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【題未定】誰しもがクソリプおじさんという裸の王様になる可能性がある【エッセイ】

 SNSをしているとクソリプをする人に度々遭遇する。人の書き込みに対して誤解や訂正の指摘をするのではなく、上から説教を垂れたり、議論を吹っ掛けるようなタイプの人たちだ。そうした人へどう対処をするのかはSNS上でのテンプレートのようなもので、効果的なのは無視、削除、ブロックの三弾攻撃だ。相手をしても面倒で仕方がないし、そもそもネット上で議論を吹っ掛けるような輩の大半は自己主張をしたいだけで相手の意見を聞いて自分の意見を変えたり、認識を新たにするような殊勝な心構えの人間はいないからだ。

 Xの場合、私が人の書き込みを見て自分の意見を言いたい場合は引用リツイート(リポスト)をするようにしている。引ツイは自分の意見を言う場所で、相手に反応を求めているわけではなく、あくまでもそのツイートにインスピレーションが湧いた、という出典を書いているに過ぎないと認識している。リツイートの場合、非表示を単純にすれば見ることも無くなり、自分の投稿に対するリツイートもそうするようにしている。

 noteにおいても同様だ。私のnoteのページは私の書きたいことを書く場であり、ネット上の知らないおじさんから説教や教えを受ける場ではない。むしろ他のSNSと比較してもnoteは自分の城という感覚は強い。必然、誰から説教を受けたいなどと露ほども思わない。ところが世の中には自分の「正しい」説教や教えをネット上の誰かにしてあげずにはいられない人間がいるようだ。そうした人がどのような人間であるかをプロファイルをすることは難しいが、その手の人間が所属する職場やコミュニティで同じようなふるまいをしているであろうことは想像に難くない。

 職場において中年男性は一定の権力者であることが多い。いわゆるJTC(Japanese Traditional Company)の多くは年功序列を敷いており、大した業績も、周囲からの尊敬も無くともおじさんというだけでそれなりに「偉い人」になってしまう。そうしたおじさんは自分の発言が周囲に尊重されることを無条件で信じている。しかし、実際には彼の立場や社会的地位を尊重しているだけで、彼自身の人格も話す内容も周囲からまともに相手をされているとは限らない。そしてそれに気づかずに、裸の王様が裸だと認識もせずにインターネットで踊り狂っているのがクソリプおじさんの虚しさなのだ。

 私自身も気づけば40歳を超え、職場やコミュニティでそうした扱いを受ける立場になった。もはや立派なおじさんとなり果ててしまった。もちろん年を取ることは悪いことばかりではないし、年輪を重ねることでの余裕など深みを得ることもあるだろう。しかし、教員という仕事上、説教おじさん化は悪い影響も多い。生徒との年齢が離れるほどに生徒との関係性も忖度的な受け答えが増えたようにも感じる。リアルでの老化は致し方ないにしても、せめてネット上ぐらいではクソリプおじさんにならないように振舞いたい、とクソリプを見るたびに思うのだ。

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