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遺伝子が喜ぶということ

以前書いた「地方に移住してコミュ力が上がった話」中に「自分の遺伝子が喜ぶのを感じる」という文言を含んでいたのだが、それについて書こうと思った。

デザイン学校に通っていた時、ろくに真面目に授業に向き合っていなかった劣等生の私にも今でも記憶に残っている学長の話があった。

自分たちが追求している「美しいデザイン」の目標とは何なのでしょうか、という趣旨の話の中で「夕暮れの空を見た時に美しいなぁと思う、あの自然の美しさに少しでも近づきたい。」というような事を言っていたのが心に響いた。


宮城県に来て、古い旅館や古民家カフェなど、日本の昔ながらの家屋に立ち寄る機会が多いのだが、そこでこう感じる。

「ああ、とても居心地がいい。日本人に生まれてよかったなあ。」


畳に触れる足裏の感覚、引き戸を引いて頭を屈める若干の窮屈さ、格子と差し込む光のコントラストに、所謂「懐かしさ」という感覚を含めた美を感じる。

この感覚は当たり前の様なのだが、私にとっては少し違って思える。

物心ついてから両親の田舎などへ行った事は勿論あるのだが、誰もこの様な古い家屋には住んでいなかった。まして親の実家は沖縄なのでそもそも日本の故郷という風景とは少し異なっていた。

一度もそんな所に住んだことも親しんだこともないので、「懐かしい」わけはないのだ。

でも、なぜここに居心地のよさ、懐かしさ、美を感じられるのだろう。

そこに、自分は見ていない記憶の引き出しがあるとしか思えない。その遺伝子レベルの記憶に、私たちの審美性が培われているのだろう、と思うのだ。

美は人間の核に通じていくのだろうが、とても不思議な感覚だ。

その不思議な感覚こそが美という一言に集約されている、というかそう表現するしか術がないのかもしれない。


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