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はじめに|本郷和人『天下人の軍事革新』

本郷和人先生の『天下人の軍事革新』が大好評発売中です。信長、秀吉、家康は何を変えたのか?。戦国時代が終焉した理由を3人の軍事革新から読み解いた1冊です。是非ご一読下さい。

はじめに

 戦国武将を中心に一九二人の言行をまとめた『名将言行録』(岡谷繁実著)のなかに、豊臣秀吉が語った織田信長と蒲生氏郷、二人の傑物についての話があります。

「信長様の五〇〇〇と蒲生氏郷の一〇万が戦うと、勝利するのは信長様である。というのは、蒲生勢が織田勢四〇〇〇人を討ち取っても信長様は必ず脱出している。いっぽうで織田勢が蒲生兵を五人も討ち取れば、その五つの首のなかの一つは、必ず氏郷のものだからである」。

 この話は人名を替えて(信長→主人公エウメネス、氏郷→アレクサンドロス、秀吉→フィリッポス二世)、岩明均先生の名作マンガ『ヒストリエ』(講談社)に用いられていました。

 『名将言行録』ですから史実ではないでしょうが、蒲生氏郷というと率先垂範、勇気をもって陣頭に立つイメージがあり、こういう話ができあがったのかもしれません。家臣思いの彼は自ら風呂を焚いて家来をもてなす人物だったと言われますが、新規召し抱えの侍には、次のように言って励ましたそうです。

「当家には銀の鯰尾の兜をかぶった侍がいて、よく働く。そなたもその侍に負けぬよう、励むとよい」。その侍が戦場で注目していると、確かに銀の鯰尾兜の男が戦場を駆け回っている。そこで目を凝らして見てみると、何とそれは氏郷自身であったそうです(これまた『名将言行録』)。

 氏郷が使用していた銀の鯰尾兜は残念ながら、伝わっていません。鯰尾兜というと、前田利家・利長親子が使ったものが、今でも大切に保管されています。利長と氏郷は信長の娘を妻とした義兄弟ですし、前田父子と氏郷はお茶を通じて親しく交わっていたようですから、鯰尾兜も前田家からのプレゼントかもしれません。

 それはさて措き、銀色に輝く鯰尾兜などをかぶって真っ先に進むと、敵の恰好の標的になってしまいそうです。しかし秀吉の九州攻めに際しては、氏郷が鯰尾兜をかぶって突進し、堅城で知られる岩石城(現・福岡県田川郡添田町)を落としています。これが秀吉勢に景気をつけるための最初の戦果だったそうですので、氏郷はいわばTPOを弁え、味方を鼓舞するためにリスクを取りながら「前に出た」のかもしれません。

 ゲームや小説で有名な『三国志』、ここでは呂布や関羽といった豪傑が一騎駆けを行なっていました。関羽は袁紹軍の勇将・顔良を討ち取ったと正史にありますので、本当に将軍みずから青竜刀を振り回すような戦い方がなされていたのでしょう。おそらく、味方の士気を上げるためだったと考えられます。

 日本でも源平の戦いにおいては、武士たちは技能を駆使しての一騎打ちを行なっていました。これは、集団戦が取り入れられていない時代の戦い方です。ところが戦国時代、織豊政権期になると、蒲生氏郷の戦い方はヘタをすると蛮勇、匹夫の勇との評価となる可能性が出てきました。これは時代が移り、戦い方が変化したために、評価も変わったということでしょう。

 元寇(一二七四年の文永の役と一二八一年の弘安の役。序章で触れます)が直接の契機かどうかは慎重に検討する必要がありますが、鎌倉後期から南北朝時代にかけて戦法が変わり、集団戦が主流になったことは確かです。より多くの兵を、戦場に連れてくることに成功した側が勝利する。そうした軍事の革新が起きたのですが、それを可能にしたのは農民を拘束する、武士権力の強化でした。つまり、軍事革新は政治マターだったのです。

 また、兵が夜陰に乗じて逃げ出さないように、しっかりご飯を食べさせる。これは経済の話になります。軍事行動は当然の話ですが、政治や経済と密接な連関を持っていました。すぐれた軍事指導者は能力のある政治家、経済人でなければならなかったのです。

 本書はこうした観点を大切にし、大軍を率いて覇を唱えた天下人、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康がいかに軍事革新を成し遂げたかを、広い視野に立って明らかにするものです。織田信長の全戦歴、戦国時代の最強武将は誰か、軍師はいかに作戦指揮をしたか、などの「面白い読み物」とはやや異なるテイストになっていますが、読者に新しい「なるほど!」を提供できたら、うれしく思います。

  二〇二三年三月
                             本郷和人