人びとは、ロクな健康保険に加入できない。その結果、ウィスコンシン州の共和党支持者を聴き取り調査から、教師に反感が持たれていることが報告されている(Cramer 2016: 161)。

公教育に従事する教師に対する反感は、恐ろしい結果をもたらす。というのも、ラザースフェルドの古典的な「コミュニケーションの二段階の流れ」が明らかにしたように、一般人は複雑な事柄に関する情報を、各コミュニティのリーダー的位置にある人から入手すると考えられるからである。例えば、かつての日本であれば、いわゆる「亜インテリ」(丸山眞男と山路愛山)としては、寺の坊主、村の駐在、村役人に並んで、小学校の先生が、コミュニティ・リーダーとして、普通の人びとを媒介していたと考えられる。この論点については、河野有理先生の以下の一連のツイートに示唆を受けている。

公教育に携わる先生が反発されている状況は、アメリカの田舎の人びとの知識水準を大きく制約しているだろう。その代わりに、アメリカの田舎の人びとは、組織化の程度が弱い聖書中心主義的なキリスト教会や、自由競争の名の下にほとんど監督されないケーブルTVやラジオに依拠せざるを得なくなっていると考えられる。

さらに地方新聞も極度に弱体している。本屋もない。大学の授業料は懲罰的なまでに高い。そこに来てSNSの時代が到来したのである。各地の公立図書館はほとんど最後の砦として頑張っているというが、その図書館の蔵書にまで党派対立の火の手が迫っている。

私がアメリカの田舎の貧しい地域出身者であれば、叫びたくもなるだろう。「どうしろと言うのだ!何が『専門知は、もういらないのか:無知礼賛と民主主義』(ニコルズ 2019)だ。貧しく生まれれば、専門知識にアクセスするなど絶対にできないではないか!ふざけたことを言うな!死ね!」

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何をなすべきか


もちろん、人が死んでも問題は解決しない。落ち着かねばならない。ではどうすべきか。アメリカの政治哲学者・ブレナンは、「エピストクラシー」(智者による政治)の名の下、『アゲインスト・デモクラシー』において、有権者資格を審査するにあたり筆記試験を課すというやり方を提案している(ブレナン 2022)。

この議論は、別に新しくない。代表制(選挙制)の黎明期から、無知な有権者に選挙権を与えるのは危険だと主張する人は広範な支持を集めてきた。この議論を突破し、制限選挙から普通選挙を実現するために長い時間を要したことは、周知の事実である。

ブレナンの提言に対して私から言えることは、政治知識や政治能力を「試験」することは不可能だということである。ここで詳細を述べることはできないが、例えばその筆記試験を誰が作成し、採点するのか、その試験が妥当であることをどうやって保証するかを少し考えてみれば、その問題点は明らかだろう。

だからこそ、有史以来、政治家を筆記試験で選ぶ制度が成立したためしはないのだろう。あるいは簡単な識字能力を試験することはできるが、現代のアメリカにおいても完全な文盲者はほとんどいないだろうから、実際的に有権者の能力試験として機能するとは思われない。さらに言えば、識字能力すら、政治的な能力や知識のプロクシになるとは立証されていない。従って、ブレナンの提案は却下される。

ではどうすべきか。先に述べたアメリカの問題は、①公教育の弱体と②健康保険へのアクセスの著しい不平等であろう。②については広く認識されていて、オバマはほとんど英雄的な努力を健康保険制度の整備に捧げた。しかし、党派対立に邪魔されて、十分な成果を挙げることはできなかったようである。

①の公教育の整備についても、連邦政府は長年、努力してきたようである。しかし、極度に分権的なアメリカ合衆国憲法の性質から、うまくいっていないと見て間違いないだろう。連邦レベルからのカリキュラムの統一や資金の拠出が不可能になっているからである。

とすると、問題は憲法改正マターであるということになる。連邦政府の権限を大幅に強化し、州権を制約するのが一つのありうる解決策となる。実現可能か。不可能であろう。州権主義はアメリカの基軸であるし、権限の委譲を州レベルの政治家が是認するという事態は、およそありそうにもない。

憲法改正が不可能であるとすれば、次善の策は民主・共和両党の政党組織を寡頭制に変える政党改革である。もし政党が寡頭制になれば、連邦レベルの政治家は、州レベルの政治家に対する政党規律を通じて、実質的に連邦政府の権限を強化できる。

アメリカの政党の寡頭制化を阻害しているのは、予備選挙制度である。候補者になるために政党上位者から指名されるのではなく、その都度、選挙しなければならない場合、政党組織の上位者は下位者に影響力を及ぼすための手段がなくなる。というか、政党内の政治家に上下関係そのものが成立しなくなる。

党内予備選挙を廃止し、政党を強化すべきであるという提案は、ローゼンブルースとシャピロ(Rosenbluth and Shapiro 2018)によって、明白に述べられている。

なお、政党制を強化(責任政党とする)すべきだという提案についても、別に新しいものではない。すでに1950年にアメリカ政治学会が報告を出している(American Political Science Association 1950=2012)。誠に、「日の下に新しきものなし」と言うべきであろう。

しかし、党内予備選挙を廃止するのも極度に難しい。アメリカの政党組織は、実はかつて寡頭制であった。オストロゴルスキーによる古典『デモクラシーと政党組織』(1902年)は、候補者指名が寡頭的であったことを報告している(Ostrogorski 1982: 124)。

しかし、政党組織のその寡頭支配体制は、非民主的であると批判され、19世紀末の「革新主義運動」の結果として、党内予備選挙制度が定着した。それから現在まで、党内予備選挙制度は、ほとんど伝統としてアメリカ政治に定着している。この制度を廃止するのもまた、ほとんど不可能に近いほど難しいだろう。一朝一夕には行きそうもない。

せめて、連邦議会や州議員の法案採決を、公開から匿名に変更することはできないか。現状では、個々の議員はその一挙手一投足を利益団体と圧力団体に監視され、ほとんど身動きがとれなくなっている。政治においては、公開すれば事態が善くなるというのは、幻想である。

結局、「選挙すれば民主的」「分権すれば民主的」「公開すれば民主的」という発想には、根拠がない。アメリカの政治的伝統においては、これらの単純化されたイデオロギーが定着しており、そのイデオロギーが、一般人、エリート、そして政治学者の思考をさえ、致命的なまでに制約している。

とすれば、全ての前提として、まずイデオロギー暴露の作業が必要となってくる。ある政治制度が「民主主義」の実現(あるいは、より「民主的」)だとする全ての思考を、物事の把握を不可能にするマジック・ワードとして、拒絶するしかない。可能か。これは政治学者の仕事であろう。

イギリスの政治思想史家ジョン・ダンは、「等身大の民主主義観」という論文で、民主主義という概念を再考するよう述べている(ダン2012=2017)。概念工学を主張する哲学者も同様の見解のようである(Cappelen 2023)。後者については、まだ読んでない。フリーアクセスである。

とはいえ、学者がいくら良い仕事をしても、その内容が一般のアメリカ人に届かねば全く意味がない。そして、先の述べたように、アメリカでは、情報・書物にアクセスする基盤が全く欠けている。その事態を改善するためには、例えば公教育の整備が必要不可欠なのだが、それが制度に邪魔されてできない。

かくして、事態は完全な悪循環に陥る。(政治)学者がよい仕事をしなければならないのは当然として、マスメディアも本も新聞もコミュニティも機能しない中、学者が生産した情報をどうやって伝えるか。一つしかない。対面コミュニケーションである。

各地の見捨てられた地を訪れ、そこに住む人々の言うことがどれほど奇妙に聞こえようともそれに耳を傾け、握手し、ハグし、「また来る」と伝え、(ここが重要!)そしてまた実際に行くのである。この時、「説得」「啓蒙」などする必要など、全くない。

現メキシコ大統領アンドレス・マヌエル=ロペス・オブラドールは、改善しない治安やコロナに由来する経済の悪化にもかかわらず、一般のメキシコ人から圧倒的な支持を集めている。

このロペス・オブラドールに対し、メキシコの一部野党支持者や、外国の新聞雑誌(例えば英国のthe Economist紙など)は、「ポピュリスト政治家」などの悪口を安易に浴びせる。『ウォール・ストリート・ジャーナル』の日本版たる『日本経済新聞』の記事で、そうした論調の記事を目にした人もいるだろう。

だが、ロペス・オブラドールは、貧しく、先住民が多いメキシコ南部で、何があっても衰えない圧倒的な人気を誇っているのは否定できない事実である。どうやってそんなことが可能になったか。私見では、彼は政治家として頭角を現す以前から、それらの場所を、ずっと、数十年をかけて「歩いて」きたからだ。

そして、ロペス・オブラドールは今でも、とてもゆっくり、口語のスペイン語を話す。スペイン語が外国語である先住民たちにとって、そのようなロペス・オブラドールの気遣いが、どのような効果を持つかは、言うまでもない。ポピュラーでない方がおかしい。

ロペス・オブラドールは、数十年をかけて、その信頼を勝ち得たのである。揺るがない。日本の自民党のかつての政治家たちが、「有権者と握手せよ」と口を酸っぱくして言ったのも、田中角栄がそのあらゆる問題点にもかかわらず人気であったのも、同じ理屈であろう(内藤泰弘『トライガン・マキシマム』のクライマックス!)


内藤泰弘『トライガン・マキシマム』第14巻より


では、現在の難局を切り抜けるために我々はどうすべきか。大学に籍を置く学者は研究しなければならないし、政治家は有権者から(選挙に勝つためではなく)その信頼を得るためにあらゆる努力を講じなければならない。教師は教育しなければならない。ビジネスマンは「売り手よし、買い手よし、世間よし、三方よし」のビジネスをしなければならない。経済がまわらなければ我々は生きていけない。ラーメン屋は美味しいラーメンを開発しなければならない。美味しいものを食べなければ皆、ストレスで倒れてしまう。

『伝道の書』が言うがごとく、「すべて汝の手に堪ることは力をつくしてこれを為せ」。核の火によって我々が皆、焼かれて蒸発してしまう未来は、実際に到来するかもしれないである。その未来は、まだ僅かな可能性にすぎないかもしれないが、本当のものなのだ。最悪を予見して備える必要がある。

大上段に構えた後で話を戻すと、ここまで述べてきたように、アメリカの未来は明るくない。かなり暗いと言ってよいだろう。アメリカの軍事力とGDPで見た経済力は最後の最後まで、そう簡単には揺るがないだろうが、その中身はかなり腐敗していると見て、まず間違いないだろう。

もしかすると、私はアメリカ合衆国に向けて葬送論文を書く必要があるかもしれないと思っている。メインタイトルも、もう決まっている。『ザ・ロング・グッドバイ』。とはいえ、そんな論文を公表する日が来ないことも祈っている。

結局のところ、アメリカ合衆国によって、財閥は解体され、農地改革が行われ、女性を含む参政権が保障され、その安全保障のコストはアメリカが負担してきたが故に、現代日本・そして私という存在がある。

アメリカの占領統治は、おそらく歴史に類を見ないほど、賢明かつ善意に満ちたものだった。当時のアメリカ合衆国の政治家とエリート、そして学者たちも、まさに「賢者(wise men)」と呼ぶにふさわしい。

しかし、政治家もエリートも学者も、はっきり言って「頭が悪くなる」ことがある。政治においては、進歩するのはとてもとても難しい。「そういうものだ」(カート・ヴォネガット)。だからこそ、「傲慢」が大罪とされるのである。安易な悪口を言ってはならない。「人の事を馬鹿だと言う人が馬鹿だ」とは、小学校時代によく言われたことだが、まさにその通りだと思う。


最後に。「あらゆる角度から見て、状況はかなり悪い。これからよくなる見込みもあまりない。しかし希望は捨ててはいけない。希望は、最後の最後まである。とはいえ、早く手を打てれば打てるほど、あとが楽になる。正念場である。仕事をしよう、諸君!」。

私からは、とりあえず以上です。

参考文献

ダン、ジョン. (2012=2017)「等身大の民主主義観」『アステイオン 創刊30周年ベスト論文選1986-2016 冷戦後の世界と平成』(田所昌幸要約).

ニコルズ、トム.(2019)『専門知は、もういらないのかー無知礼賛と民主主義』(高里ひろ訳)みすず書房.

ブレナン、ジェイソン. (2022)『アゲインスト・デモクラシー』(井上彰・小林 卓人・辻悠佑・福島弦・福原正人・福家佑亮訳) 勁草書房.

ホックシールド、アーリー・ラッセル. (2018) 『壁の向こうの住人たち―アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』(布施由紀子訳)岩波書店.

American Political Science Association.  (1950=2012)  Toward a More Responsible Two Party System: A Report.

Cappelen, Herman. (2023) The Concept of Democracy: An Essay on Conceptual Amelioration and Abandonment. Oxford University Press.

Cramer, Katherine J. (2016) The Politics of Resentment: Rural Consciousness in Wisconsin and the Rise of Scott Walker. The University of Chicago Press. 

Ostrogorski. Moisei. (1982) Democracy and the Organization of Political Parties. Volume II: The United States.  Edited and Abridged by S. M. Lipset. Transaction Books.

Rosenbluth, Frances McCall and Ian Shapiro. (2018) Responsible Parties: Saving Democracy from Itself. Yale University Press.


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