見出し画像

【「道徳」批判8】 野獣のようなヘレン・ケラーをサリバン先生はどのように教育しようとしたのか

 ヘレン・ケラーは野獣のようであった。
 野獣のようなヘレン・ケラーをどう教育するか。
 そこに、サリバン先生の〈工夫〉があった。
 しかし、「道徳」の教材文ではその〈工夫〉が分からない。
 教材文は次の通りである。

 次の日の朝食のときのことです。ヘレンは、いきなり、お皿のものを手づかみで食べ始めました。そして今度は、アニーのお皿にまで、手をのばしてきました。お父さんもお母さんも、ただだまって見ているだけです。
 アニーは、思いきって、ヘレンの手をはらいのけました。ヘレンは、みるみるうちに顔色を変えて、暴れ出しました。それでもアニーは、手にスプーンを持たせていすにすわらせようとします。一時間、二時間……。とうとうヘレンはあきらめて、アニーのひざに寄ってきました。
 アニーは、ヘレンの頭をなでながら、(ヘレン、あなたがかわいいからよ、許してね)と、心の中で言いました。(注)
 ヘレンの教育は、まず、このわがままを直すことだと決心したアニーは、お父さんにたのんで、次の日から、庭にある小屋に二人だけで住むことにしました。

 (「ヘレンと共に ーアニー・サリバンー」『わたしたちの道徳 小学校5・6年』文部科学省、23ページ)

 なぜ、「わがままを直すことだと決心」すると「二人だけで住む」ことになるのか。
 この教材文には、その理由が書かれていない。だから、「二人だけで住む」理由が分からない。サリバン先生が何を考えていたかが分からない。サリバン先生の〈認識〉が分からない。
 「二人だけで住む」ことにした理由を調べる。伝記に次のようにあった。

 アンにとって、ヘレン以上に問題だったのは、彼女の家族でした。家族はヘレンを好き放題にさせてきました。それがヘレンの癇癪を鎮める最も確実な方法だったからです。アンがいくら教育をしようと思っても、家族はヘレンをこれまで同様に甘やかしていました。ヘレンにとって、アンは自分のわがままを聞き入れない唯一の人間でした。
 
 ……〔略〕……

 しかし、家族という逃げ場があっては、ヘレンがアンに心を開くことなど考えられません。
「私とヘレンが母屋から出て、しばらくの間家族から離れて暮らす必要があります。さもなければ私はここを立ち去ります」
 アンはついにケラー家の人たちにそう告げました。アンのやり方に反感を感じていた家族も、ヘレンに教育が必要であることはわかっていました。そしてアンがその唯一の担い手であるということも。
 ヘレンとアンはケラー家の農場の一角にある小屋に移り住むことになりました。ついにアーサーは、アンにヘレンの教育の一切を任せたのです。
 甘やかしてくれる人がいない環境におかれたヘレンは変わらざるをえませんでした。

 (筑摩書房編集部 『ヘレン・ケラー ――行動する障害者、その波乱の人生』筑摩書房、Kindle本のためページ数不明)

 これなら分かる。
 家族が教育の障害になっていたから、ヘレン・ケラーと「二人だけで住む」ことにしたのだ。家族から離れて、教育をおこなう必要があったのだ。
 なぜ、家族が教育の障害になっていたのか。
 既に、ヘレン・ケラーは不適切な行動を身につけていた。
 それは「お皿のものを手づかみで食べ」「〔他人の〕皿にまで、手を伸ば」すことだ。そして、家族はそれを認めてきた。
 その行動をサリバン先生は変えようとしていた。
 しかし、家族はその行動を容認していた。行動を変えようとしていたのはサリバン先生だけである。「手づかみ」を止めさせようとしているのはサリバン先生だけである。サリバン先生が止めようとしても、他の家族は止めない。「手づかみ」を認めてしまう。
 この状態では、スプーンで食べる行動を身につけさせることは困難である。新しい行動を作るのは困難である。
 だから、新しい行動を作るために、新しい環境が必要であった。「二人だけで住む」新しい環境が必要であった。サリバン先生しかいなければ、「手づかみ」で食べるのを認める人はいない。スプーンで食べる行動を徹底することが出来る。新しい行動を作ることが出来る。
 つまり、「二人だけで住む」のは〈工夫〉であった。野獣のようなヘレン・ケラーを教育するための〈工夫〉であった。
 サリバン先生は次のように述べている。

 実は、こちらに来てから間もなく、わたしは、いつもヘレンの言いなりになる家族と一緒では、彼女を教えることできないと判断しました。ヘレンは両親、召使い、遊び友だちの黒人の子供たちなど、相手の誰彼を問わず、わがまま放題を通して来ました。そしてわたしが来るまで、誰も彼女に楯ついた人はいなかったのです。……〔略〕……
 わたしは、ケラー夫人と率直に、打ちとけてお話し、現在のような環境では、ヘレンをどうにかしようにも大変むつかしいということを説明しました。そして、わたしの意見では、ヘレンは少なくとも数週間家族と別居すべきだと思うこと、また彼女がわたしに頼り、服従することを覚えてからでなくては、わたしは仕事を進めることはできないということを伝えました。
 
 (ジョン・A・メーシイ編 『愛とまごころの指 ――サリバン女史の手紙』現代教養文庫、51~54ページ)

 これがサリバン先生の〈認識〉であった。
 サリバン先生は「いつもヘレンの言いなりになる家族と一緒では、彼女を教えることできない」と判断した。「ヘレンは少なくとも数週間家族と別居すべきだ」という解決策を考え出した。そして、ケラー夫人と交渉してケラー家にその解決策を認めさせた。
 サリバン先生は言う。

 彼女がわたしに頼り、服従することを覚えてからでなくては、わたしは仕事を進めることはできない

 これは、〈言語の習得のためには「頼り、服従する」ことが必要だ〉という〈認識〉である。
 この〈認識〉は正しい。「二人だけで住む」過程を経なければ、ヘレン・ケラーは言葉を習得することが出来なかっただろう。
 言葉の習得のためには、サリバン先生はヘレンの手に大量の字を書く必要があった。だから、二人の関係をそれが可能な落ち着いた関係にする必要があった。「頼り、服従する」関係にする必要があった。ヘレンが暴れていては、手に字を書くのは不可能である。
 このような理由で、「二人だけで住む」のは決定的に重要であった。
 しかし、教材文ではその事実が分からない。
 教材文にはサリバン先生の〈認識〉が書かれていないのだ。サリバン先生はヘレン・ケラーに言語を習得させるために来た。しかし、ヘレン・ケラーはそれを受け入れる状態ではなかった。「人の話を聞く」状態ではなかった。だから、二人の関係を作る必要があった。サリバン先生の「話を聞く」状態にする必要があった。
 言語を習得させるためには自分に「頼り、服従する」状態にすることが必要であった。それ無しには「仕事を進めることはできない」のだ。
 それがサリバン先生の〈認識〉であった。
 しかし、この「道徳」教材ではサリバン先生の〈認識〉が分からない。〈認識〉が分からなければ、サリバン先生の〈工夫〉も分からない。
 だから、この「道徳」教材はほとんど意味不明である。

 


(注)

 サリバン先生がそのように「言」ったという事実は無い。サリバン先生は人物像を「捏造」されている。
 次の文章で詳しく論じた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?