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フリースクールの在り方とアンチフリースクール東近江市長の発言


東近江市長の発言

東近江市長が「僕は文科省がフリースクールの存在を認めてしまったということに、がく然としているんですよ。」という発言をしたことが問題になっています。

「フリースクールは国家の根幹を崩しかねない」この発言は不登校が社会問題化する中で、その草の根で活動をする人たちに対し冷や水を浴びせるような発言であるのは確かです。

東近江市長の発言は高齢者の典型的な意見

現代の子供の教育現場や子育てに関わっていない老人の典型的な感覚がこの東近江市長の発言に表れています。

恐らく日本に住む多くの高齢者、特に高齢男性はこうした考えを持っていると考えて大きく間違っていないでしょう。

彼らの感覚を変えることは難しいですし、実際変わることはないでしょう。

市長は「フリースクールそのものに批判的なのではなく、フリースクールを認める文科省が『安易な判断』で無責任だ、という主旨だ」と一応の弁解をしたようです。

「不登校は親の責任」か?

市長は発言の中で「不登校は親の責任」ということも語っています。

まずこの点について確認したいと思います。

数十年前と比較して日本は子供の権利が守られる社会になり、子供を無理やりどこかへ連れ出したり、暴力や実力行使で何かをさせることができなくなりました。

また、それと同時に共働きかつ核家族世帯が増加したため、以前のように専業主婦の母親が子供をたたき出すということができなくなりました。

その結果、親の出勤後に家に戻る子供や、体調が悪いから後から出ると言ってそのまま学校を休む子供が増えたのは事実でしょう。

そうした意味では親の責任という言葉が全く当てはまらないわけではないかもしれません。

しかし家族構成の変化や貧困化、女性の社会進出などはそもそもが国や行政にその責任があるのも事実であり、それを親個人の責任とすることには違和感を覚えます。

それらは社会全体で背負うべき課題であり、その結果不登校という副次的な課題も発生したのであって、それを親の責任だと行政の首長が語るのはお門違いではないでしょうか。

フリースクールを公的に認める動きの是非

そうした不登校の子供たちの居場所のフリースクールを文科省が公的に認めることが不登校を助長させる、と市長は語っています。

 そこからこぼれたごく少数の人に対してスポットを当てて、「フリースクールの負担をみなさい」というのは、無理して無理して学校に行っている子に対して、「フリースクールがあるんだったらそっちの方に僕も行きたい」という雪崩現象が起こるんじゃないか、と非常に怖さを感じている。

恐らくですが彼の発言を見る限りでは、この東近江市長は自分が学校に行くのが非常に嫌だったタイプのようです。

彼にとって学校とは我慢していくもの、歯を食いしばって耐える場所という認識なのでしょう。

もちろんそうした個人の感想を否定するつもりはありませんが、一般には不登校の生徒は学校に行きたいのに行けない、というケースが少なくありません。(いじめなどの明確な拒絶理由が無いケース)

そうした子供の学びの場を確保するために、行政が全く負担をしないというのは国や自治体が義務教育の義務を果たしているとは言えないのではないでしょうか。

一条校という制度の見直しが必要

当然ながら、通常の小学校と同負担でフリースクールに通える、というのは
国庫負担的にも、公平性の観点からも無理筋ではあるでしょう。

しかし、少なくともある一定額の補助は認められるべきでしょう。

実際、非一条校の人気は上昇傾向にあります。

この中には富裕層が選択的に選ぶパブリックスクールなども存在しますが、同時にオルタナティブスクールなどの通常の学校に適合できない生徒の選択肢も存在しています。

ただ、行政の補助金が入る以上、施設やカリキュラムのガイドラインの設定と順守、加えて経営や運営状態の監査が求められるということでもあります。

現状のある種の自由さを手放してまで行政の補助を受けるべきかどうか、仮に行政の補助を受け入れたことによって一条校と同じ堅苦しさが生じてしまえば、フリースクールの良さは失われてしまうでしょう。

特に近年はNPO団体が公金の使い方で指摘を受けるなど、社会問題化しています。

そうした諸々の問題を考慮すると、一条校などの精度設計自体から見直す必要があるのではないでしょうか。

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