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目を閉じ、声を聴く。どこか違う場所にいる存在の響きが自分の中に起こることを知りながら。

最近、無意識のうちに電話をする時に目をつぶるようになった。人は視覚から影響を多分に受ける。皆さんは目を開けたまま話すだろうか?同じように目を閉じる人がいるなら、その理由を聞いてみたい。

視覚からの影響、という意味では、SNSのタイムラインも同じようなものだ。情報がとめどなく流れてくる。それを見てしまうと、すぐに反応してしまいたくなるし、SNSの構造がもたらす承認の数の多さを求めてしまう。中毒みたいなもので、よくiPhoneをスクロールする手を止められなくて反省している。反省しながらもまた開く。視覚への依存にほだされている。そこから健全に放たれるために、僕は音に着目したいとなんとなく思うようになった。そこに鍵があるに違いないと。

ここ半年以上、「音」に耳を澄ましてきた。山の中で、森の中で、そして都市で田舎で。さまざまなところで流れる音の響き。世界には響きが起こっていて、特に自分の心を調えるのに、虫たちや鳥たちの声は格別だった。彼らの存在は必ずしも見えない。多くの生物が身を隠しているであろう木々の中に存在を埋もれさせ、どこからともなく響いてくる。目に見えないものたちの響きを受け取るということは、心にとっても、大事なことなのかもしれない。

冬になって、冬独自の音が起こる。鳥や虫の音は少なくなってしまったが、京都の街並みを縫うように歩く時、自転車をこいで移動する時に時折聞こえてくる。その度に、春、夏、秋のいのちの響きの大きさを思い出している。

冬は生命は一休みする時期。熊は冬眠する。人間だって外に果敢に出る機会は春〜秋にかけてよりも少ないだろう。自然の摂理だというと、そう納得できる。

ただ、社会というのは待ったなしで、多くの人々にコロナ禍の影響が出て、大変な状況の中にある方々も多いだろう。全くなしの状況では打開するための行動が必要だ。ただ、行動、行動、行動と言い聞かせるうちに何かがすり減り、ふと止まってしまいたくなる時もある。

京都の拠点で同居人に教えてもらっていいなと思ったことをシェアしたい。「聴く」という漢字がある。それには「聴す(ゆるす)」という意味と読み方があるらしい。

存在そのものを受け入れることがないと、聴くことができない。そういうニュアンスがあるのだろうか。虫の声、鳥の声、そういう声を発するものたちが本当にいるのか視覚的にはわからないのに、「居る」と感じること。存在の受容を通し、音がやってくる。その響きによって心が震え、調和が起こっていく。そういうことを取り止めもなく考えていた。

虫や鳥たちが行動をしようとして声を発しているのかわからないが、それらの声は心地よい。時々不快な気分になる声もあるが、結構すんなりと受け取ることができる。

人はどうだろう。ヒエラルキー、社会構造、いろんなものの中で声を失ってしまうことがある。存在しているのに、声が出ない。出てくる声は無理矢理に合わせる声。なんだか違和感のある響きを伴う声の反響が耳に返ってくるが、目の前の流れの中で溺れずに生き延びるためには、それに意識を向けている場合じゃない。そんな気がする。そんな中で、あぁ、どう声を出していたっけとわからなくなることもある。社会という世界は時に残酷だ。待ってくれない。

僕は、声なき声を拾いたい。そう漠然と思う。何が自分を突き動かしているのかは知らないが、こういう話題の時に思い出すのは、過去の声を失ってきた自分の記憶だ。不登校、自分らしさが分からない悩みや葛藤、オリジナリティをうまく出せないことの葛藤、もっとうまくいったはずなのにという理想と現実の狭間での心の軋み。そういうものが生じる。

この世に存在をしてはいけないということすら思ったことがある。

たぶん僕が目を閉じて人の話を聞くようになってきたことも、これに関連するのかもしれない。電話をする相手は、目の前にいない。視覚情報という意味では、居ないのだ。でも僕はその人たちの存在を感じたいと思っている。その声が、地球のどこかで発されていることに耳を澄まし、その存在を受け取っていきたいと思っている。

たとえその人が社会のもみくちゃの流れの中で、「いらない」と言われても、勝手にその存在の権利を取り戻す手伝いをしたい。いや、手伝いというほど何かできることばかりではない、ただ、その存在を感じるということしかできないのかもしれない。

器用に生きている知り合い、友達のことが本当にすごいと思う。つまづきっぱなしの自分にとっては時に彼らは眩すぎることがある。その度に闇が生まれる。ただ、闇があるからこそ、できることもまたあるのかもしれないと信じている。

存在を聴く、聴す。

小さな実験を育てていこう。

生きたいと願う人たちの声を聴くことでまた、自分自身の生きる希望も灯されていくような。そういう関わり合いの中を生きていきたい。

自分が電話相手になることでより良い縁になれそうな時は、電話してみてください。

逆に知り合い、友達の皆さんへ。時々電話するかもしれません。互いに生存報告でもいたしましょう🍵

ほんの少しの時間、目をつぶり、声を聴きながら、ね。

追伸: 聴く体験へのお誘い

この文章を書いた後、とある取り組みを始めました。utsuroi, という取り組みです。これは、文化に関わる方々が自分の人生について語る音源を蓄積し(許可が取れた時には)公開していく取り組みです。

なんだか自分の今において、「聴くこと」の比重が大きくなってきている気がします。聴くことの可能性って、あると思うんですよね。

さてさて、そういう可能性を一緒に探求してくださる方々がいたら、ぜひこちらの utsuroi. の流れに合流いただけたらと思います。

文化の声に耳を澄ます、聴く体験を共に☺️

逆に話をしたい人、文化に関わらず他の人の人生の一時点に耳を傾けたい方がいたら、月待講という流れも編んでいます。

いつでもお立ち寄りくださいな☺️

では!


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