船旅に喩えるならば、明りに手が届きそうなほど灯台に近づけたとしても、その灯台ごと消滅したのであれば潔く次の灯台へと漕ぐしかない、と人は信じている。この点については、坂本京介も例から漏れない。彼にも会いたいと願っても会えない人が何人もいるし、会ったところで互いが話題に窮することを心得ていたから、虚しく努めることはしなかった。いざ決別の話題が上がっても、自身の精神を健康に保とうとして、抗おうとは思わなかった。
 京介はまどろみの振りほどかれた意識から、(まるで窓から外をそっと覗く子供のように)、連ねられた嘘の果てに無言の戯曲を共に演じた女を見やった。冷え切った精神は色の喜びを象るようにハイヒールの靴音を、コーデュロイの波型を、髪と首筋の匂いを、口紅を、ファンデーションを、奥にある人肌を、真髄なる温もりを欲しがった。……

 切望したその女の神秘を愛撫して、弾けるときに女は強く彼を抱きしめた。やがて彼も到達しようと試みた。
 酔いが安眠させなかった。京介は緩急のない呼吸を聴きながらそっと布団を抜けて横のソファへ腰を沈め、点いたままの薄暗い照明を受ける黒光のガラスの灰皿を見た。抜け殻のように散らばる服の中から喫煙具を取り出して煙草に火を灯した。時間を読むと四時であった。女の発言を思い出してのっぴきならないように、それでも気怠そうに煙草を持ったままそばに寄って体を小さく揺するが起きる気配がない。もう一度力を増して揺するも暖簾に腕押し。さすれば彼は紫煙を鼻に近づけた。煙に鼻を刺激され、苦虫を噛み潰した顔で女が目を開けた。どうやらいつのまにか白粉がし直されていたことが伺えた。女は抜け殻を纏い、二三言口にした後、一人で代金も残さずに去った。煎れたコーヒーを飲み干した京介も部屋を後にした。すぐにまた逢瀬することができるのだと確信していた。

 海の奥まった遠くの方で雲が湧き出ているのを京介が眺めていると、目の端で三鷹琴美のスカートが閃いた。琴美が顔に皺を寄せて彼を渚へと誘った。にわかに飽き飽きて、海嘯を観察してみたいと思いだした。
 人の中に死を必ず見つけようと彼は思っていた。暁闇を超えたこの決心はやがて彼の道徳と感情とを助けた。即ち、永遠に顔を合わせぬ人間はこの世を去ったものとするという極論を得た。
 琴美が掟を破って此岸への復活を為したことでその掟は崩れ去るかに思われた。しかしそうならぬのは、彼のわがままが一貫させたためである。それが幼稚で拙いことだと彼は知らなかった。
 警固公園を離れて月光の下できらめきストリートを歩いているとき、人混みの中にその女を見つけた。進学と足並みを揃えるように京介の独善から衝突し、彼は一人で仙台から福岡へと発った。置き去られたその女は、天神の喧騒の中でスーツケースを片手に佇んでいた。京介に気づいた琴美が気まずそうに話しかけてきたのだった。京介も同様に辿々しい面持ちで近寄り、二人で甘いアイスを買って、溶かしながら話し込んだ。バリがすっかりとれた金属のように彼らは言葉を交わした。そうしてY字路が伸びた先で繋がることを知った。未来が再び戻ってくることをも知った。
 果たして京介は大した高揚を覚えなかったが、アイスと孤独が溶けてゆくのを許した。苦労を要さずに、琴美は京介の家に住むことになった。友の忠告などを全て忘れていた。
『一体どうして戻ってきてくれたんだい』
 そんな質問は恐怖で出来なかった。琴美が恕し難い諸々を無かったことにしたのだと察したから。そうするよりもあり得ない幸せを噛みしめようという気になった。彼に万物がありありと礼賛を見せた。
 未熟は決して素直な心を作らない。欲望をいたずらに隠すことを正義としているからである。食べごろに実った二人にその時が訪れると、目配せと真面目な口合が部屋へといざなう。
 名誉心から大学の友人を交えて牡蠣小屋へ行った。空はこの日も晴れていた。友人達が貝殻の焼ける様を観覧する中、琴美が彼に目をやらず口にした。
「美味しそうだね」
 京介は答えた。
「そうかな」
 続けてありがちで大仰な冗談を口にすると、琴美が笑った。長く聞けなかった琴美の笑い声がのべつ続いたら、太陽が目に入って、幸福を見て目を閉じた。まぐわいの景色を浮かべながら。
「荒波と受難とが合わさる景色。ネオンが照らす犠牲。スーツケースの中身は何ですか?
 俺の良心の根拠は許せないこの胸にある。羽ペンを持って全てを自堕落に書いてしまおう。そうして書いた手紙を君に送ろうと思っても何もせずにやめた数はもう知れない。手紙すら書いてはいないのだから。
 そうか、輪廻の彼方より戻ったのだろうね。ここには友達がいるのだから、君はきっと怒るだろうけど、今すぐに腕の中に連れ込みたいのだよ。そしてこれらの言葉全てには意味がないのさ」
 彼はこう言う代わりに別の言葉を弾きだした。
「そろそろ食べようか」
 揺れる髪の光沢に堪えきれず、京介は琴美へと手を伸ばそうとした。

 ……そこで彼はこの甘えた夢から追い出された。奇跡を必然と受け取った根拠を思い知ることになった。
 隣で寝息をたてる見知らぬ娘は、化粧が乱れたままだった。眠る前に味わった肌の感触と薫風とを交互に、やがて一つになりゆくことを思いながら身をよじらせて縮こまり、枕へと逃げた。

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