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アメリカ郊外の住宅 #2

自分のことは自分で決める

アメリカの個人主義はもはやステレオタイプで、それよりは合理的な思考と行動を規範とするといったほうが、より実態に近いと感じるが、たしかにアメリカで生活していると、自分のことは自分で決めないと物事が前に進まない。
誰も助けてくれないわけではないが、頼まれてもいないのに手を差し伸べるのは、その人の実力を過小評価しているとする見方もあるわけで、たいていの場合こっちから求めないと周囲は手を差し伸べていいいかわからないから、ヘルプが得られない。これはアメリカにいる人たちがけっして冷淡とか他人に興味がないという話ではなく、多様な人種をかかえるアメリカではむしろ他人をリスペクトすることの大切さや社会奉仕への眼差しはある程度には根付いているので、まず前提条件として自分のことは自分でするのが社会全体の共通理解として定着していることの証左ではなかろうかと思う。
アメリカの個人はたいていの場合パワフルで、他人の趣味嗜好にあれこれ口出しすることもなく、自分の好みを素直に表現して生きている。
で、私のひとつの仮説として、このように自分のことは自分で決めるアメリカでは、人生のある期間に住まう住宅を、その時点における今と将来の個別最適解として提出された住宅に住み続けるのはちょっと抵抗があるのではないかと思うわけだが、なぜかと問うにそのように将来の生活を今の時点で想定し規定することが、はたして可能なのかと、素直な疑問が浮上する。
それならば、ある特定の住み手のための個別最適化された住宅ではなく、建売りのあるいは規格化された様式で、一般受けのいい、将来にわたって買い手がつきそうな住宅でよしとするマインドになるのもうなづける。
スクラップ&ビルドで消費するのではなく、買って住んで売るのである。

実家の概念

日本で”実家”というフレーズは馴染みがあって、ウェットな懐かしさを感じるが、アメリカで”実家”というと、いちおうはparent's houseと言うことはできるが、日本でいう”実家”と同列の趣をもつかはわからない。
たとえば郊外のさらに地方の戸建ての老夫婦が住んでいる住宅なんかは、巣立った子供たちがクリスマスに帰ってきて、家族で過ごすなんて一幕があったとして、それはなかなか”実家”感だが、私の知人などは60歳を過ぎて、今住んでいる地域は税金が高いからよその州に引っ越したり、別の知人は親が病気して、もともとは州を離れて住んでいたのを心配だからと自分たちの近くに家を買って引っ越してもらったとかしているので、長い人生をひとつの場所で送るケースは非常に稀ではないかと感じるのだ。つい先日も、ある知人だが、シカゴ、オハイオ、タンパと20年くらいの期間で3か所を転々とし、その度に家を買っては売ってを繰り返している。
つまり何が言いたいかというと、アメリカの”実家”は日本のそれよりもいくぶん乾いてより即物的で、たんなる容れ物である印象が強い。
規格化された容れ物である家で、個人がそれぞれにクリエイティヴを発揮し、自分の人生をみつけていく。幸い家はでかい。部屋は広くて天井も高い。多くの場合、ある年齢までの個人のクリエイティヴを邪魔しないスペースはじゅうぶんにあるだろう。

大きく広い部屋

このようにアメリカの家はでかい。で、人間の身体の動きで感知できるサイズ感よりも大きなスペースは、ただのでかい空間というわけで、家具や生活に必要なあれこれを配置していくと人の住まいが完成するというのが、私が感じるアメリカで、このように余裕のある空間では、住まい手が好き勝手にアレンジするので、意図的にデザインされた設計は、さらには将来に売ることを想定すると、依頼主もマーケットもそこまで必要としていないのではないかと思う。


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