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天草騒動 「15. 天草島浪人森宗意軒の事」

 九州の肥前は十一郡六十万石の大国で、西南は海で左は薩摩潟、後ろは筑前筑後、また、海の向こうの西方には長崎の港を望むことができる。

 沖には五島平戸の島々があり、自由に行き来することができて、天草島、硫黄島、小布島こしきじま、種子島を初めとする八十やその島々や琉球島が入り組んで並んでいる。

 八十島やそじまのうち天草島は大きな島で、知行高は五万石あり、郷村は百に及んでいる。

 唐津と富岡は十二万石の城主、寺澤志摩守の領地で、至って裕福な土地である。

 九州は日本の中では辺鄙な土地で、もともと勇士や名士で世をはばかる者や、時を待つ者が忍び住まいするのに良い場所である。たとえば長崎は、昔鎌倉の合戦で足利尊氏の軍勢を破った長崎為基が、のちに肥前に逃げ下って隠居したところなので長崎と呼ばれているのである。

 当時は国家は平和で徳川公の御威光が万里に輝き、誰もがその御威光に服して四海平穏であった。ところが天草には関ヶ原の残党や大阪方の余類が多数逃げ込み、縁を求め伝手つてを探してあちらこちらに住んでいた。

 その中に、森宗意軒そういけんという者があった。

 彼は以前、小西摂津守行長の近習を勤めていたが、関ヶ原の合戦で摂津守が滅亡した際に主人の遺言として、徳川家の天下を覆してわが志を立てよと命じられ、命をながらえてこの島に隠れ住み、世の中が乱れるのを待っていた。

 ある日、森宗意軒は、釣りをしようと天草島小柳の瀬戸という山海の景色がよくて言葉で言い表せないほど眺望のよいところに出かけて行った。そして、あちらこちらを見回して一つの岩の上に場所を定め、何事も考えずに釣糸を垂れていた。

 そこへ若い武士が武者修行の様子で船から上がって来た。そして、宗意軒の方に歩み寄って、「御老人、ここは何という場所か教えてくだされ。」と問いかけた。

 宗意軒がこの人物を見ると、まだ二十歳に満たない若輩者ではあるが、色白で眉がひいで、天晴れな人相で、言葉づかいといい尋常な者ではなかった。

 近くにさし招き、「ここは天草島の小柳の瀬戸という場所です。あなたはどこの者で何の用があってここに来られたのか。」と言うと、「それがし、生国は駿河、名は由井民部之助橘正雪と申す者で、日本中を武者修行致しているところです。」と答えた。

 宗意軒が、「武者修行しているというと、兵法、武術の両方か」と問うと、正雪は「そうです」と答えた。

 宗意軒がまた正雪に向かって、「日本をどのくらい回り、どのような者に出会ったか」と尋ねると、正雪は、「日本はおよそ四十ヶ国あまりを回り、多数の者と舌戦はもちろん、立ち合いも数十度に及んでいますが、これまで一人も頼るべき程の人物はいませんでした。」と答えた。

 それを聞いて宗意軒は莞爾と笑い、

「私が考えるにそなたの行いはただ一人の勇であって大将の道ではない。腕力だけでは、一度に戦えるのはわずか数人にしかすぎぬ。これは天下に将となる者の望むべきことではなかろう。そなたがこれから大丈夫の道を学ぼうと願うのなら、私の言うことに従われよ。」と、言った。

 正雪が怒りを浮かべて宗意軒に近付き、「私のなす事がただ一人の勇だとはどういうことか」と問い詰めると、宗意軒は、「大将の道というのは、上は天文運気に通暁し、下は地理に通達し、百万の軍勢でも自分の手足のように自由に動かし、はかりごとを帷幕の内にめぐらし、千里を隔てた場所で勝利を決し、十能六芸すべてを備えていることをいうのだ。」と、静かに答えた。

 正雪が、「それではあなたは天文運気に通暁されているのですか。」と尋ねると、宗意軒は、「私が会得した天文運気の法は、唐土の孫子や孔明が秘していたもので、世に言う幻術というのがそれだ。私はそれをすべて伝え受けている。

「かの有名な孫子は鬼谷子きこくしという人の門弟になって、天文運気を計る術を伝授された。ある時、孫子が山の中を歩いている時、延達えんたつ独狐陳どくこちんという二人の賊徒に襲われたが、逃げ道が無かったので急いで木の生い茂った中に走り入り、伝授された秘法の呪文を唱えた。するとたちまち黒雲が四方に起こり、数万の樹木がすべて軍兵になって二人の賊に撃ってかかるように見えたので、二人の山賊は驚いて逃げ失せた。

 孫子は何事も無かったかのように自分の家に帰ったが、今夜また賊徒達が家を襲ってくることを予想して、石を敷き、縄を張って、伝授された法のとおりにしておいた。すると、予想に違わず例の二人の賊が大勢の手下を率いて夜中に襲ってきた。

 ところが彼らが孫子の家の庭に入ると同時に、四方から黒雲が起こって大きな石がたくさん降って来て、ある者は石に打たれ、またある者は石につまずいて、暗闇の中で方向がわからず、石に当たって多くの手下が死んでしまった。二人の賊徒は再び恐れおののき、先非を悔いて孫子に帰順し、その後は孫子に危害を加えようとしなくなったという。」と、語った。

 それを聞いて正雪は地上に平伏し、「それがしが諸国を修行して回っていたのは、そのような道を伝授していただきたいと願っていたからです。あなたがそのような秘法を取得していらっしゃるのなら、それがしの執心を憐れんで何とぞその秘法をお授けください。」と、たのんだ。

 宗意軒が彼の様子をよく観察すると、並の人物では無いようであった。

 そこで、この男に切支丹の法を伝えておけば大望を達成するための一助にもなるであろうと思い、「どうしてもこの秘法を身につけたいのなら伝授してさしあげよう。」と言って、正雪を近くに来させた。

 彼の目をキッと見て、「今、貴公の人相を見たところ、天下を覆そうという大望があるのであろう。しかし、五十歳に満たないうちに剣難を受ける相があるので、その大望は成就できまい。ただしそなたの名は末代まで残るであろう。あるいは、もしも大望さえあきらめれば、一生富貴で八十歳まで生きられよう。この二つのうち、どちらをとるか。」と質問して、彼がどんな返答をするか試した。

 正雪は、「富貴で長命であることは凡人が求めることです。人は一代、名は末代といいますから、たとえ大望を成就できなくとも名を末代に残すことがそれがしの望むところです。」と思いつめた様子で答えた。

 宗意軒はこれを聞いて、「それでは、幻術の一端をご覧にいれよう。」と言って、手に持った釣竿を海の中に投げ入れた。すると、竿はたちまち一丈ほどの魚に変わった。宗意軒はこの魚に乗って、まるで平地を行くように波の上を行き来した。

 正雪はこれを見て手を打ちならして感心し、いよいよこれは凡人ではないとわかって尊敬し、「それにしてもあなたはどんなお方なのですか。もしよかったら素性をお聞かせください。」と、尋ねた。

 宗意軒は莞爾と笑って、
「私はこの島に住む森宗意軒という者だ。もとは小西摂津守行長の家臣で、秀吉公の御代に阿蘭陀おらんだに渡り、その国の人の弟子になってこの法を伝授された。その後、摂津守は関ヶ原の合戦で滅亡してしまった。私は乱を逃れてこの島に渡り、ここで年月を送ってきたのだ。」と、答えた。

 正雪はこの物語を聞き、小西の家臣ならまさしく切支丹の法に違いない。私が大望を遂げる手段としてはこれ以上のものは無い。今、天文運気の秘法を伝え受け、師弟となっておけばのちのち役に立つに違いない、と考えた。

 このようにお互い心中の大望のために師弟の約束を交わしたので、宗意軒は正雪を連れ帰り、半年余り自分の家に滞在させた。そして、天文運気幻術に至るまで残らず伝授し終えた。

 この宗意軒が仕えていた小西摂津守は、もと泉州堺の町で薬種商を営んでいた小西弥九郎という者である。ある年、商用で長崎に行った時、阿蘭陀人に耶蘇宗門の法を受けた。また、その身は武勇にすぐれていたので太閤秀吉公に仕え、だんだん立身して肥後半国の領主となって小西摂津守行長と名乗った。

 太閤が朝鮮を征伐した時、朝鮮で軍功を立てたが、その後、大阪夏の陣に破れて切腹の時が至った時、蘆塚あしづか忠右衛門ちゅうえもん、森宗意軒の両人を呼び寄せて、

「このたび味方は武運つたなく滅亡することになった。おまえたちはここから逃れ去り、時期を見計らって味方の者を集め、必ず天下を覆せ。そうすればわしのために千僧万僧を呼ぶよりもずっとよい供養になろう。ぜひともわしの志を継いでくれ。」と遺言して切腹して果てた。

 その後、宗意軒は亡君の遺言に従って反乱を起こそうと計ったがなかなか力及ばず、天草島に来てむなしく隠れ住んでいたのである。その折りも折り、正雪に出会って名乗り合い、互いに親しくつきあってなにごとも惜しまずに教えを授けたのである。

 器量のすぐれた正雪であったから、一を教えれば十を知り、宗意軒も不思議な若者と感心した。

 ある時、正雪が宗意軒に向かって、
「師弟の約を結んでから半年余り足をとどめ、その間さまざまな御教示を授けてくださったご厚恩は山よりも高く、お礼の言葉もございません。今後犬馬の労をもつくすべきではございますが、もともと日本国中を回りたいと志願していましたから、一度お暇をたまわり、修行を終えたら江戸表に出たいと思っております。江戸に落ち着いたらその折りにお礼かたがたご案内申し上げたく思っておりますので、この段、お許しください。」と、申し出た。

 宗意軒は、
「もはや私が伝えている天文運気幻術等ことごとく身につけたことなので、自由に廻国してよろしい。」と許しを与えた。おたがい心に秘めた志は打ち明けなかったが、将来協力しようと約束して正雪に暇を与えたということである。


16. 天草島諸浪人の由来の事 →

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