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虚無、日常、鯨群 〜叙事詩『月の鯨』第一の手紙(5)~

クエクエが大切に祀り上げていた小便小僧
床に転がって埃だらけになっている
オレは布で磨き、棚に載せてやった
淫祠邪教の偶像とはいえ胸が痛む
クエクエは寝台に半身を横たえ
宙を見ている
目が死んでいやがる
信じるものを失い、虚無の中にいる
気の毒ではあるが、大袈裟なんじゃないか

彼ほどではないにしても
船員の多くは意気消沈していた
毎夜のように聞こえていた
三千世界のマントラはもう聞こえてこない
船は静まりかえっていた
一方でお調子者の船員たちもいた
・・・我が船長とともに月の鯨への復讐劇を断行
・・・化け物退治を成し遂げて英雄となる
かなり意気上がっているようだ

これが船長のねらいだったのかね
自らの復讐劇に船員たちを巻き込み
憎き「月の鯨」を叩きのめす
海坊主退治劇も船長の仕組んだ演出だったか…
たが船長の企みはまだ道半ば
船長代理なんかはクールな奴で
「月影」っていうあだ名がついてるんだが
・・・船長は個人的感情に捉われている
・・・国家プロジェクトに私情を持ち込んでいる
・・・リーダーとしての資質に問題あり
なんて陰口をたたいている
だがクワバラ、クワバラ
船長の目の前ではそんなことはいえない

変なことは起きるものの 基本的に船の日常は単調だ
事件なんてたまにしか起こらない
ただひたすら、よるべなき、果てしなき海に揺られ
ゆくえ知れずの白き妖獣を追い求める
オレたちの毎日の仕事は甲板の掃除
次に道具の手入れ
週に一遍くらい見張りの役がまわってくる
一方
高級船員たちは特別室にこもって
海図の分析をしている
つまり、月の鯨はいまどの辺にいて
どんな航路をたどれば標的に出くわすことができるのか
数キロのズレだったら何とかなるが
数百キロもズレてたら話にならない
奴が地球上のどこにいるかなんてわかりゃしない
ただ、どこら辺を泳いでる可能性が高いか
季節と天候、鯨の習性等を踏まえ
長年の経験に基づいて予測
奴に遭遇できる確率を上げていく
何しろ地球が丸いことがわかったのがつい最近のことだからな
結局は野生の勘にたよるしかないんだ
船長の奴
勿体ぶって立派な海図を並べてコンパスをまわしたりなんかしているが
果たしてどの程度の目算があってやってんだか
あいつはシェークスピア劇の魔女役でもやってるのがお似合いだと
オレは誰にも聞こえないように陰口を叩く

今夜はクエクエと二人で見張り当番に当たっていた
マストをよじ登って見張り台にたどり着く
天候のよいとき
ここから見渡せる景色は素晴らしい
360°の水平線
彼方までの海の様子がくっきりとわかり
海風が心地よく目が覚めるようだ
天候が悪いとたまったものではない
何も見えないだけでなく、下手すると墜落して命を失う
風雨激しく、マストは今にも折れんばかり
まともに息もできないまま数時間を過ごすことになる
だが今夜は素晴らしかった
月が煌々と照っていて、真夜中でも水平線が見える そして
オレたちは神秘なる光景を目にしたのだ
船が進んでいく方向のはるか右前方
数十あるいは数百もの噴水が
月の光に照らされ煌めいている
クエクエはうわごとのように
(アンサン、クジラ、アル、クジラ、アル)
それは久々に聞いたクエクエの声だった
彼の声は大きくなり、叫ぶように
(クジラ アル!  クジラ アル!)
それは鯨の群れだった
この航海で初めて見た鯨の姿だった
数百もの鯨の群れが白銀の潮を吹いている

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