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天草騒動 「20. 天草四郎を大将に立てる事」

 ここに天草四郎という者がいた。

 父は肥前国島原領原村の大庄屋(二十二か村、石高一万石の庄屋)で渡邊小左衛門といい、母は天草甚兵衛の妹であった。

 夫婦の間に男子が生まれ、生まれてからまだ七日しかたたないのに目を動かす様子は百日も過ぎた幼児のようであった。色白で二歳から言葉をよく理解し、三歳で書をしたためたり謡をうたったりするなど、おとなのようであった。それを見る者は皆不思議なことと感じた。

 父の小左衛門はもともと博学多才であったが、その子の四郎も父に劣らぬ秀才で、学問と剣道を好み、常に伯父の甚兵衛に親しんでいた。また、千々輪の弟子になって剣術を学び、蘆塚にしたがって軍学を習った。生まれつき器用で利発だったので、一を聞いて十を知り、かねてから六人の浪士と懇意にしていた。また、ひそかに切支丹宗を信仰し、折りにふれて奇術をおこなったので、人々は耶蘇の再生ではないかと噂していた。

 本人ももともと百姓の仕事を嫌い、大きな志を持っていたので、このたびの騒動を羨ましく思って、ひそかに父母にかくれて天草島に渡って様子を見ていた。頭分かしらぶんの者はそれを知っておおいに喜び、四郎をさまざまにもてなしていろいろ語り合った。

 頭分の者たちは、

「このたびの一揆は大将がいなければいけない。天下の兵を相手にするからには、一揆を成功させることができなければ滅亡しかない。我々の中から大将を選ぶと、皆困窮した浪士ばかりなので、百姓たちは軽く見て心服しないだろう。大将の権威がなくて人が協力しあえなければ、戦いに敗れるもとになろう。

さいわい四郎はまだ若いものの、その器量は大将にしても恥ずかしくない。その上、四郎を大将にすれば父の小左衛門も味方になろう。そうすれば一万石の百姓が皆したがうに違いない。

そうして長崎の港を手に入れることができれば、異国との往来が自由になって、南蛮はもちろんのこと西洋諸国とも示し合わせることができよう。異国の軍勢を後ろだてにすれば、日本国中を敵に回しても恐れることはない」と相談して、誰もが四郎を総大将にしたいと言った。

 四郎も今度の企てを羨ましく思っていたところなので内心は喜んでいたが、一応辞退して、
「おのおのがたの思し召しは光栄ですが、不肖のそれがし、第一に軍学に不案内で大勢を指図することができません。おそらく百姓どもはそれがしの下知にはしたがいますまい。大将の儀はおゆるしください」と言って承知しなかった。

 蘆塚が、
「そのことならご安心ください。軍令その他は我々一同が相談して大将を補佐します。また、百姓どもをしたがわせる方法もあるでしょう。どうか総大将になってください」
と勧めると、四郎は、
「それではおのおのがたの仰せにしたがって、身不肖ではありますが大将になりましょう」と、同意した。

 「それでは」と言って四郎を上座にすわらせ、十七人の者は四郎を大将軍と敬い、まず大勢の百姓どもをしたがわせるためのはかりごとをめぐらすことになった。

 すぐに垂幕を張り、たくさんの料理をつくって酒肴をととのえ、餅をついて軍神を祭り、八千三百余人の百姓にこれをふるまった。膨大な量の食べ物であったが少しも倹約せず、上下うちまじっての酒宴が数刻に及んだ。

 頃合を見計らって蘆塚たちが、

「このたびの企ては宗門が盛んになる元で、天帝の御加護によって我々がこのように集まっているわけですが、総大将がいなくては大義を達成するのは難しいでしょう。ところがここに、奇代不思議の大将、今判官ともいうべき四郎殿がご来臨になっています。今日から総大将と仰いで、皆、安心して喜びなされ」と言った。

 それを聞いて百姓どもは、なんの思慮分別もなく喜び勇んだ。

 五人の古老、十二人の評定衆、六人の隊長は、威儀を正し、列座して四郎をもてなした。四郎のその日のいでたちは、下に白無垢、上に紫綸子を着て、紋紗の長上下かみしもをつけていた。黄金作りの脇差しを横たえ、同様の太刀を手にさげて悠然として現れたありさまは、歳は十七、色白で、眉が秀で、威あって猛からず、まことに義経の生まれ変わりともいうべき姿であった。

 古老、評定衆、隊長らが平伏して、「総大将様出御しゅつぎょ」と言うと、百姓どもはこれを伏し拝んだ。

 四郎が床几に腰掛け、参集の人々に一通り会釈すると、古老の者が進み出て、

「ここに集まった者どもは、いずれも耶蘇宗門を信仰し、皆、死をもって誓った者たちでございますから、今後必ず御下知を守るでしょう。今日はすべての始まりの日ですから君臣の御約束をしてください。御大将は、天帝の御加護によって不思議な妙術をあらわされると承っております。なにとぞ人々にその奇特をお見せください」と願った。

 四郎はそれを聞いて、「たやすいこと」と言いながらおもむろに立ち上がって、扇を開いて島の方を三度あおいだ。すると不思議にも、島に四五十の松明が同時に燃え立った。

 百姓どもはおおいに驚いて、
「さてさて不思議なことだ。このような神通力を自在にあやつる御大将を得たからには、簡単に敵を破れるだろう」とおおいに喜び勇み、これこそ義経公の再来であろうと皆が四郎を敬った。

 これは前もって蘆塚が仲間を離れ島に遣わしておいて、合図に応じて火を上げさせたのである。

 ある書物では次のように述べられている。

 六月に天草島の村々に次のような噂がとびかった。

 昔、豊臣公の御代に切支丹宗が御禁制になり、天草の上津浦にいた破天連が追放されて本国に帰る時、ある人に、「これから二十五年の後、この地に奇童が生まれるであろう。これこそ天使あまつかいである。その時必ず不思議がおこるであろう。」と語ったことがある。渡邊四郎殿は誕生の年がその予言に一致していて、天才英知非凡なのはまさしくその天使だからに違いない、というものであった。

 ひそかに切支丹宗を信奉する人々が彼を敬い尊び、ついに十月七日、四郎を破天連(教師)にし、名を四郎大夫時貞と改めさせ、天草大矢野宮津で教会を開いて天主教の法を説かせた。

 すると、それを聞いて同月九日、上津浦の大庄屋の一郎兵衛という者が時貞を迎えて説法させ、村々の者を招いた。

 たくさんの老若男女がわれもわれもと集まったが、皆半信半疑の様子だったので、重々しく見せかけて人々に信仰させようと考えて、時貞は浅黄無垢の下着と紫綸子の上着を着て、空色の肩ぎぬに萌黄琥珀の袴をつけ、金銀をちりばめた小刀を差し、威儀を正してしずしずと上座に着いた。

 一郎兵衛をはじめ一同うやうやしく礼拝してこれを敬った。

 四郎は手に渾脱こんたんをたずさえ(天主教の数珠を渾脱という)、人々に説いた。

 「あなたたちはたまたま儒仏道の三教が滅び天主が世を治める時に生きてはいるが、その身を憐れんでいただくことを天主にお願いする方法を知らない。今月十五日、肥前肥後の両国に必ず変事が起こるであろう。ただ一心に天主を信じる者はその災いを免れることができよう。もしもこれを疑う者がいれば、その者は災難を逃れることができない。これを決して疑ってはいけない。

 このように言っても、汝らは切支丹宗の尊い効験を見なければ疑念を晴らすまい。そこで私が今その確証を見せよう。」

 こう言うと、天に向かって呪文を唱えた。すると、一羽の鳩が天から舞い降りて卵を産んだ。人々があやしんでこれを見ると、その中に天主の像と経文の巻物が入っていた。鳩は辞伊坐辞伊坐ずいそずいそと三回鳴いて再び空に飛び去った。

 それを見てその場に集まっていた男女二百余人は皆不思議に思い、驚いて宗門に入った。

 また、天草玄察と下津浦の庄屋の治兵衛は、二人とも天主教の信徒のうちでも大物であったが、ある日天主教を信仰していることを隠して宮津の教会に行き、四郎の説法を聞いていた。

 やがて両人が進み出て四郎太夫に向かい、
「わが国は神明が統を垂れてから、これに儒仏の二教を加え、数千年間それ以外の異端の教えを認めぬ国体である。それなのに、おまえは乳臭いくちばしを叩いてわが良民を惑わすとは何という妖児だ。今おまえが説いた天主という怪物は何者だ。その本性を白状しろ。もしも白状しなければ、ただちにこの道場を打ち壊してやる。」と、ののしった。

 時貞は、静かに答えて言った。

「人にはおのおの信ずる道がある。あなたたちが三教を信奉するとしても、私は私が信じるところを信じているだけだ。」

 玄察と治兵衛がおおいに怒って時貞を壇上から引きずり下ろそうとすると、両人は口をもごもごさせてものを言うことができなくなってしまった。そして、両足がしびれて思わず尻餅をついてしまった。

 くやしがって立ち上がろうとしたが、ますます五体がすくんで動くことができない。さすがの両人も困りはてた様子で、ただしきりに四郎の方に向かって何か言いたげな身振りをするだけだった。 

 四郎は両人に向かって、
「あなたたちの様子では、いかにも後悔しているようだ。私の宗門は過ぎ去ったことを咎めない。先非を悔いれば私が天帝にお詫びをしてあなたたちを元の体に戻してさしあげよう。今から宗門に入りなさい。」と言った。

 それを聞いて両人がうれしそうにこうべを垂れたので、四郎が呪文を唱えて両人をさしまねくと、ただちに二人とも動作や言葉がもとに戻った。それを見ていた者は一同仰天して、「なんと明白な罰と利賞か」と舌を巻いて感心した。

 またある日、年老いた狂女を縛って教会の前を通る者がいた。四郎はこれを憐れんで教会に呼び入れ、どんな容体かを尋ねて本尊の前に連れて行き、呪文を唱えながら手で三回頭を撫でた。するとその狂女は「あっ」と言って倒れたがしばらくすると立ち上がって、夢が覚めたようにもとの常人に戻り、はずかしそうにお礼を述べた。それを見て、付き添ってきた者は驚き、「おかげで老母を救うことができました」と平身低頭して尊び、ただちに門徒の中に加わった。

 このようなできごとがあちこちに伝わったので、我も我もと人々が参詣して、ほとんどの者が天主教を信じるようになったという。

 これは、蘆塚忠右衛門が浪士たちと密かに謀り、それぞれ腹心の者を病人や問答人に仕立ててこのような不思議な術を人々に見せたもので、愚民を自分たちの仲間に引き込むための策であった。

 かくて四郎は全軍に次のように命令を下した。

「合戦というものは、武士百姓の区別無く心を合わせ、自分が功をたてることを考えずに、敵を破ることだけを考えることが重要である。そうすれば寺澤や松倉らがこれまで非道な振舞いをして民を虐げてきた恨みを晴らすことができよう。

長崎を攻め取って異国と往来できるようにし、西国を打ち従えて武具と兵糧を貯えれば、そのうち異国の大軍が押し渡って来て救援してくれるはずである。万一味方が敗れたら、天帝の御名を唱えながら討ち死にし、名を万世に残そう。生きているうちは富貴栄耀の楽しみができ、死んだ後は上天菩薩となって敬われること疑いない。ただ何事も我らの下知に従われよ。」

 これを聞いて百姓どもは頭を下げ、「愚盲の我ら、御下知を守り、死を覚悟致します」と、いっせいに答えた。

 さて、大将ともあろうものが無位無冠では威厳がないと、にわかごしらえの席を設けて従四位肥前守渡邊四郎大夫時貞と号したので、本当に大将らしく聞こえた。

 何を思ったか、これを伝え聞いてほかの村々からも酒肴をたくさん携えて来て、「大将軍を決められたということで、おめでとうございます。なにとぞお味方させてください。」と申し出てきた。

 他国と違い、この島ではこの秋、ことのほかの豊作で作物が十分にでき、この四五年の不作を一気に取り返すことができたので、酒をたくさん造り、餅をついて兵糧をたくさん貯え、軍勢はおよそ一万余人にも及んだ。

 唐津の城には天草からの注進が次々と伝えられたが、原田伊予は三宅をおとしいれるために軍勢の派遣を遅らせて、ただ評定に時間を費やしたり、江戸表に注進したりしていた。そして八月二十一日になってやっと富岡城へ救援の兵を出した。

 まず唐津城の留守居として寺澤勘兵衛(兵庫頭の弟である)と足軽、城付役人、奉行、頭役ら三百余人を残し、城代の原田伊予とその配下の武士十四騎・足軽三十人、番頭(ばんがしら)の岡部次郎左衛門・島田十左衛門・大竹嘉兵衛・渡邊卜庵、鉄砲がしらの深木七郎右衛門・小笠原齋宮いつき・稲田軍兵衛・関甚左衛門、およびその配下の三十人づつの組鉄砲百挺、槍奉行蘆田八右衛門、目付深木重兵衛およびその配下の七十騎、総勢合わせて二千人余りが、寛永十四年八月二十一日に唐津を出発して天草へ向かい、島子と平戸の港に到着して一揆の動静をうかがった。

 一揆の者たちは早くもこれらの事実を聞き付けて謀計をめぐらし、島子と平戸の住人を家に帰らせて何事もないふりをしていた。

 その上で才知ある者を選んで二つの村の庄屋や組頭に仕立て、さまざまな酒肴を用意して浜辺に行き、原田の乗った船の前に平伏して、

「ご出馬の段、恐悦至極に存じます。さて、このたびの一揆では大勢のやからが徒党を組んで次々と蜂起し、渡邊四郎という大将をいただいて、一万人余りが集まって、まだどこへも出陣しておりません。

この島子、平戸の両村は家の数が多く、石高は二千石あまり、人口は二千余人ございます。耶蘇宗門になった者は一人もおらず、村じゅう残らず浄土宗の者で、両村の檀那寺は島子村の西法寺でございます。一揆のやからがしきりに催促して味方になれと言ってよこし、もし味方にならなければ大勢で押し寄せて攻撃すると言ってきておりますが、わたしどもは公儀を恐れ、いっさい同意致しておりません。

先日一揆どもがお役人を殺害したことは、言語道断のことでございます。しかしながら、これまであまりに年貢の取り立てが厳しかったため、おそれながらお恨み申し上げてのことでございましょう。皆様のご出陣の風聞を聞きつけて、幾重にもお詫び申し上げようと申しておるという噂を聞いております」と、まことしやかに述べた。

 原田伊予はこれを聞いてうなずき、
「なるほど、武士が押し寄せるのを見れば後悔するのももっともであろう。まずもって両村の者が耶蘇宗に従わなかったことは神妙である」と言いながら、船から降りた。

 日頃不仲の三宅の鼻を明かし、彼の不行き届きを言い立てて自分一人の軍功にしようとたくらんだため、今日到着したということを富岡城に知らせず、うかうかと一揆の謀計に乗っておおいに不覚を取ることになるのである。

 唐津勢は残らず上陸して芝の上に陣を張って休息している時、鉄砲頭の深木七郎右衛門が進み出て、原田を諌めた。

「一揆のやからがこの村に限って仲間に引き込めなかったとは、心得難いことです。また、このようなことは富岡からもまったく注進が来ておりません。庄屋どもの様子は、弁舌巧みで何か裏があるように見えました。なにとぞよくお考えになってください」

 しかし、原田は三宅の功を奪うことばかり考えていたので、「なるほど、そこもとの申されることも一理ある。この件はおって相談することにしよう」と言っただけで、それほど同意した様子ではなかった。

 深木はどうもおぼつかなく思い、「本当に一揆にくみしていないかどうか、寺を調べるべきです。」と勧めた。

 原田はもっともなことと思い、庄屋と組頭に寺を調べることを申し渡すと、
「まったく御懸念なさる必要はございません。両村は石高二千石余りなのにたった一つしか寺がございません。普請を広く作ってありますから、寺を皆様の御陣所として用意してあります。おいでになってご吟味ください」ということだった。

 これらの庄屋組頭六人のうちに布津村代右衛門が庄屋として加わっており、彼がさまざまに取り計らってうまく申し述べたので、原田伊予らはこのような謀計があるとは夢にも思わず、もっともなことだと思って島子村へ赴いた。


21. 森布津村の者ども唐津勢を欺く事

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