中世~近世の海洋シルクロード

イントロダクション

こんにちは、こんばんは、おはようございます!
Renta@マレーシアから国際関係論について考える人です!今回は、14世紀~18世紀ごろの海洋シルクロード(主に中華帝国と東南アジア)における貿易を見ていこうと思います。


貿易という観点から中世~近世の中華帝国史を振り返る

シルクロードは中華帝国が大きなエンジンとなっています。現在もですが、中華大陸は大規模な人口を擁しているため、生産力も市場も大きいからです。そこで、貿易という観点から中華帝国の歴史を振り返ってみましょう。

唐(618-907年)、宋(960-1279年)、元(1279-1368年)の時代の海外貿易は主に国家が管理し、ペルシャ人、アラブ人、南アジア人などの非中国人商人によって行われていました。唐の時代には広州だけが貿易に開放されていましたが、宋の時代には9つの港が開放されました。


広州の位置

貿易相手としてはジャワ・スマトラ(現在のインドネシア)、シャム(現在のタイ)からの大型「ジャンク船」が毎年広州に寄港していました。東南アジアの製品に対する中華帝国からの需要は唐と宋の時代に増加し、特に香料や薬用植物が受容されました。元の時代には早くも中華帝国は世界最大の胡椒市場になっていたとされています。12世紀までは、中華帝国での貿易のほとんどは西アジアや東南アジアの船で行われ、宋の時代になって初めて中華民族が海洋ジャンク船を使いこなすようになったとされています。

前回のnoteで見たモンゴル帝国は、中華帝国の貿易パターンにも影響を及ぼしています。

北中国のモンゴル占領により、宋は南の杭州に退くことになります。これによって、中華帝国の貿易は陸路から海路にさらに比重を増やすことに繋がりました。というのも、中華大陸は地理的に北部の方が陸のシルクロードのアクセスに適しており、南部は海のシルクロードへのアクセスに適していたからです。


南宋とモンゴル帝国

1293年のモンゴルのジャワ侵攻は、中華帝国への貿易の増加を促しました。ジャワ侵攻において多くの中国人が捕らえられたのですが、彼らは16世紀に大型貨物船の建造につながる中華帝国の海洋技術をジャワへ移転したとされています。というのも、後世のジャワの船は中華帝国とジャワの混合的な特徴を持っていたからです。

ですが、モンゴル帝国自体は明帝国によってモンゴル高原に追いやられ、中華大陸は明帝国が支配することになります。

明帝国の1400年頃に貿易が急速に発展しました。これは鄭和(ていわ)の大遠征によるものです。遠征は1405年から1414年の間に3回、次に1417-19年、1421-44年、1431-33年の計6回行われました。


鄭和の大遠征

鄭和は初期の航海においてマラバール(現在のインド西部)から非常に多くの胡椒を持ち帰ったため、中華帝国における胡椒の価格が下落し、かつての高級調味料であった胡椒が大量消費の対象となったとされています。

鄭和の大遠征はヨーロッパにも影響を及ぼします。鄭和が胡椒を大量購入したことで、ヨーロッパでは胡椒の供給が減少します。よって胡椒の価格が急騰したのです。ヨーロッパが大航海時代を始めた動機の1つに東南アジアの胡椒の価格高騰があるので、鄭和の大遠征は関係があるのかもしれません。

世界の一体化

モンゴル帝国の拡大やそれに対する抵抗運動、またヨーロッパの大航海時代によって、世界が貿易によって一体化してきます。

東南アジアは、スパイス、薬用植物、高級品、乾燥海産物、米などを北東アジアに輸出し、その見返りに絹、陶磁器、金属製品、銀などを受け取り、それらをインドとの貿易で綿布や織物と交換しました。また、スペインにより1571年にマニラが設立されます。これにより、新世界の銀がアジアに直接流れ込み、さらにヨーロッパに運ばれるようになりました。

世界の一体化と銀の交易路

近世中華帝国と東南アジアの貿易

貿易によって一体化した世界をもう少し細かく見てみましょう。

14世紀から19世紀にかけての東南アジアと中華帝国との間の貿易の大まかなパターンは、周辺部と中心部の関係を反映しています。具体的には、労働力が豊富な中華帝国が労働集約型の製造品を輸出し、東南アジアから土地集約型の天然資源製品を輸入するという、貿易パターンです。中華帝国への輸出品には、農産物、森林製品、海洋製品、金属鉱石、宮廷の消費財などのさまざまな製品が含まれていました。一方、中華帝国は製造品、特に絹、陶磁器、金属製品を東南アジアに輸出していました。17世紀からは、これらの製品がますますヨーロッパに輸出されるようになりました。

しかし、16世紀にヨーロッパ諸国がアジアの貿易に参入したことで、商品の流通のパターンが変化しました。ポルトガル人が1511年に広州で初めて磁器の積み荷を購入した後、彼らは17世紀にオランダの東インド会社に追い出されるまで、中欧陶磁器貿易を支配しました。そして、18世紀初頭からは英国の東インド会社がオランダの東インド会社を追い出します。

明から清への内戦へと移行する際、内戦のため海洋排除政策が施行されていたので、オランダは数十年間日本から磁器を調達していたそうです。鎖国してキリシタン大名を攻撃した徳川幕府がなぜキリスト教国であるオランダと貿易を認めたかというと、オランダはキリスト教の中でもプロテスタントでカトリックよりは布教に積極的ではなかったからです。反対に、追放されたポルトガルやスペインはカトリックでした。

18世紀後半になると、ヨーロッパ勢力がついに同等の品質の中国製品を生産するノウハウを獲得し、中国からの磁器の輸入は減少しました。19世紀の20~30年代には、中国からの輸入は利益を生むものではなくなりました。

まとめ

主に中華帝国を中心として、中世から近世における海洋シルクロードの変遷を見てきました。
基本的に中華帝国は莫大な人口を擁しているのでそれが大きな市場力に繋がっています。また、人口が多いということは優れた人間も多いので、技術力も優れていました。

よって、中華帝国はモンゴルを始めとする遊牧民族に悩まされていない限り、海洋貿易を拡大します。興味深いのは、鄭和に代表されるように中華帝国の購買力がヨーロッパの大航海時代に影響を与えていたかもしれないということです。

前回のnoteで見たモンゴル帝国がもたらした様々な影響が、ヨーロッパの近代の発展に繋がったように、中華帝国である明帝国の経済力や技術力によってヨーロッパの近代が始まったということが言えます。

最後までお読みいただきありがとうございました!

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