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【「道徳」批判9】 サリバン先生はヘレン・ケラーに「愛撫」を拒まれていた

 原理的な事実を確認しよう。
 
  ヘレン・ケラーの体に触れることが出来なければ、サリバン先生は詰んでしまう。

 ヘレン・ケラーは盲聾であった。目が見えず、耳が聞こえないのだ。そのヘレン・ケラーにどうアクセスすればいいのか。視覚と聴覚は無いのだから、他の方法を使うしかない。実際には、触覚を使うしかない。ヘレン・ケラーに触れる形式でコミュニケートするしかない。
 だから、ヘレン・ケラーの体に触れることが出来なければ、サリバン先生は教育活動が出来ない。つまり、サリバン先生は詰んでしまう。
 しかし、大きな問題があった。ヘレン・ケラーが「野獣」のような状態だったのである。ヘレン・ケラーは体に触れられるのを拒んでいた。

 彼女はまた他人にあまり反応を示さず、お母さん以外の人の愛撫を受けると怒るくらいです。

 (ジョン・A・メーシイ編 『愛とまごころの指 ――サリバン女史の手紙』現代教養文庫、23ページ)
 この前の手紙には、ゆっくりやるつもり、と書きましたが、あの時には、目も耳も満足な子供を相手とする場合と同じやり方で、私の幼い生徒の愛情と信頼とを得ることができると考えていたのです。しかし、その後間もなくわかってきましたが、この子の心に触れるには普通の方法はまったく役に立たないのです。ヘレンは、わたしが何をしてやっても、別にありがたいとも思わず、愛撫されることを拒むのですから、彼女の情愛や、共感に訴えたり、子供らしい、賞賛を好む気持ちを誘い出したりしようにも、その術がなかったのです。

 (同上、33ページ)

 サリバン先生は、「愛撫」について繰り返し書いている。
 それは、「愛撫」できるかどうかが重要なポイントだからである。ヘレン・ケラーに「愛撫」を拒まれていることが大きな問題だったのだ。
 体に触れることを拒まれると、ヘレン・ケラーとコミュニケートする方法がなくなる。
 ある行動が「よい」とヘレン・ケラーに伝えたかったとする。しかし、ヘレン・ケラーは盲聾である。「よい」と言っても聞こえない。頷いても見えない。だから、方法は「愛撫」を含む何らか体に触れる形になる。触覚を使う形になる。その唯一の方法を拒まれては、「よい」と伝える方法がなくなる。(注)
 そして、もちろん、言葉を教える方法もなくなる。ヘレン・ケラーの体に触れることが出来ない状態では教育活動が出来ない。
 盲聾のヘレン・ケラーが体に触れることを拒んだら、コミュニケートする方法がなくなってしまう。つまり、サリバン先生は詰んでしまうのだ。
 サリバン先生は言語教育のための準備をしてきた。しかし、ヘレン・ケラーの体に触れられないために、その前段階でつまずいてしまった。
 これは「困難」に直面したと言っていいだろう。
 伝記はこの「困難」を次のように表現している。

 翌朝から、アンは授業を始めました。そして、ヘレンにものを教えることが想像以上に困難であることに気づかされました。
 アンの授業は、ヘレンの手に聾唖者用の指文字で単語を綴り、それから、単語の意味するものや行動を実際に示してみせるといったものでした。たとえば「Doll(人形)」という文字を綴り、パーキンズ盲学院の盲児たちがプレゼントしてくれた人形をヘレンに抱かせ、「これがDollというものである」と教えます。このやり方は、ハウ博士がローラに指文字を教えたやり方の応用でした。
 ヘレンはおもしろがって、アンのまねをして次々に指を動かすようになりました。
 けれども、それはただのゲームでした。何のために指を動かしているのか、ヘレンにはわかりません。そもそも、この段階で、ヘレンは、ものには名前があるということさえ、知らなかったのです。
 そのため、指文字の授業にもすぐに飽きて、ヘレンはアンの手をするりとすりぬけ、ふらりと歩き出してしまいます。アンが連れ戻しても手をふりほどき、無理に座らせようとすれば、ヘレンは暴れだします。
 自分の思うようにならないときには、癇癪を爆発させるというのがヘレンのやり方でした。わめき、うなり、手足をばたつかせ、ものを蹴飛ばし、人を叩き、かみつき……そんな風に好き勝手にふるまうことが、この家ではヘレンに許されていました。
 アンは頭を抱えました。これでは教育はできません。教える人への敬意がなければ、教育はなかなか進まないのです。ヘレンにはまず、従順になること、我慢することを教える必要がありました。

 (筑摩書房編集部 『ヘレン・ケラー ――行動する障害者、その波乱の人生』筑摩書房、Kindle本のためページ数不明)

 「ヘレンにものを教えることが想像以上に困難であることに気づかされました」とある。
 なぜ、「困難」だったのか。「ヘレンの手に聾唖者用の指文字で単語を綴」ることが出来なかったからである。
 「指文字で単語を綴」ることが出来なければ、サリバン先生は教育活動が出来ない。体に触れることが出来なければ、「ものを教えること」は出来ない。言葉を教えることは出来ない。サリバン先生は詰んでしまう。
 つまり、サリバン先生は、ヘレン・ケラーの体に触れられないという「困難」に直面した。
 それでは、この「困難」を「道徳」教材はどう表現しているか。
 確認しよう。

 次の日の朝食のときのことです。ヘレンは、いきなり、お皿のものを手づかみで食べ始めました。そして今度は、アニーのお皿にまで、手をのばしてきました。お父さんもお母さんも、ただだまって見ているだけです。
 アニーは、思いきって、ヘレンの手をはらいのけました。ヘレンは、みるみるうちに顔色を変えて、暴れ出しました。それでもアニーは、手にスプーンを持たせていすにすわらせようとします。一時間、二時間……。とうとうヘレンはあきらめて、アニーのひざに寄ってきました。
 アニーは、ヘレンの頭をなでながら、(ヘレン、あなたがかわいいからよ、許してね)と、心の中で言いました。
 ヘレンの教育は、まず、このわがままを直すことだと決心したアニーは、お父さんにたのんで、次の日から、庭にある小屋に二人だけで住むことにしました。

 (「ヘレンと共に ーアニー・サリバンー」『わたしたちの道徳 小学校5・6年』文部科学省、23ページ)

 これは、一体どういうことなのか。
 サリバン先生がヘレン・ケラーの「頭をなで」ている。つまり、「愛撫」することが出来ている。体に触ることが出来ている。
 
  ヘレン・ケラーはサリバン先生の「愛撫」を拒んでいたのではないのか。
 
 もちろん、「頭をなで」たのは事実ではない。ヘレン・ケラーは「愛撫」を拒んでいた。「愛撫」できるならば、それを活用して教育活動が出来る。
 「愛撫」が出来ないから、「困難」なのである。体に触れられないから、「困難」なのである。「目も耳も満足な子供を相手とする場合と同じやり方」が通用しないから、「困難」なのである。
 サリバン先生は教育活動が出来るかどうかの瀬戸際にいた。ヘレン・ケラーの体に触れることが出来なければ、サリバン先生は詰んでしまう。教育活動が出来なくなってしまう。それが「困難」なのである。
 「道徳」教材は、サリバン先生が直面したこの「困難」を描けていない。事実に反して、「愛撫」したことにしてしまっている。つまり、この「道徳」教材はひどく間違っている。
 このひどく間違った教材を使ったら、授業はどうなってしまうのか。とても心配である。
 次回は、この「道徳」教材を使った授業を検討する。
 
 
(注)
 
 既に、ヘレン・ケラーは意思疎通のためのサインを持っていた。

 ……ヘレンを、ただ野蛮な〈おばけ〉とのみ考えることは誤っている。彼女はごく自然に身振り手真似で意思を疎通させ、生まれながらにもっている知恵で、多くのもの――その数は六十にもおよんだ――について固有の身振りを工夫し、表現した。バターを塗ったパンがほしければ、パンを切り、バターを塗る真似をしたし、アイスクリームがほしいときは、フリーザーを回すしぐさをして、ぶるっと身を震わせた。
〔傍点を山カッコに変えた。〕

 (J・P・ラッシュ『愛と光への旅』新潮社、41ページ)

 だから、厳密には、もっと複雑な話になる。ヘレン・ケラーが自分の要求を伝えてくることはあり得る。
 しかし、本文中で述べた次の原理に変わりはない。
 〈ヘレン・ケラーの体に触れることが出来なければ、サリバン先生は教育活動が出来ない。〉
 
 

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