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ドヤ区域。

 小便の臭い、薬物常習者の奇声、酔っ払い同士の喧嘩、屋台から飛んでくる呼び声と漂ってくる何かを煮込んだ匂い……。
「湿気の街」のドヤ区域は、今日も変わらず湿気と喧騒に包まれている。
 アンモニア臭漂う泥濘んだ地面の上を、リヤカーを引いて進んでいく。
 僕が歩く道の両側には、簡易宿泊所がところ狭しと立ち並んでいる。このエリアに住む人々の為のだ。ドヤ区域の住人の大半が日雇い労働者と生活保護受給者で、彼等の寝床となるのが簡易宿泊所、通称「ドヤ」なのだ。
「いらっしゃーい」
 ちなみに、ドヤとは「宿」を逆さにして呼んだ言葉らしい。旅行で泊まるような宿とは同じにすることは出来ない、とでも言うような皮肉めいたものを感じる。
「安いかもよー」
 湿気の街のドヤ区域。山谷(旧地名。現在は清川・日本堤・東浅草付近)や寿町、あいりん地区の「日本3大ドヤ街」に並ぶ街と言っても過言ではない。
 道脇は、ブルーシートを敷いて、怪しい薬、注射器、日用品、如何わしい古本やDVDを販売している人々で埋め尽くされている。この街全体で警察組織があまり機能していないから、闇市が白昼堂々と行われている。
「いらっしゃーい」
 そんな中で、阿亀を被った僕もリヤカーに商品を載せて、路上販売を行っている。
「安いかもよー」
 販売商品は、複製DVD。映画、ドラマ、AV……。ジャンルなんて問わないし、ノイズの有無も関係ない。買って外れたら、買い手の運が悪かっただけ。見た目が商品ならそれでいいのだ。店頭に並べる物が多ければ多い程いい。
「いらっしゃーい」
 俯きながら歩く小汚い格好をした日雇い労働者達の間を、リヤカーを引いてゆっくり歩く。
「安いかもよー」
 ただ俯いて仕事現場へ向かう者もいれば、横目で商品を見る者もいる。盗もうと僕の隙を狙う者も。
 じょぼぼぼぼぼぼぼぼぼ……。
 液体を注ぐ音が右側から聞こえた。ドヤとドヤの僅かな隙間に、立ち小便をする老人がいた。頭皮が見えるぐらいに少ない白髪、汚れたタオルを首にかけ、白色になりかけた水色の作業着姿の男。ドヤ区域ではよく見る見た目の奴が、ドヤ区域でよく見る立ち小便を行っていた。
 初めてこの区域で立ち小便や野糞を見た時は、自分の足元に広がる湿った土が気持ち悪くてしょうがなかった。でも、何年もここにいれば何も感じなくなる。慣れていいものかどうかは分からないけれど、考えたところで1銭にもならないからどうでもいい。
 彼を素通りしようとしたら、立ち小便男がズボンのジッパーを上げながらこちらを振り返った。すると、にぃ、と気持ちの悪い笑みを浮かべて小走りで近寄ってきた。
「見してがろ、見してがろ」
 滑舌の悪い彼の要望通り、その場に止まった。
「うぬうぬ、うぬうぬ」
 立ち小便男はリヤカーに並べられた商品を、1つ1つ顔を近付かせて見ていった。洗ってもいない手で触られたらどうしようという不安が少しだけあったけど、まぁ、買うのは僕じゃないから別にいいやと思うことにした。
「うぬう……」
 立ち小便男はある商品を手に取ると、まじまじと見た。
「ふぬ、これがよいがろ」
 近寄ってきた彼の手には、「淫楽クラブ~第34回公演~」とパッケージに記されたものがあった。
 なかなか通な物を選んだね。表の店じゃ手に入らない、珍しい物だよ。
「100円」
 僕がそう言うと、立ち小便男は、にまぁ、と気持ち悪い笑みを浮かべた。
「おいらね、おいらね、またいっぱいお金持ちになったがろ」
 微笑む彼の口から見える歯は、ところどころなくなっていた。
「歯売り爺」だ。このドヤ区域で自らの歯を売り捌いては生計を立てる、ここでは割と有名な売人だ。こんな小便臭い老人から歯を買うなんて、一体どこの変態だろう。
「100円なんて安いがろ」
「えー。高いよー高いよぉー」
 歯売り爺のいる反対側から子供染みた声が聞こえた。
 そちらに顔を向けると、いつからいたのかシルクハットを被った男が涙目でこちらを見ていた。モデルのようにすらっとした体型の彼は、上下黒色のスウェット姿で、シルクハットには似合わない。
「高いよぉーお兄ちゃん」
 まるで血の繋がった年の離れた兄弟に言うような甘えた声で、シルクハットの男が言った。
 見たところ、男は30代前半で、僕より5、6歳も年上そうなのに。
「……安いよ」
 言い返すと、今度は歯売り爺がぶんぶんと首を横に振り始めた。
「高いがろ、高いがろ」
 さっきとは真逆の発言に、心の中で舌打ちをした。せっかく儲かりそうだったのに、邪魔しやがって。
「高いがろ、高いがろ」
 歯売り爺の首振りがどんどん激しくなっていく。
「高いがろ高いがろ高いがろ」
 壊れたロボットのように、何度も何度も同じ言葉を繰り返す。
「高いがろ高いがろ高いがろ高いがろ高いがろ!」
 まずい。ドヤ区域の住人は、薬物をやっている奴も多いし、純粋に頭のおかしい奴も多数いる。変なスイッチを入れてしまったら、止められない可能性が高い。
「高いがろ!!!!!」
 歯売り爺がリヤカーを蹴飛ばした。
 ばらばらといくつかの商品が地面に落ちる。
「高いがろ! 高いがろ!」
 今度は両手で商品を振り払うように落としていく。
 その光景を見ていた日雇い労働者達が、わらわらと俯きながらこちらへ近寄ってきた。その姿はまるでゾンビのよう。囲まれた。歯売り爺が暴れている光景をじっと見ている。いや、違う。物欲しそうに僕の商品を、だ。
「無料がろ!」
 そう歯売り爺が叫んだと同時に、日雇い労働者達が一斉に走り出した。僕からリヤカーを引き離し、リヤカーを押し倒し、地面に撒かれた商品を我先に我先にと奪い取っていく。その激しい略奪は徐々に争いになっていく。それぞれが手にした物を奪い合い始めた。殴って、蹴って、噛んで、引っ掻いて……。まるで、日々溜まっている肉体労働のストレスを発散するかのように。
 僕はその光景を、尻餅をついて眺めていた。
 もう、どうしようも出来なかった。僕が生きる為の物が、誰かが生きる為の金になっていく。ドヤ区域はそういうエリアだ。皆、自分のその日暮らしの生活費だけを考えて生きている。
 日雇い労働者達のうちの1人が僕を見た。鼻息を荒くして近寄ってくる。そして、僕が被っている阿亀に手をかけた。
「止めて!」
 僕は必死になって抵抗した。日雇い労働者と阿亀を引っ張り合う。
 こいつ等は何から何まで僕から奪うつもりだ。金になる物、生活を少しでも豊かにする物、何に使うか分からない物。何でもいいから、何から何まで。
 日雇い労働者に腹を蹴られた。
 呼吸が出来なくなる。阿亀を掴む手が緩くなる。
 ふと、昔のことを思い出した。
 複製DVDを販売する前、近くのレンタルビデオ屋や古本屋で集団で暴れて商品を奪って売って生活費にしていたこと、涙を流し懇願する店員達のことなんて見向きもしなかったこと、後日強盗に入った店が潰れていたこともあったこと。
 ……そうか。僕も、何も違わないじゃないか。
 諦めて、阿亀を離そうとした時、
「んごっ!」
 日雇い労働者の低い呻き声と共に、阿亀を引っ張る力がなくなった。
 人々が奪い合っている喧騒の中、僕は静かに顔を上げた。
 そこには、濃紺色のペストマスクを被った男がいた。右手に持ったバールを、退屈そうにぶんぶん振り回している。
「助けにきたよん」
 彼にとって言い慣れているのであろうその言葉が、今の僕には堪らなく嬉しかった。



【登場した湿気の街の住人】
 
・阿亀の男
・日雇い労働者達
・歯売り爺
・シルクハットの男
・ペストマスクの男

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