チョコレ―トとバニラの「マーブル社会」
合理性と非合理性がすごく近いところで渦巻いていて、この世の中がビビットなマーブル模様に見えるときがあります。
優秀なインフルエンサーたちが、合理性をもって日本の意識改革(してるつもりはないでしょうが)を進めている一方で
非合理性に不満を漏らしては「過去」にしがみつきがち(のつもりもないのでしょうが)の保守派と情報弱者。
「―で、自分は?」
と問うわけです。
マーブルのチョコレート側?
それともバニラ?
実際、合理性に納得し、その生き方を目指すべくライフスタイルや意識を改善したいと目指しまくっています。毎日インフルエンサーたちの本や動画や音声を聞きながら、深く頷き、勇気とやる気をもらっています。
その一方で、めちゃめちゃ非合理性に満ち溢れた自分も認めます。
合理性でないことを正当化することを
「今そうできないことへの言い訳」
と自分に厳しくなった時期もありましたし
非合理的な人たちを見ては半ば軽蔑すらしていたこともあったし。
が、どうもこの考えそのものがそもそも「合理的」ではないと気づいたのは
子どもたちを授かった後だったと思います。
生々しいほどの生き物たちのかあちゃんとなったことで
「理屈抜きの愛情と理不尽さ」
という非合理性をその象徴であるホルモンというエキスと共に体感しまくったことが主な理由です。
「非合理性を受け入れる耐性」
こそが、こと乳児育児で求められるスキルだと実感したのです。
―「少なくとも今の日本では。」と言っておきましょうか。
自然分娩・母乳・乳児の夜な夜なおっぱいリクエスト・その他育児すべての非合理性もまた「合理性」によってクリアできると言えばできるので。タイの事業化のセレブママなどは、実際24時間体制のベビーシッターを確保するのが一般的ですし。
ただ、現実には「合理性」と「育児」が一致することは、多くの国の多くの人々の間では一般的ではありません。
そんな中
「神様目線」で人間という生物の進化を眺めたときに
案外「非合理性」(への耐性)が、人類という生物が進化の助けになっているのではないかと思わなくもない。
どちらを選びたいかっていったら、合理性なんですけどね。納得できて気持ちいいから。
それと同じくらい、「非合理性」(への耐性)の意味も、どこかで否定したくないと思ってます。
いや、「非合理性」って納得できないから、すごく気持ち悪いので極力排除したいのですけどね。あくまで個人の範疇で。
―つまり何が言いたいかっっていうと
「合理性」を述べるときに
「非合理性」を甘んじて受けた経験がある人、いったんあっち側をタッチしてから戻ってきた人の語る「合理性」って、説得力があってリアルだと思うってことと
少なくとも、自分の中の「非合理性」を見つけたときに「合理的でない自分」を自分で刺す必要はないんじゃないかな、ってこと。
つまり
チョコレートとバニラの交じり合った部分の茶色の感じが、わりと好き。
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