「実験の民主主義 トクヴィルの思想からデジタル、ファンダムへ」~不確実な時代における"プラグマティズム"と"編集"の可能性~

日々の読書に記録を、メモ程度の備忘録として残していきます。

本の表紙を見ると、「宇野重規著」「聞き手 若林恵」と記載されている。これは罠だ。読み終わった後にそう思った。
どう考えても、若林恵は"聞き手"の定義を大きく超えている。後半はむしろ宇野重規よりも話している量が多いのだから。
しかし、ここにこそ、本書の独自性と魅力がある。


はじめに基本的な情報を確認しておくと、東京大学社会科学研究所の教授を務める宇野重規の話を、個人的にも大好きな編集者である若林恵が聞き手として行われた、計20時間にも及ぶ対話から生成されたのが本書である。
副題にもある通り、対話は宇野重規が専門としているトクヴィルに関する話から始まり、そこからデジタル、そしてファンダムへと展開していく。

面白かった内容は数多あれど、最も心が動いたのは、宇野重規による「語り手のあとがき」かもしれない。
正直、自分はあまり知らなかった方なのだが(しかも同郷らしい)、日本を代表する政治思想史の大家である宇野重規ここにありという、素晴らしい文章だった。
あとがきから読むと良いというのはよく言われる話だが、まずここを読めば、この本がどういった本であり、どういった魅力があるのか十二分に分かる内容になっている。
未読の方は、ぜひ立ち読みなどで確認してみてほしいと思う。
(ちなみに、Youtubeでの刊行記念対談等では、普段大体こういう場では、その場の流れを完全に掌握してしまう若林恵に対して、対等にやり合う宇野重規のその話の実力も見事だった。)

そのため、「語り手のあとがき」を参考に、この本の内容について簡単に触れていきたい。

本書は民主主義論において大きく二つの角度から問題提起を行なっている。
一つ目は、執行権(行政権)への着目。我々は政治の話となると、とかく選挙の話(立法権)の話ばかりに終始してしまうが、もっと日々の執行権の営みに対して、影響力を行使することができるのではないかという話が行われている。
二つ目は、新たなアソシエーションとして、ファンダムという概念の可能性を考えること。若林恵は「ファンダムエコノミー入門」にも深く関わっていたわけだが、そこでの知見を活かし、大胆な考えを宇野重規にぶつけるこで、現代的なファンダムのなかから「21世紀の政党」の新たなモデルを見出せないかという議論にまで発展している。

この二点が内容としてはポイントだと思うが、本書の本当の魅力はここではないように思う。この本における魅力は、本全体を貫通するその立て付けにこそあるのではないか。
キーワードは、"プラグマティズム"と"編集"だ。

宇野重規がかつて執筆した「民主主義のつくり方」を読んだ若林恵が、「ルソー(意思)」から「プラグマティズム(実験)」への転回を、オードリー・タンがインタビューで語った「リテラシー(知)」から「コンピテンシー(行為)」への転回と重ねて、デジタルやファンダムの話と巻き込みつつ、縦横無尽に展開させていく。
"プラグマティズム"を軸に、実際にやってみることを中心に据えて、物事を考えるという営みは、最近の若林恵が興味を持って取り組んでいることだと思うが、それをまさにこの本を通して実現している。
なにせ、この対話はプロットはありつつも、最終的にはそのプロットの枠には収まらずに、当人たちも予想しなかった場所にまで辿り着いたようだから。
まさに"プラグマティズム"の思想を、内容のみならず、本の立て付けでも実現しようとしている、意欲作だったのだろう。
この精神は、冒頭部分の以下の若林惠の言葉だけでも十分読み取れる。

本書のあとのほうで触れることにもなるかとは思いますが、まさに哲学者の鶴見俊輔(一九二二-二〇一五)さんがアメリカのプラグマティズムを説明する際に使われた「マチガイ主義」————間違ってもいいので、まずはやってみる————の精神で進めていけたらと思っています。

また、本編最後では、"プラグマティズム"を「みんなが絶えず実験をしながら、問いを探していく社会」と読み替え、短期的な答えが与えられていくことで思考放棄に陥り、安易に「最終解決」を求める社会とは違うと宇野重規が語っており、これは昨今話題にもなるファスト教養の文脈ともダイレクトに繋がる。その点でも、"プラグマティズム"の思想の重要性は確認できるだろう。

ちなみに、ここで"プラグマティズム"について、自分が少し考えたことをメモしておくと、システム開発における"アジャイル開発"はまさにこの"プラグマティズム"をベースにした考え方ではないだろうか。
検索すると、そういうことを言っている方もいるようではあるが、あまり真正面からこの話題をしている人はいないような気がする。
システム開発の世界では、計画を重視し柔軟性の欠けるウォータフォール開発は悪であり、短いサイクルで試行回数を積み重ねて改善を重ねていくアジャイル開発こそ正義であるという論調が少なからずある。
自分自身そこには賛同しつつも、どこか引っ掛かるものがあるのが正直なところだ。
どうも、アジャイルの思想が曲解されるケースはまだまだあるように感じるし、果たしてプラグマティズム論において重要とされている、個々人の経験が連鎖して多くの人々に伝播し習慣として定着していくという流れを実現できているのだろうか。
"プラグマティズム"という考え方を、より具体的に政治やその他の場所に適応していくとしたら、システム開発における"アジャイル開発"の現在地を冷静に見直してみることは、何かの気づきになるのではないだろうか。


閑話休題、最後にこの本の最も魅力的なポイントに触れたい。それは"編集"の真髄が詰まっている点だ。
宇野重規の文章がとても素晴らしかったので、丸ごと引用させていただきたい。

政治思想史研究者と卓越した編集者のコラボ作品である本書は、学問と社会を結びつける、新たな可能性を示唆している。
(中略)
研究者自身は、自らの研究が社会に対してどのような意義を持つのか、必ずしも自覚しているわけではない。そのようなときに必要になるのが、有能な「編集者」の存在である。この場合の「編集者」とは、いわゆる職業的な編集者だけではない。むしろ自分自身が特定分野の専門家ではなくても、さまざまな専門家の知見を理解し、その社会的意義を発見するのが「編集者」である。

まさしくではないだろうか。
若林恵は、社会的意義を発見するために、この本の中でこれまでの当人の経験・知見をフル活用して(時にあまりにアクロバティックすぎる内容も含めて)様々な内容を持ち込んでいる。
上述のオードリー・タンの話もそうだし、ファンダムの話もそう。そういった話を冒頭に書いた通り、聞き手の枠に収まりきらないほどの分量で、宇野重規にぶつけ、その先に何があるのかを見出そうとしている。
"編集"というのは、きっとこういう営みのことを指すのだろう。
(若林恵本人がYoutubeの配信で触れていたが、Amazonレビューでは話が噛み合っていないという指摘がなされている。個人的には噛み合っていないともそんなに思えないが、その噛み合わなさの中から何か一歩でも見出していくことこそが重要であり、宇野重規の言う対話の楽しさなのではないだろうか)

この本の中でも重要な役割を果たしている、若林惠がよく持ち込む話がある(個人的にも大好きな話だ)。シェアハウスを経営している不動産スタートアップR65代表の山本遼さんの話だ。

「シェア」というと多くの人が、ある決まった資源を分配することだと思ってしまうけれど、実は違うとおっしゃっていました。そうではなく、「シェアというのは、みんなで持ち寄ることなんだ」と彼は言います。

この考え方こそ、"編集"に重要なのだと思う。
たとえ、門外漢であったとしても、自分がここに持ち寄れるものは何かないのだろうかと考え、ぶつけていくこと。
そして、"プラグマティズム"の思想をもとに、たとえ間違ったとしても、その経験から学んでいくこと。
これを投げかけに留めずに、実際に実践すること。それをこの本は見せてくれている。

参考

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