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持つためだけの鞄を買った日

「これ、ください」

昼間でも目が眩むようなエネルギーを帯びている六本木というその街で、わたしは居なれない鞄屋で店員さんにハンドバックを手渡した。品のあるステッチに、程よい厚さで仕立てられたその鞄は妙な存在感を持っていて、さも自信がありげな雰囲気を堂々とわたしに向けていた。

ありがとうございますという明るい声とともに、手際よく商品がラッピングされていく。誕生日でもなければ、昇進祝いでもない。なんでもない日の、自分のためだけのただの買い物であった。それをまじまじと眺めながら嗚呼と頭の中で甘いため息が溢れた。

ついにわたしも、持つための鞄を買う日が来たのだ。

その変化を、わたしは脳内で何度も何度もしみじみと考えて尽くしてしまう。こんなに効率厨で、機能重視で、装飾嫌いで、雨の日も風の日も耐えられるようなアイテムばかり集めているこのわたしが、そこそこのものしか入らない鞄を、しかも本革で雨に濡れたら大騒ぎするであろう鞄を恍惚な表情で買っているのだ。

明日は槍でも降るのだろうか。

それぐらいのインパクトというか、大きな変化を自分の中に感じていた。自分の中での自分の扱いというか、楽しみ方というのがサナギから帰る蝶のように、得体の知れない大きな変容を進めているように思えた。

居なれない場所で

それは独立をしてから。初めての健康診断に行った日の帰りだった。

生まれて初めての胃カメラと、フルコースの人間ドックを受けた私は血も抜かれ喉も胃も血の味がして「これは健康になりに行っているのか、不健康を買っているのか分からんな」とヘロヘロの体を携えて歩いていた。

でもせっかく少し遠出したのだから、多少はウィンドウショッピングでもして帰ろうかという貧乏性が発動してそのままミッドタウンのショッピングフロアへと足を運んだ。

一歩中に足を踏み入れると、急に品のある世界に飛び込んだように気がしてしまうのは私が元田舎者だからだろうか。要塞のようにエレベーターが何層にも入り組んだ東京ミッドタウンの中はとにかく品が歩いているような雰囲気で充満していて、背筋が伸びるような息が詰まるようななんとも言えない場所だった。

決して行きなれていないわけでもなければ、この要塞で迷子になることもない。以前に勤めていた制作会社があった場所でもあるので、約2年以上の時間をこのミッドタウン周辺で過ごしたからだ。

もちろん当時はお金なんかこれっぽっちもないから周辺のランチ価格に憤慨していたし、中のお店を見て回るほどのお金も度胸もなかった。ようやく30代という一つの境界を超え、社会人として人並みに稼ぐようになって多少は入りやすくなった気はするものの、やはり私にとってここはどうにも場違いな空間な気がしてならない。

それは普段の自宅での気まますぎる過ごし方なのか、この歳にもなって大してブランドや化粧品にも気を使わない後ろめたさなのか。冷やかしだと思われないかという負い目からくるものなのか。実態としてその理由はよく分からなかったが、まあそれぐらいの器の人間である自負はあったので決して腑に落ちないものではなかった。

フロアを気の赴くままに歩いていくと、東京の坪単価をまる無視したような優雅で贅沢な商品の陳列が目に留まる。

一坪いくらなんだろうとゲスい計算をしてしまいそうになるが、健康診断明けの体と頭では脳内の電卓を叩くことは叶わなかった。どこを見渡してもピシリと決めた店員さんの佇まいに「この店舗に配属されている人たちはエースなのだろうな」というふしだらな妄想をついしてしまうのは私だけだろうか。

エレベーターをのぼり少し奥の方へ進むと、屋内なのに煉瓦積みという意外性を装った店舗の前に足が止まった。顔を上げると「土屋鞄製造所」の看板が目に転がり込んできた。

わたしはその場所でぞくりとした、何か不思議なものを感じ取って自然に足を止めたのであった。

あの時の情景

土屋鞄は、個人的にも学生の頃から聞き馴染みのある工房であった。

物心がついた頃から、特に何か理由があるわけでもないのだが感覚的に、本能的になんとも言えない革製品の魅力に惹かれていた自分がいた。抜け感のある色味や匂いに加え、エイジングという現象を通して自分の生活が持ち物に染み出していく様は私の少年心を大いにくすぐった。

しかし本革製品というのはしっかりしたお値段がするため、学生時代の自分にはとても手が出せる金額感のものではなかった。

いつか買えるようなお金が貯まったら、いつか似合うような大人になったらなら。そういう期待を寄せて、おしゃれな雑誌を毎月毎年ずっと眺めていた。お金はなくても時間だけはあったので、国内の革製品のショップや工房を休みの日を使っては見歩いたのも懐かしい。

その中の一つに、土屋鞄製造所があったのであった。

私の中のイメージで言うと「ランドセル」「ミニマル」「都内で生まれた工房」というなんともざっくりとしたイメージであり、学生時代の自分にとってはなんともいえない、いい意味で近寄りがたい雰囲気を持っていたことを思い出す。いつか大人になったら、似合うようになったらと思い馳せていたようにも思う。

しかし、社会人になって10年近い月日が経った。

人並みには稼ぐようになったこともあって、学生時代には考えられなかったような美味しいものを食べたり、旅行に行く機会も増えた。周りからの脅しに拍子抜けして「なんだ、大人の方が楽しいじゃん」といういい意味での裏切りが多くあったのであった(まあ、学生時代が苦学生すぎたということもあるだろうが)

しかし、私の頭からはすっかり当時の情景は抜け落ちていた。

ただただ毎日が、目まぐるしくすぎていく。気がついたら棺桶の中にいるんじゃないかと想像してしまうほど、最初の数年は寝ても覚めても仕事しかなかった。毎日仲間と飲み歩いてアルコールを胃に流し込み、あっという間に給料を使い果たしたこともあった。

ハードに働くことに対応するためでもあったが、昔の私は「自分」という存在そのものや、自身の「性別」をうまく受容できていなかった。その影響もあってか、公私共にユニセックスな服装をすることがとても多かった。

ボーダーのTシャツにジーパン、ハイカットのボリュームのあるスニーカー。そして極め付けのベリーショートの髪の毛。世間のルッキズムの批評対象にならないよう、どうにか例外枠へと自分を押しやって「私はそういうのじゃないから」と自己肯定感の低さを誤魔化していたようにも思う。

とてもじゃないが、高い服を買う勇気はなかった。スカートですら似合う自信がなかった。色は白か黒かネイビーしか選ばなかった。

社会人になっても、ぱっと見はコンビニでアルバイトをする大学生のような風貌だった私が「大人になったら」と思っていた革鞄のことを思い出さなくなるのも、今思えば至極当然なことであった。

・・・

それから、あまりにも多くの時間と事が過ぎた。

父の介護と死別を超え、部署も移動した。失恋したり、仕事でも大きな挫折をした。その後は転職をしたり、意外にも結婚をして2020年には会社から独立もした。全くもってとんとん拍子だったわけではないけれど、自分の中でめちゃくちゃに絡まり合っていた糸が年々解されていくのを自分でも感じていた。

ベリーショートはロングの黒髪ストレートになった。パンツもスカートも履くし、爪を噛んでしまう癖を治療してネイルをするようになった。白と黒とネイビーはいまだに好きだが、加えて発色の良い赤を好んで身につけるようになった。貧乏性が抜けないので片手で数えるほどでしかないが、折を見て上質なコートや鞄を手にする機会もちらほらと出てきた。

わたしは、ようやくワタシと上手く付き合えるようになったのだ。

そしてそんな地殻変動が自分の中でひと通り起こりきった後のその日、わたしは煉瓦積みの土屋鞄製造所の前に偶然にも立たされていたのであった。

ロジカルじゃない物欲との出会い

人間ドック後のボロボロの体を引き摺りながら、わたしは一瞬だけ躊躇したもののその一歩を前へと踏み出した。

美しくライティングされた店内に入ると、学生時代に憧れていた当時の感情がブワッと脳内を駆け巡った。にこやかな店員さんに会釈だけしてから、右側のカジュアルバックのエリアへと足を向ける。店の中には芯の通ったような、モデルのような気品すら感じる鞄たちが見事に陳列されていた。

その中で、ふと一つの鞄が目に止まった。それは四角く縦長に型取られた小ぶりなハンドバックで、直線的なデザインでまとめられていた。中央にはさりげなく縦方向のステッチが入っているだけで、ミニマルを体現したような鞄だった。

わたしは、目が離せなかった。

飴をねだる子供のようにじいっと見つめていると、店員さんが「合わせますか?」と声をかけてくれた。完全に回っていない脳みそとフラフラの状態で見回っていたものだから少々面を食らってしまって「えっあっ、はい…」となんとも無様な返事をしたように思うが、さすがのエーススタッフさん(と妄想している)は手際よくその鞄を手渡してくれた。

手に持った瞬間、ぎゅっとした存在感と不思議な手馴染みを感じた。

ああ、もう、これはと内心は既にノックダウン寸前であった。頭に血が上るのがわかる、心臓が足早に音を立てるのがうるさくて、脳内をいろんな感情が駆け巡っていた。浮き足立つ感情を抑えて、わたしは鏡で鞄を合わせながらさりげなく値札をのぞいた。

うん、高けェ。

手元の福沢諭吉さんが、バンドを結成するくらいの人数になるお値段だった。間違いなく私が持っているカバンの中で、ギネス記録が狙えた。

リアルな数字を認識すると、少しだけ自分の中の冷静な感情が戻ってきた。もちろん少し目線を上げれば某ハイブランドバックなら数十万円、数百万円のカバンだって全く珍しくない世界がすぐ隣にある。だからファッション大好きな人からすれば「30代の大人が、10万円以下でなに言ってんの。」とひと蹴りされそうな気もする。

でもわたしは今のところ、いわゆるハイブランドにそこまで興味がない。カメラやMacBook Proには平気で50万100万の大金を差し出すこともあるが、服飾となると五千円を超える時点で必ず脳内で一大会議が開催される。それほどにわたしの貧乏性はファッション領域ににおいて群を抜いていたのだった。

でも、わたしは揺れ動いていた。

それは「ナシ」という即興的な判断に至らなかった。脳内ではいろんな利用シーンや自分の生活との相性、今持っているものとの関係性、耐久性など様々なケースが走馬灯のように駆け巡った。詰まるところ、わたしはこの時点で「買っていいロジック」をどうにか算出しようとしていたのだと思う。

あまりに脳内がめちゃくちゃで、さすがにその場で即決はできなかった。最後にもう一度、手に持った鞄の感触を確かめてから商品を棚に戻して「また来ます」と店を後にした。

その後、私が夜な夜なスマホの画面と睨めっこすることになって寝不足になったのは言うまでもない。

持つだけの鞄

半月ほどの時間を空けて、私はまた六本木に足を運んだ。今日は人間ドックでもなければ仕事でもない。夜に知人と会う予定があるというお題目はあったものの、わたしの足は東京ミッドタウンに目掛けて迷わず直進していた。

店に入ると、一応ぐるっと他の商品も眺めてからお目当てのアイツの前に立つ。店員さんに「試されますか?」と声をかけられて、今日は堂々と「お願いします」と返事をした。そしてさりげなく「他の色はありますか?」という質問も付け加えた。

本当はウェブで在庫確認をしてから来店しているのでただの茶番でしかないのだが、この謎の芝居を打ってしまう心境が10年以上暮らしてもいまだ東京に慣れない元田舎者であることを強く自覚させられる。そんな自虐も、店員さんから手渡されたそれを持った瞬間に何もかもが吹き飛んだ。

これ、なんだな。

半月ぶりにそれを手にして自分の中で決心というか、覚悟のようなものが不思議と固まったのを感じた。最後の最後で色に悩んだり、個体差が気になって他店の商品まで問い合わせてもらうという大変粘着な面を見せたが、最終的に六本木店にあったその鞄を差し出して「これください」と言葉を投げた。

またひとつ、自分を縛り付けていた「何か」がパキンと音を立てて割れるのを感じた。大それた手提げを抱えて進む家路は、自分でも驚くほどに足取りが軽かった。

機能性という縛りを超えて

以前ハイブランドの鞄をいくつも欲しがる人の心理が知りたくて、ネットの海を泳いでいろんな回答を見漁ったことがあった。

一生物だからとか、収集癖があるからとか、権威性や社会ステータスを求めているとかそういう一般的な回答が多く見られたが、個人的にはそのどれもが本質をついているようにはどうにも思えなかった。そんな中で、これは秀逸だなあと思うものがあった。

それは「お気に入りの鞄は、かわいいペットと同じ」という、とある女性の回答だった。

機能性はない上に手間がかかる。でも家に居てくれるだけでその存在自体が嬉しいし、一緒に出かけられるともっともっと嬉しい。頬擦りしたくなるほどの愛着があって、同時にずっと見ていられる絵画のような楽しみでもある。そういうものです、と。

なんて豊かな感性の持ち主なんだろうという尊敬の念を感じると同時に、今まで喉に引っかかっていた小骨のようなものがスルリと抜け落ちていくのを感じていた。理屈じゃないことを説明する上で、これほど腹落ちする比喩は他に見当たらないように思えた。

ようやくわたしの手元にやってきた念願の土屋鞄のハンドバックは、大して物は入らない。

エイジングを楽しむヌメ革とはいっても扱いが悪ければ傷もつくし、しっかりと防水スプレーはしたものの雨の日にわたしは気が気でないだろう。普段は14インチのパソコンを持ち歩くので、背負いでナイロン製のガジェットバックの方が圧倒的に出番も多い。カフェや電車の床に無造作に置く気にもなれないし、定期的にクリームを塗って乾燥のケアをする手間だってある。

それでもこの鞄が視界に入るたびに、わたしはダラシないニヤケ顔なる。多分、それだけですでに十分な元が取れているのだ。

何よりそういうものを「持ちたい」と思えて、実に行動できたわたし自身の心境の変化こそがどうにもかけがえのない物のように思えた。機能性が全てだと思っていたわたしに、全く新しい価値観がインストールされたこの記念すべき鞄はどこまでわたしの人生に寄り添ってくれるのだろうか。

穏やかな昼下がり。

わたしは自宅の巨大なヨギボーの上で小休憩をとりながら、目の肥やしをうっとりとした気持ちで眺めつつ、週末の予定をひとり画策しているのであった。

読んでいただいただけで十分なのですが、いただいたサポートでまた誰かのnoteをサポートしようと思います。 言葉にする楽しさ、気持ちよさがもっと広まりますように🙃