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今野勉『テレビマン伊丹十三の冒険』を読む 1961年の大江健三郎/1984年の黒沢清

『テレビマン伊丹十三の冒険   テレビは映画より面白い?』は、俳優、エッセイスト、映画監督など多面的な顔をもつ伊丹十三の、テレビマンとしての側面にスポットをあてた、テレビでの仕事を多く共にした今野勉による一冊です。
当然ながら、テレビ仕事についての挿話はいろいろと興味深く読める反面、その他の分野については、ちょっとどうなのかと思えるところが、ありました。

***

1.大江健三郎



〈ウォルター・ブリッジという橋()の袂にナショナル・フィルム・シアターというのがあって、()今日はジャン・ヴィゴオの『ラタラント』と、『ゼロ・ド・コンデュイ』()そういう二本立てを見てまいりました。〉(「これは本当に映画だろうか」)
というエッセイを伊丹の『ヨーロッパ退屈日記』から引用し、

〈ウォルター・ブリッジだからロンドンの()国立フィルム・シアターで映画を二本見てきた、というのです。『北京の55日』というアメリカ映画に出演するためにヨーロッパに行ったというのだから、英語を話せることは解っていましたが、イギリスで映画を見て普通に解る、というのは、英語を日常語的に使いこなせるというレベル〉
と著者は書くのだが、その見た2本とはジャン・ヴィゴ監督の『アタラント号』と『新学期 操行ゼロ』‥。イギリス映画でなくて、フランス映画、フランス語のトーキーなのだった。
これが名もなき映画ならともかく、世界映画史に燦然と輝くマスターピース。著者が不案内だったのだとしとも、編集なりでチェックが入らないものなのだろうか。

その直後の記述で、パリで大江健三郎とともにイオネスコを観劇する伊丹に、英語だけでなくフランス語も理解するのかと驚く(〈伊丹さんはどうしてフランス語の劇を理解できるのかーー〉)。前段にミスがあるから、どうしても構成が破綻してしまう。

その二つの箇所(56-58頁)に先立って、大江健三郎『定義集』で伊丹に言及している文章を長く引用している(48-49頁)。内容はおおむね以下の様。

(ふたりが高校生時代に、伊丹がランボーのPoésiesを持って大江の下宿にくる。伊丹はRomanやSensationに傍線を引いている。そして大江に原詩を復唱させる‥。)
この横文字表記と文脈で、既に高校生のころからフランス語の原書と原詩にふたりが接して親しんでいるのは明らかで、だとすると後段にあった著者の驚きはなんなのか。大江氏の文章が読めなかった、ということだろうか。
(尾崎真理子は〈大江にフランス語の手ほどきを行ったのも伊丹だ。〉と書く(『大江健三郎全小説全解説』)。
伊丹の自殺を直接の契機に書かれた大江の長編小説『取り替え子』(2000)で、大江は「長江古義人」、伊丹は「塙吾良」という名で登場し、上記のエピソードは〈メルキュール・ド・フランス版の“Poésies”もーーそれは高校生の古義人が吾良にもらい、かつ生まれて初めてフランス語の手ほどきを受けたテキストだ〉と回想される。同書には、『北京の55日』に続けて伊丹が出演した『ロード・ジム』で共演したというオブライエンなる人物も登場します。)

このあたりは、本書で大江健三郎が登場する箇所ですが、どうもイチ友人くらいにしか扱われていない感じがして、物足りない。伊丹と大江の関係は、本書のいくつかのエピソードとも、有機的に繋がるものがあったはず。

*

伊丹と著者の、本格的な共同作業となる旅番組『遠くへ行きたい』(1970~)。その革新的なスタイルを可能にするには、旧来のカメラでは困難だった。
〈スタッフに、移動しながら同時録音が可能なフィルムカメラを何とか用意してくれないか、とお願いしました。私の依頼を受けて技術スタッフは、世界中の技術情報を集め()七〇年の夏、アメリカ製のアリフレックスBLという十六ミリフィルムカメラが売り出されているという情報を得たのです。()『遠くへ行きたい』は、このカメラを使って始まったのでした。〉(20頁)
この技術があって、伊丹十三の“テレビマン”としての独特なフィーリングが可能になった。その機知の躍動するさまが、いきいきと描かれていきます。

そして一方、大江の中編『性的人間』(63)には、なんと「アリフレクス16ミリカメラ」を「ジャガー」に積んでいる、伊丹がモデルとおぼしき“J”という人物が登場する。その冒頭。

〈暗闇のなかを象牙色の大きなジャガーが岬の稜の突端まで疾走してくる。ジャガーは夜の海にむかって右に、滝のように不意に急勾配の降り坂となった枝道にはいりこみ、岬の南側に脇の下のようにかくれている耳梨湾にむかった。ジャガーはアリフレクス16ミリを積んでいる。車も、撮影機も、みんなからJと呼ばれている二十九歳の青年のものだ。〉

ここに登場するジャガーは、伊丹十三の運転する車として、その特異な表記とともに名高い〈ジャギュア〉で、著者もさいきんになって読み〈衝撃的だった〉とする、『ヨーロッパ退屈日記』の「ジャギュア到着」に登場します。〈伊丹さんが、『北京の55日』の撮影を終えて帰国したのは、一九六二(昭和三十七年)、二十九歳のときです。()この年齢で、「ジャガー」ではなく「ジャギュア」と発音しなさい、というのが、すごい〉(68頁)と今野氏は書く。
そして『性的人間』のJには映画をこころざす妻がいて、これは当時婚姻関係にあった川喜多和子、Jの妹は大江の妻となった伊丹の妹・ゆかりを想像させます。
70年に登場したとされるアリフレクスBL16ミリは、それより7年もまえの63年に書かれた『性的人間』のアリフレクス16ミリとは別物なのでしょうが、大げさには、運命的な符合をかんじさせます。

大江は『性的人間』の半年前には長編『叫び声』を発表しており、そのなかで〈そのころ東京にいく台のアウト・スポークの白いジャガーがあったかしらないが、僕らはその僕らの車を、フランス風にジャギュアと呼んで、他のすべてのジャガーと区別していた。〉という記述があり、この小説からも伊丹と大江との濃い関係性がうかがわれる。

大江の紀行文集『ヨーロッパの声・僕自身の声』より以下引用。タケとは伊丹の幼時からの通称・岳彦から。
〈パリで僕はタケという映画俳優とその夫人に会い、かれらとロンドンに行くことになった所タケは僕の子供のときからの友だちで、僕の妻はタケの妹である。タケはパリで一九六一年ジャガーにのって意気揚々としていた。タケはロンドンの下宿においてきたメリー・ステップという猫とその息子たちをパリにつれてきたがっていて、そのためのロンドン行きだったわけである。〉
『ヨーロッパ退屈日記』において、どの国で象牙色のジャガー/ジャギュアを購入したのかはっきりとは書いていないが、エッセイの前後の構成等からみてイギリスでだったのでしょう。ジャギュアに乗って、フランスに向かい、大江に会いにゆく伊丹。『叫び声』〈 に描かれているヨーロッパの旅の情景は、いま終わったばかりの旅の経験をそのまま反映するものでした〕とあるように、「ジャギュア」についてもたぶんそれに乗せてもらい、パリ市街を案内してもらったのではないだろうか。〉(司修『Ое 60年代の青春』)

*


そして『性的人間』と平行して書かれた長編小説『日常生活の冒険』で中心となるのは、あからさまに伊丹をモデルとした人物で、彼の後年の凶事を予兆するかのように、自死する友人「斎木犀吉」。その冒頭。

〈あなたは、時には喧嘩もしたとはいえ結局、永いあいだ心にかけてきたかけがえのない友人が、火星の一共和国かと思えるほど遠い、見しらぬ場所で、確たる理由もない自殺をしたという手紙をうけとったときの辛さを空想してみたことがおありですか?〉

ともに年少のころに父親をなくし、四国で出会い、時を同じくして上京し、前後して結婚する友人との、密接な時期だったことが、大江のこの頃の小説群から見てとれます。そして二人は、同時期にヨーロッパを転々とし、フランスで共に観劇する。
このあたりの時系列は、今からするとボンヤリするものなので、ここ数年間のふたりの活動の推移を、年表的に以下に整理します。

○1960年
1月、伊丹、大映に入社。俳優業開始。芸名「伊丹一三」。
2月、大江は伊丹の妹・ゆかりと結婚。
5月、大江訪中。

伊丹、大江原作の映画『偽大学生』(増村保造監督。10月公開)出演。
7月、伊丹、川喜多和子と結婚。
9月、『遅れてきた青年』連載開始(「新潮」~62.2)
10月、社会党浅沼委員長刺殺。

○1961年(S36)
1月、『セヴンティーン』(「文學界」)
2月、『政治少年死す』(「文學界」)、右翼団体からの脅迫。
伊丹、大映を退社、ニコラス・レイ監督の『北京の55日』(63年5月アメリカ公開。撮影地はスペイン)出演のため、ヨーロッパへ(翌年、帰国)。このときの体験を書いた『ヨーロッパ体験日記』は1965年刊行。
大江、8月よりヨーロッパ
(ギリシャ、ブルガリア、イギリス、イタリア、フランス、ポーランド、ロシア)。パリでは反OASデモに参加。サルトルにインタビュー(このインタビューに同席した友人・田中良が翌年10月自殺)。12月帰国。

○1962年
11月、『叫び声』(「群像」)
11月、大江の 紀行文集『ヨーロッパの声・僕自身の声』刊行。
11月、伊丹、『ロード・ジム』スクリーン・テストのためロンドンへ。

○1963年
2月、『日常生活の冒険』連載開始(「文學界」~64.2)
5月、『性的人間』(「新潮」)
6月、大江の長男・光誕生。

それぞれの結婚と表舞台での飛躍、ヨーロッパを巡り、大江には障害をもつ子が生まれ、人生のおおきな主題となってゆくまでの、アドレセンスの終わりを共に過ごした。伊丹は一三から十三と改名(67)し、宮本信子と再婚し(69)、テレビマンの道に本格的に足を踏み入れる。大江は時代の寵児から、これらの60年代前半の手淫、殺人、強姦などの反道徳的イメージ溢れる作品群を経て、『万延元年のフットボール』(67)以降、世界文学の高峰となってゆく。
峰尾俊彦はこの転換期の大江文学について〈性的なるものの形象に託された大江の小説は、狂気に塗れたイメージを展開させると同時にヒューマニズム的な倫理へと逆転してゆく契機を宿している〉と述べている(「ユリイカ  総特集大江健三郎」)。

現在からは伊丹の自殺を予見したかのようなイメージのある『日常生活の冒険』の斎木犀吉の死は、それよりも(旧友であり、フランス在住、サルトルインタビューにも助力した)田中良のそれからくるようも見えます。〈火星の一共和国と思えるほど遠い〉フランスの地で自死することになる田中のこころを、フランスの地で、大江は感じとっていたのだろうか。そして「田中良」の「良」の文字は、ドシンと音をたてて飛び降りる、『取り替え子』の伊丹=「塙吾良」の最後の文字「良」として、引き継がれているとも見えましょう。
田中良と『日常生活の冒険』の関係は、山本昭宏『大江健三郎とその時代』でも論じられる。田中良の死は前後するキューバ危機と結びついて、以降〈核時代という問題に想像力が向かったのだ〉と。
『大江健三郎同時代論集 1 出発点 』の「ぼく自身のなかの戦争」で大江は、田中良の死から核による人類滅亡の恐怖へと至る、想像力の軌跡を、記しています。


***

2.黒沢清

「テレビマン」であった伊丹十三が、どのようにして「映画監督」へと移行したのか。本書では全3章のうちの第3章を費やして、そのことにスポットをあてている。 

父・伊丹万作の存在、妻・宮本信子を主演女優にすること、聞き書きによる人物造形の鍛練‥といった、さまざまな「物語」が推察される。なるほど、それは確かに一因ではあるでしょう。しかしそれらは、矜持をもってテレビという枠で結晶化する、それではいけないものなのか。人生の後期を映画にすべて費やす必要があるのか。今一つ説得されづらい。 

ここで選ばれているのは、クリエイターの誇りを感じさせない下世話な「物語」で、伊丹のめざす人生はそんなものだったのかと思わせてしまう。

本書ではしかし、テレビに夢中でなくなって、映画に夢中となった、核心的な発言もちゃんと引用されています、その一部。
〈僕は一時期テレビに夢中になっていました。テレビの技術革新と表現が互いに追っかけっこするという幸福な時代で、()キャメラもアリフレックスになって手持ちになり、ミニ・エクレールになってフィルム・チェンジもカセット式になり、パルス・コードができてカチンコを打つ必要がなくなり、ピン・マイクやガン・マイクができて、()そういうことすべてによって表現の幅が一気に拡がっていった。そういう時期だったので、本当に十何年間テレビに夢中になっていたわけです。しかし〉惰性化、停滞化し、いつしかメディアとしての自由の輝きを失ったと伊丹は判断する。そんな頃、ソンタグの『反解釈』を読んでハッとする。
〈映画というのは形式がすなわち内容であり、内容がすなわち形式であるような、そういう芸術なのだ、()これが私にとっては啓示だったように思います。以来、私は蓮實重彦さんの本など読み漁り、映画館に入り浸るようになったわけです。〉(『「お葬式」日記』)

ソンタグの論旨も伊丹によって要約されている。〈われわれは芸術に対する場合、内容と形式という二分法にとらわれて、常に形式の奥に内容を読みとろうとしてしまう。()形式というものが内容を運ぶための容れ物になってしまっている()受け手の側は、形式の背後の隠された内容を読みとること、すなわち解釈することが芸術に対する正しい態度であると思いこむ。()解釈によって芸術は萎縮させられ、貧困化させられて、意味の世界へ置きかえられ、かくして芸術はその全体性、直接性、官能性を奪われてしまう。必要なことはエロティクスだ、官能の美学だ、とソンタグはいうわけです〉

しかし、この一連の発言に対して、著者は 
〈私には何か違和感が残りました。「ソンタグ」を読んで映画に目を向けるようになった、というだけでは済まされない、長い歴史が伊丹さんにはあった〉、テレビの不自由さへのコメントにも〈少し頭をひねりました〉と受け入れがたいという姿勢をとる。
そして映画に移行した理由としての父親、妻にフォーカスしてゆく。
伊丹がテレビから映画に心変わりした時期を著者は、さまざまな状況証拠をひいてきて、だいたい83年あたりを考えている。

*

しかしどうも違う。映画クラスタの人間には先刻承知だと思いますのでとっとと言ってしまうと、それよりはるか以前に、重症なハスミ病にかかったのだ。

万田邦敏言うところの、ハスミ光線を浴びたハスミ虫。
〈ハスミ光線を浴びた者達の悲劇は、ある朝ベッドで目覚めると自分がハスミ虫に変身していることに気付く〉。外見の変化は、〈ちょっと顎髭でもはやしてみようかという気分が起こるくらいだ。()彼は映画を見たいというおさえ難い欲求〉をおぼえ、〈彼にとって映画は表層のきらめきだから、()彼の口からは制度、表層、運動、構造()といった言葉までもが臆面もなく連発され()旗、あるいは縦に長い物一般、水、炎、自動車、落下、闇、光、風、雨。()それを映画実作者達はなんと粗雑なふるまいで画面におさめることか。〉(万田邦敏「蓮實重彦現象  ハスミ光線のかなたに」)と嘆き、〈業を煮やしてハスミ虫は8ミリカメラを構える〉ことになる。そして伊丹も見事にそのようになりおおせたのだった。

〈当時、蓮實さんの講演が都内であると、伊丹さんは必ずバイクで駆けつけていた〉という逸話からもわかるように、伊丹は深く蓮實に傾倒していった。〈映画批評家として、蓮實さんの一般的な認知度が徐々に高まり、「モノンクル」の編集をやっていた伊丹さんが完全に蓮實さんの影響下にあった時代です。〉(以上、引用は『黒沢清の映画術』、発言者は大寺眞輔もしくは安井豊)
そして『モノンクル』は伊丹が編集長として1981年に発行していた雑誌であって(81年6月から11月まで、計6号で終刊)、83年説はだいぶ呑気な観察に映る。

その蓮實重彦について本書では、引用部分を除けばほんの10行ほどしか触れられていない。〈伊丹さんが映画を作り出したのは、蓮實さんの影響が大きいと言われております。〉その蓮實が『お葬式』を否定した。それに対して著者は〈傷ついていたとは思います。「映画っていうのは、冷酷なビジネス」だというのは、映画の経済的側面についての認識だと思いますが、こうした批評の存在も影響しているのかも〉(245頁)。
これでほぼ全て。これでは、蓮實が佐藤忠男でも双葉十三郎でも、固有名詞としてはなんでもいいことになってしまう。
そもそも、ソンタグとかモランとかこねくり回しておいて、ドゥルーズの名前が出ても蓮實を連想できずに〈「リゾーム」がどう映画と結びついているのか、はっきりとは解りませんが〉(228頁)とトンチンカンなことを書く人に、犯人探しは不可能な気がする。

蓮實重彦『映画狂人、語る。』には、伊丹も参加して語らった対談・鼎談が3つ載っている。『お葬式』全否定で訣別するまでの蜜月期のもの(81、83、83)。もっとも古いのは伊丹・蓮實・野上照代の鼎談「黒澤明  あるいは旗への偏愛」で、それこそ81年の『モノンクル』に掲載された。
すでに典型的な重症のハスミ虫らしく、旗が〈あれもパタパタだ、これもパタパタだ〉と指摘してまわる。〈パタパタとは別に、バフバフみたいなね、大きな幕がはためくものもよく出てくる〉〈地面がビショビショ、ドロドロ、ヌルヌル〉と言って回れば、蓮實も〈どうもクロサワ・アキラの映画はっ背中に物をかつぐ〉と指摘して、野上さんが「エ?ちょっと待って(笑)」「そういう映画の見方っていうのはやったことないんで」と困惑する。81年の段階で、かなり病状は進行しているのが見てとれます。
83年(5月10日)の対談「特権的映画学講座」でも、ブレッソンだのゴダールだの小川紳介だの、宙吊りだの階段がイイだのと熱狂的に口にし、痛々しいような可愛らしいような伊丹十三。

そのようにして、映画への欲望を溜め込んでいた伊丹は、「物語」によれば1983年9月、宮本信子の父が亡くなったとき、
〈その際葬儀を主宰した伊丹は「これはまるで映画だ」と感じ、わけても火葬場で夫人と並んで煙の出る煙突を見上げた時には「小津安二郎の映画に入ってしまった」ような感動を覚え〉(『お葬式』チラシ)て、
映画を撮ることに本格的に足を踏みだす。

翌1984年、正月明けあたりにはもうシナリオは完成していた。初監督作品『お葬式』製作のメドがついて、動き始めるのが2月29日。準備期間は、6月2日のクランクインまでわずか3ヶ月しかなかった。

その短期間のあいだに、すること(しかも慣れないこと)は山積みだった。まず最低限のスタッフを決め、〈脚本を分析して、人物の出し入れや、撮影のスケジュール作り、それをもとに予算の編成をやっていく()かたわら僕はキャスティング・ディレクターと配役を進めてゆく〉(『「お葬式」日記』)。キャスティングと同時にスタッフ編成も決めてゆく。衣裳合わせ、小道具合わせ、美術のデザインや発注等々‥。

そんな多忙を極める渦中に、「何をおいても出ます」と熱望をもって、俳優として出演した映画があった。撮影時は『女子大生・恥ずかしゼミナール』としてはじまり、後に『ドレミファ娘の血は騒ぐ』となって劇場公開された、黒沢清監督の商業映画第2作だった。

〈キャスティングを考えていた時点で、「伊丹十三が『神田川淫乱戦争』を褒めていたよ」という情報をくれたんですよ。「ダメモトで、伊丹さんにあの教授役をオファーしてみたら」と勧められ、手紙を書きました。すると、「願ってもない。何をおいても出ます」という返事が即来たんです。〉(『黒沢清の映画術』)

このあたりのニュアンスは、万田邦敏によると〈二月初旬、黒沢はまず書面にて自己の紹介と出演の依頼をした。おり返して伊丹本人から黒沢の自宅に電話で返答があった。「黒沢くんの映画なら喜んで出させてもらいます」好意的な返答だった。〉(『再履修  とっても恥ずかしゼミナール』)となっている。

83年の暮れごろににっかつ企画部から依頼があり、黒沢清はアイデアを2本提出する。 にっかつに採用された1本をもとに、万田らとシノプシスを書き上げる。翌84年1月のことだった。これを決定稿として仕上げる。にっかつのOKに基づきクランク・インは3月下旬となり、スタッフキャストは召集されていた。
しかし、にっかつ上層部の横やりによって(3/4~3/9あたり)、決定稿のはずのものにNGが出てしまう。最大の理由は主演女優の性交場面がないことだった。
問題の箇所を直せないまま提出した改定稿になぜかOKが出る。〈四月十六日、一時中断していた作業が 再開されることになった。秋子と平山のファックシーンがないことが、まさか撮影終了後再び問題とされることになるとは、この時誰も思っていなかった。〉(『再履修~』)
ともあれ、ロケハンのやり直し等々急ピッチで再び準備がはじまる。当初の春休みの予定から1ヶ月半ズレたが、GWには撮影開始にこぎ着けた。

5月4日 スタッフキャスト召集
5月5日 オールスタッフ最終打ち合わせ
5月7日 機材の最終確認
5月8日 クランク・イン
5月18日 クランク・アップ
と、撮影は終了する。しかし5月29日のオールラッシュ試写で、にっかつの怒りを買ったこの映画はオクラ入りを宣告される。

『恥ずかしゼミナール』のお蔵入りが決められたのと同じ5月29日。前日(28日)に『お葬式』の大々的な製作発表の記者会見をひらいた伊丹は、湯河原でのクランク・インを数日後にひかえ、都内で葬式をいろどる写真やVTRの撮影をおこなっていた。ビデオ撮影ながら、〈これが事実上のクランク・インとなった〉(『~日記』)。

『お葬式』の撮影は6月2日から7月18日まで。その後、すぐに編集作業に入る根のつめかただった。
公開は11月17日。〈東京では最初テアトル()の三館しか決まっていなくて、〉有楽シネマと渋谷文化、大阪二館でスタートし、〈評判を知っていた東宝が、全国百館くらいで「お葬式」をやることになったんです。〉(『伊丹十三の映画』)初監督作がヒットし、伊丹は商業映画作家としての地歩を築きはじめた。

さきに撮影を終えていたはずの黒沢清作品は、にっかつから買取拒否にあい、追加撮影など紆余曲折を経て、他社から一般商業映画として翌85年11月3日に『ドレミファ娘の血は騒ぐ』と改題されたものが公開、1年半かけてようやく陽の目をみる。

映画『お葬式』のメイキング本である『「お葬式」日記』は、84年8月26日、湯布院映画祭の満場の客席のなか上映され、笑いが大いに起こり、盛大な拍手が鳴り響き、白井佳夫に「今年の賞は独占だよ」と言われる、希望にあふれる夜で終わる。しかしーー

9月20日、蓮實重彦は東宝試写室で『お葬式』を観る。
上映後、そこにいた伊丹十三に訊かれ、全否定の言葉を告げる。
伊丹の高揚しつづけたひとつの時代はこの日、終わった。

*

だらだらと順を追って、別々の映画のなりたちを述べてきたのは、『お葬式』と『ドレミファの血は騒ぐ』という二本の映画が、ともに83年の後半に胎動し、翌84年早々にシナリオ/シノプシスの形となり、夏前には撮影が前後して終わり、ともに蓮實重彦の深い影響を受けたふたりの、ともに一般商業映画デビュー作となる、双生児のようにして生まれた映画だと。まずはそう整理したい。
そして、一世一代の勝負であるような、多忙を極めるなか伊丹が、黒沢清作品に何をおいても出たいと望んだのは、黒沢清が立教で蓮實の教えをうけて映画を撮り、ピンク映画であるデビュー作『神田川淫乱戦争』(83)を蓮實に祝福されていたからだった。蓮實の賛辞をうけてこれを観た伊丹も、重度のハスミ虫であるから、『神田川淫乱戦争』を映画的として賞揚する。
続けて立教から周防正行が『変態家族 兄貴の嫁さん』(84年6月!)でデビューし、これもまた蓮實に絶賛され(〈周防正行の『変態家族・兄貴の嫁さん』は必見の傑作であり、まだ見ることのできぬ黒沢清とベストワンを競うだろう 〉(『シネマの煽動装置』))、のちに立教ヌーヴェルヴァーグとも呼ばれる、ハスミ虫たちの若い息吹きを横目にみつつ、年配者として「ヌーヴェルヴァーグの長兄」さながらに、連帯の熱い握手をしたかったのだとおもう。
蓮實がアンドレ・バザンなら黒沢がゴダール、伊丹はエリック・ロメールあたりを自認していたのではなかったか。あるいは「カイエ・デュ・シネマ」を朋友バザンと創刊し、若い作家たちの援護射撃をおこない、監督も俳優こなすジャック・ドニオル=ヴァルクローズ‥。
『恥ずかしゼミナール』のキャスティングで伊丹に対面したときのことを黒沢は回想する。〈微笑ましかったのは伊丹十三さんで、会うなり、「教授の役ですよね。髭を付けていいですか?」とちょっと恥ずかしそうに言いました。〉(『~映画術』)
ハスミ虫となった者の特徴でもある、〈ちょっと顎髭でもはやしてみようかという気分が起こる〉でありましょうか。

84年の、蓮實と自作をめぐっての決裂後も、伊丹は、『マルサの女』(87)『マルサの女2』(88)で周防正行をメイキング監督に呼んでテレビの作法をレクチャーし、『マルサの女2』では黒沢映画のミューズ・洞口依子を起用し三國連太郎とともに湯船に浸した。ディレクターズ・カンパニーで頓挫したホラーの企画をもって伊丹に相談した黒沢に、伊丹プロの単独出資で『スウィートホーム』(89)を実現させもした。蓮實の「映画表現論」の教え子たちに、絶えない連帯を変わらず表明し、いつか蓮實との関係も修復されるかもしれないと、希望を抱いていたのではないだろうか。

しかし、周知のように『スウィートホーム』では伊丹と黒沢の関係は悪化し、最終的に裁判沙汰にまで発展してしまう。その要因は数えきれないほどあったにしろ、理由はどうあれ、蓮實およびその門下生たちと伊丹の関係は、ここで絶たれた。

黒沢はこのあたりの機微と伊丹の変化を、振り返っている。引用は『~映画術』から。
〈ーー伊丹さん、黒沢さんの両方とも、いわば蓮實門下生じゃないですか。しかし、蓮實さんは『お葬式』『マルサの女』など伊丹映画について、一切触れないという態度を貫きました。この問題は、どこかに影響していないんですか?
うーん。みなさんご存知の通り、伊丹さんと僕の関係は後に泥沼の訴訟沙汰にまで発展し、音信不通のままあの死を迎えることになりました。()近くで見ていた人間として、 (伊丹の)当時の混乱は、かなり痛々しかったことも事実です。()
『マルサの女』を作った辺りまでは、まだ自分は作家としてやってゆきたいという欲望が残っていました。これがさらなる大ヒットとなり、しかし、最も欲しかった批評は出ない。『マルサの女2』ではもう居直って、おそらくお金儲けに徹することに決めたのでしょう。()明らかに伊丹さん自身、どんどんシニカルになっていました。どこかに自分の映画を誉める人間はみんなバカだという軽蔑があり、どんなに褒められても、お金が儲かっても嬉しくない。()
僕は、さまざまなトラブルと行き違いを抱えつつ、蓮實さんと伊丹さんと僕、あるいは何人かの関わった人たちとの間に、ある時何かがふっと訪れて、問題を解決してくれるんじゃないかと思っていたんです。()
『スウィートホーム』以降は、裁判でしか会わなくなりました。で、伊丹さんの映画は相変わらず大ヒットしているんですけど、人相が変わっていって、どんどん陰鬱な顔になるんです。()
たしか裁判官だったと思いますが、伊丹さんに「このような争いになっているけれども、黒沢という人間に才能があると思って監督に抜擢したんですね」と訊いたんです。()ものすごく暗い不愉快そうな表情で、「ええ、黒沢君にはきっと才能があるんじゃないですか」と吐き捨てるように言ったんです。びっくりしつつも、ああそれが今の伊丹さんの心境なのかと妙に納得してしまいました。〉

黒沢清の才能を、裁判的処世のために「ない」と言って切り捨ててしまうことは出来ない、というのは、「映画作家」伊丹十三の最期のプライドだったのかもしれない。
今野氏のこの本で伊丹が言う、映画が「老後の楽しみ」から「冷酷なビジネス」に変わったのは、上記のような断念、「映画作家」でいられず、なりたかった自己像ではない「ヒットメーカー」になるしかなかった苦しみのあらわれだったでしょう。
『「お葬式」日記』のときのワクワクするような楽しい筆致が、『「マルサの女」日記』になると驚くほど陰鬱に変わっている。

クランク・アップの日。
〈スタッフルームではまだ一同は酒盛りの最中。二時間ほどぼんやりと席に連なる。帰りの運転があるから飲めず、帰宅十一時。ともあれ、クランク・アップ。〉
ゼロ号試写。
〈人人は口口に賞讚の言葉を投げかけてくれるのだが、自分の心はほとんど虚ろ〉
公開後。
〈さまざまな批評が現れた。批評は驚くほど好意的であったが、ほとんどがテーマや題材の面白さを指摘するにとどまり、自分やスタッフが苦労したきた「映画」そのものに関してはほとんど言及する者とてなかった。()綺麗さっぱりと無視された。〉

最近投稿された、2023.3.28のツイートがあった。佐々木監督は『ドレミファ娘』等の助監督、篠崎監督は立教で黒沢の後輩にあたる。
佐々木浩久
〈「スウイートホーム」 著作権を巡る戦いで、監督協会VS東宝の構図になってしまい、その裁判の最中の伊丹氏の自殺もあって、振り返る機会のない映画になってしまった。
黒沢さんと伊丹氏自身は裁判所のエレベーターで一緒になると「いい映画撮ってるね」とか個人的な蟠りは消えそうだったので残念だ。〉
篠崎誠
〈ほんとうに…。
またいつか笑って話せるようになる日が来ると黒沢さんもおっしゃっていました。残念でなりません〉

*

蓮實にミメーシスを起こしたままだったにせよ、伊丹は黒沢の映画的才能を揺るぎなく評価していた。
『恥ずかしゼミナール』撮影時の〈伊丹には多少遠慮があったようである。「伊丹さんに何も指示しないで任せると、伊丹さんは自分で役づくりをした教授像で演技をする。それよりも()関係ないような演技を要求した時の伊丹さんがよかった。自分が何をしているのかちょっとわからなくなってしまったという感じの伊丹さんがよかった」と後に黒沢は言う。〉(『再履修~』)少なくともこの段階での伊丹からは、才能ある若輩者への敬意が感じられます。
では黒沢の側は伊丹をどう思っていたのか。

黒沢清は伊丹の熱烈なファンであった。〈黒沢は日本でアメリカ活劇調映画を撮るならば役者は伊丹十三しかいないと考えていた男である。()黒沢としては来るべき一般映画まで切り札は残しておくという気持ちだったろう。〉しかし成り行きで『恥ずかしゼミナール』に出演を乞うことになり、伊丹から色好い返答をもらう。〈何よりも自宅にあの伊丹十三が電話してきたということ。「電話で伊丹と話しちゃった」というミーハー的感動が最大の感動であったことはまちがいない。〉(『再履修~』)
蓮實・伊丹の訣別後も、黒沢は『タンポポ』や『マルサの女』に愛あるコメントを寄せているし、前述のように『スウィートホーム』時に伊丹に頼ってもいた。

〈我々は「アートレポート」以来の彼のファンなのである〉と書くのは万田邦敏。我々とは、黒沢清も含まれているのだろうか。「アートレポート」は76年。今野勉の関わったテレビ番組ではない。放映時、黒沢清は、大学生であっただろう。(〈『アート・レポート』の司会を十三週担当して伊丹さんの「テレビマン時代」は終わります。〉(176頁) )
では、『テレビマン伊丹十三の冒険』でメインで扱われている「遠くへ行きたい」を黒沢はみていなかったのだろうか。あるいは、みていたがまだ伊丹のファンではなかったのだろうか。「遠くへ行きたい」の伊丹登場回(44回)は71年4月~75年11月。黒沢の高校時代をほぼカバーするだろう。というのはーー

本書で、テレビマン伊丹の転機となったとされる『遠くへ行きたい』白樺湖篇の回(71年9月12日放送「ゲイジュツ写真大撮影  白樺湖ヘロヘロの巻」)がある。
〈霧の湖の岸辺近くに佇む若き女性というゲイジュツ写真を撮ろうとする伊丹さん、という設定にして、白樺湖に行ってみたら、案の定、霧が出なくて、カメラマンなどのスタッフが、万が一のために持ってきていた発煙筒を焚いて大苦労をし、その場面を別のカメラがこと細かに撮る、という「遊び」の提案をしたところ、伊丹さんが乗ってきたのです。〉
画面にはニセ霧づくりの裏側と、本物の霧の場面とニセの霧の場面示され、どちらがニセかは示さない、自己批評としての表現に挑んだという。そしてこの回では、友人のロッジ近辺で伊丹がヴァイオリンを弾く場面があり、今野氏は、
〈このシーンには、フルートとチェンバロの軽快なBGMが流れていて、伊丹さんのバイオリンの音は消されています。()私には、伊丹さんのバイオリン演奏をまともに聞こうとする意識がなかったのでしょう。()あのときの演奏は、もしかして、バッハの「無伴奏パルティータ」ではなかったのか〉と、大江『定義集』の〈そのアパートに行っても、かれがヴァイオリンでバッハの「無伴奏パルティータ」を練習する傍らで〉という部分を読んでハタと気付いたらしい。

偽の霧が炊かれ、伊丹はヴァイオリンを弾く。弾かれたのはバッハではなかったかと著者は考えるーー

この部分を読んでハッと連想したのは、黒沢清の『ドレミファ娘の血は騒ぐ』で伊丹はヴァイオリンでバッハを弾き、この映画のクライマックスが霧の水辺で生起すること。霧はもちろん、現場で焚かれたフェイクのものだ。
黒沢は「遠くへ行きたい」の白樺湖の回をみて、印象に残っていて、伊丹の起用とともにこれらのイメージが映画に流れ込んできたのだろうか。そうでなかったとしても、その偶然の一致には、何か運命的なものがあります。

『ドレミファ娘~』中盤の場面。伊丹は講堂のような建物のまえで、加藤賢崇から奪ったヴァイオリンでバッハを弾きはじめる。周りのポールに力なく垂れ下がっている赤黒い旗々が、伊丹の演奏につれて、徐々に、パタパタと強くはためき出す。
黒沢が立教に入学して蓮實の「映画表現論」で染まって以後であるから、81年の、伊丹が黒澤明映画の旗について〈あれもパタパタだ、これもパタパタだ〉と蓮實との鼎談で話す文章も、黒沢は必ず読んでいたはず。伊丹のパタパタ発言は当然頭にあったでしょう。

『ドレミファ娘~』では、恥ずかし実験で快楽を感じた娘の股間から「快楽の風」が吹き、旗をはためかせ、女性の髪が踊る。
この映画においては、伊丹のヴァイオリンの音色が風を、官能の風を吹かせる。「なぜ?」「どうして?」に満ちた世界で、ドはドであり、レはレである、すなわち絶対音/音楽のうちに、理由なき美しさ、が存在する。それが女性の快楽と結びつけられる。秋子・洞口依子は、録音された「吉岡さん」の(淫靡な?)歌声に導かれて、この学園にやってくるのだし、平山教授・伊丹のヴァイオリンを聴いて彼と行動を共にすることになります。
それはまた、蓮實のジャン・ルノワール論に端を発するイメージだとも言える。
〈ルノワールとは、卑猥なる大気の流れであり、またこれもたぶん淫らな仕草をともなって音色を発する一本のフルートなのだ。()冴えないやり方で横笛を吹く。するとあたり一帯に淫らな風が吹き荒れて、その場に居合わせた男女が()抱擁しあう。()存在はただ愛となる。〉(「ルノワール、または横笛の誘惑」79年4月初出、単行本『映画  誘惑のエクリチュール』は83年3月)ルノワールの横笛が弦楽器に持ち替られたのが、『ドレミファ娘』だとも言える。
音楽が、淫らな風を呼び、その快楽が、風をおこす。だが、秋子のマックスの快楽/恥ずかしさからは、風でなく、その股間から眩しい光を発する(=映写機=これこそが映画だ)という、ルノワール論をこえた飛躍をみせる。映写された光は部屋から外へ、外から別の部屋へと、遠くまで届き、その光を浴びたものを草の上のピクニック(『草の上の昼食』『ピクニック)に駆り立て、その先に銃撃戦を準備する(「映画は女と銃である」(グリフィス))。
これに比較すると、伊丹の『お葬式』での突風の、なんと “ 説話論的に ” 単調なことか。

さて、そのラストのクライマックス、ピクニックからの銃撃戦は、学園の外にひろい草原があり、そこは岸辺でもあるらしい場所が舞台となる。
冒頭からずっと黒い服に身をつつんでいた秋子は、その服装をピンクから、やがて白へとかえてゆく。銃撃戦の直前、それまでピンクだった服は唐突に純白に変わっている。秋子のうしろにキャメラを載せたクレーンとスモーク(偽の霧)を焚くスタッフが見え、これが映画なのだと強調する。

そしてこのクライマックスのシーンが、『テレビマン伊丹十三の冒険』で今野氏が書き起こした、「遠くへ行きたい」白樺湖編の霧の場面と、(カメラワークを除けば)イメージが酷似しているのだ。その引用。
〈 草原の奥の奥まで、濃い霧。
チェンバロのクラシック音楽が流れる草原を一本の道が奥から手前に通っていて、その道を、白のワンピース姿の女性が歩いてくるのが見える。
カメラ、反転した位置へ。
イメージ・ガールのうしろ姿。
彼女の前にも丘陵の草原が広がっており、這うように霧が流れている。
もう一度、白い服の女性の正面ワンショット。
そこからカメラ、ズームバックすると、霧に覆われた幾重もの草丘が広がっているのが見えてきて、白い服は奥の方の霧に包まれて見えなくなる。〉

「テレビマン伊丹十三」を決定づけた「遠くへ行きたい」の白樺湖の場面が、伊丹と同じ師の影響下にあって自身のデビュー作とも同時期に作られた映画監督の一般映画デビュー作、自身の出演作でもある『ドレミファ娘』の最後の場面に重なる奇縁。テレビマンから映画作家へと移行しようとする、その瞬間に「テレビマン伊丹」の記憶の刻印を偶然にも『ドレミファ娘』には刻み込まれていた。
その(少なくとも師からの)映画的な評価の、残酷な対比が、その未来には待っていた。

***

3.結び


『取り替え子』のなかで大江健三郎は、伊丹(吾良)の自死に対する北野武の反応を、憎々しげにこう書く。
〈イタリアの映画祭で賞を得たコメディアン出身の監督が、受賞映画のプロモーションにアメリカへ出かけて、おおいに受けたという、
ーー吾良さんが屋上から下を見おろした時、私の受賞が背中をチョイと押したかも知れない、というコメントを読んだ時も、こういう品性の同業者かと思っただけだ。〉
蓮實重彦『大江健三郎論』(80年)に激怒したとも、蓮實の名が目次にあるだけでその文芸誌をゴミ箱に放り込むとも噂される大江は、その蓮實に、自分が兄のように慕う伊丹がかぶれ(81年より少し前?)、のちに全否定されて陰鬱な人物になってしまった、かもしれないことにも、我慢ならなかった、かもしれない。その蓮實が、立教の門下生たちを後押しするように、北野武のどの映画も持ち上げることに、〈こういう品性〉の同類がよと、吐き捨てるように思ったのかもしれない。

*

第3章は、伊丹の訃報をきいた前後の話をしたあと、〈どう終えていいのか、うまく気持ちを整理できないでいます。〉とあやふやに記述を終え、『天皇の世紀』の最終回を書き起こして着地としている。大佛次郎の絶筆と伊丹の死を重ね合わせたかたち。
「あとがきに代えて」では、〈「テレビ的」であるとは「映画的」であることより面白いという指摘は、メディア史を語るうえで非常に重要だと、私は思います。〉と書かれている。あくまで、テレビは自由で面白い、その信仰はゆるぎなく、親族以外の理由で隣接ジャンルへ目移りすることは、今野氏にとって〈違和感〉があり〈受け入れがたい〉ことなのだ。

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