「HINOMARU」という名のビジネスソング

※この文章は真実ではなく、個人的感想であり推測です。その旨ご理解いただいた上でお読みください。

RADWIMPSの出した「HINOMARU」という楽曲が話題となっている。歌詞の内容があまりに保守的、ウヨ的だということで、多方面でざわついたらしい。ファンには概ね好意的に受け止められているとの論もあるが、確かにこれまでの彼らの歌とは明らかに毛色が違っていて、首を傾げる人もいるのではないだろうか。

さて、この「HINOMARU」という曲。この曲が話題となっていろいろと考えてみたのだが、どうもこれはビジネスのために作られたものではないかという気がしてならない。

ボーカルで作詞作曲も行っている野田氏によれば、

「日本に生まれた人間として、いつかちゃんと歌にしたいと思っていました」

ということらしいのだが、このタイミングでこの曲がリリースされたのは、おそらく理由はそれだけではないだろう。

その他の理由こそがビジネス、つまり売れることである。

それはこの曲が売れるということではない。この曲はいわば種まきであり、自分たちの存在をアピールするためのものである。

しかしそれは炎上を狙ったものでもない。彼らはそれなりに知名度のあるバンドでもあるのだから、あえて炎上というリスクをとる必要はない。

にもかかわらず、彼らは炎上するリスクを織り込み済みで、自分たちの存在をある特定の層に向けてアピールするために、あえてこの曲を出している。

その理由とは「より売れること」、つまりビジネスだ。

そして彼らの狙っているであろう大きなビジネスチャンスこそが、そう、「東京オリンピック」である。

つまり彼らの狙いは「東京オリンピック」において、なんらかテーマソングを担当することであり、その目的達成のために作られたのが今回の「HINOMARU」なのではないだろうか。

私がそのように感じるのにはいくつか理由がある。一つは「オリンピックのテーマソングは美味しい」ということだ。

すでに記憶に新しいことではないが、2004年にアテネオリンピックが開催された。どんなオリンピックだったか、と問われると、なかなか思い出せない方も多いだろう。

しかしどうだろうか。その時のオリンピックでNHKのテーマソングとなっていたのが、ゆずの「栄光の架橋」だったと聞けば、思い出す方も多いのではないだろうか。この歌が脳裏に浮かぶ時、おそらく多くの方は同時に、体操の男子団体が金メダルを獲得した、冨田選手の鉄棒からの着地のシーンを思い浮かべるのではないだろうか。

そしてその感動と相まって、「栄光の架橋」は国民的な歌へと昇華した。カラオケでも人気の曲となり、ゆずは国民的な歌手となり、紅白を始め、多くの大舞台に登場することとなった。もちろん、それ以前からゆずは売れていたが、オリンピックのテーマソングとなった「栄光の架橋」の少し前の歌など、ファン以外は知らないのではないだろうか。

「夏色」や「少年」、「いつか」や「嗚呼、青春の日々」など名曲も多い彼らであるが、当時のゆずは、いわば旬を過ぎてしまった感は否めなかった。しかしこの「栄光の架橋」の大ヒットによって、彼らは見事に息を吹き返した。

話をRADWIMPSに戻そう。

彼らの置かれている現状はどうだろうか。

確かに00年代のJ-POPシーンを語る上で、彼らの存在は大きい。野田洋次郎の作り上げる独特の世界観と、それを反映させた意味深な歌詞は、考えさせられるテーマも多く、そこに魅了されたファンも多いのではないだろうか。

だがここ数年、彼らの活躍は鳴りを潜めた。もちろん人気バンドであることに変わりはなく、また2017年には映画「君の名は。」の主題歌を担当し、「前前前世」はスマッシュヒットを記録。その存在感が示されたことは間違いない。だがしかし、新たなライバルバンドの登場や、アイドルや声優といった他ジャンルの音楽のムーブメントの加熱などの影響もあり、一時期の人気から見れば、やはり若干旬を過ぎてしまった感は否定できないだろう。

諸行無常・栄枯盛衰の世界にあって、それはどんな売れっ子バンドにだって訪れる時期であり、それぞれのバンドが、それぞれのやり方で、その下り坂の時期を過ごしてきた。しかし、やはりバンドをやっている以上、その現状を打破したい、また売れたいと思うのは、至極当然の欲求である。そのために、これまでのやり方を変えて、なりふり構わずにというのは、往々にしてあることだ。

そんな彼らの前に訪れたビッグチャンスがそう、「東京オリンピック」なのだ。

この「東京オリンピック」は、これまでの海外で行われたオリンピックと違い、国内で行われる。盛り上がりはこれまでのものとは比較にならないほどだろう。いろんな業界で、このオリンピックのビッグウェーブに乗りたいという動きが当然のようにして起こってくる。それは、音楽業界も同じだ。

おそらく、水面下ではどのアーティストがテーマソングを歌うのかという熾烈な競争がすでに始まっていることが予想される。それにはもちろん、事務所の力というものも大きく影響するが、何よりも選ぶのは、それなりに地位のある人間だ。それはつまり、そこそこ年齢のいった層の人たちだ。

しかもその決定権のあるであろう人たちは、現政権ともある程度近い距離にある人たちであろうし、日本という国をこのオリンピックで一つにしていきたいという思想のようなものも持っているだろう。

だが、そんな彼らには、おそらくRADWIMPSの名前はさほど知れ渡っていない。これは致命的な弱点である。いくらいい曲を作ることができるバンドであっても、決定権のある人間たちに知られていなければ、彼らは無難に知っているアーティストを選んでしまうのだ。

そこで彼らは考えた。なんとか決定権のある人達に、自分たちを知ってもらわなければならない。そのためには、オリンピックのテーマソング選定に関わる人達にアピールできる曲を作らなければならない。そんな目的意識のもと作られたのが、彼ららしさとは程遠い楽曲、「HINOMARU」というわけだ。

私がそのように感じる理由はまだある。それは歌詞を読んでみていただければわかるのではないだろうか。

この「HINOMARU」の歌詞には、RADWIMPSらしさ、彼らのオリジナリティというものがほとんど感じられない。どの言葉も、どこかで見聞きしたような、実にチープな言葉たちである。「ふたりごと」や「有心論」、「おしゃかしゃま」などの名曲を生み出した野田氏とは思えないほど、ありふれた言葉、使い古された言葉を羅列している。

そして彼はTwitterでこうも述べている。

「純粋に何の思想的な意味も、右も左もなく、この国のことを歌いたいと思いました」

つまり特段右寄りな思想に基づいているわけではないのに、このような歌を作ったということだ。彼らはどっぷりとウヨ的な思想に染まっているわけではない。けれど、こんな歌を作っている。それは言うなればニワカだ。それらしい言葉を使って上澄みだけを掬い取ったかのような詞。そこから伺えるのは、彼らはさほど本気でこの詞に取り組んだわけではない、ということではないだろうか。

彼ららしさが感じられない軽薄な歌詞。ところが、それが刺さる人たちがいるのだ。

そう。それこそが前述したオリンピックのテーマソングの決定に関わる人たちだ。

つまりこの曲は、テーマソングの決定に関わる人たちをターゲットとしたからこそ、あえて使い古されて目新しさのない、安易な言葉で綴られているのではないだろうか。

野田氏はTwitterでこうもつぶやいている。

「HINOMARU
ただまっすぐ届きますように。」

この届く先とは、一体誰のことを指しているのだろうか。私には、オリンピックのテーマソングを決めるであろう人たちに、というように感じられてならない。

これはあくまで個人的な感想であり、推測である。この推測の通りであって欲しくない、という思いもありつつ書いてみたわけだが、それ以上に、彼らがウヨ的な方向へとさらに歩みを進めてしまわないかとも、危惧せずにはおれない。

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