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床屋と図書館 その1

 横山理髪店のおじさんが死にました。
 冬休みが終わってすぐの日曜日の朝、少年野球チームの練習中に「うっ」と唸り声をあげて荒川の土手に倒れ、救急車が到着した時には、もう、心臓は完全に止まっていたのだそうです。

 今年の冬は寒いから。
 
 お父さんとお母さんがそう話していました。
 去年の冬も、一昨年の冬も、大人の誰かがそんなことを言っていたような気がしますが、でも、真文にはわかりません。

 冬は、毎年、同じくらい寒いです。
 
 だけど、それは、きっと、まだ真文が小学4年生だからなのでしょう。
 人生経験が足りないのです。
 あと何年くらい生きたら、冬の寒さの違いがわかるようになるのでしょうか? 今年は寒いとか、逆に暖かいとか、大人になってそんな会話をすることが、真文はちょっと楽しみです。

 少年野球チームに入っている同級生、つまり、真文のクラスの半分以上の男子は、全員、横山理髪店に通っていました。
 「見た目がヤクザみたい」「喋り方が怖い」「昔は番を張っていたらしいよ」「でも、本当は優しいんだよな」「話、おもしれーし」「エロいし」「野球めちゃくちゃ上手いしな」「プロ野球チームにスカウトされたことがあるらしいぜ!?」
 彼らはそんなふうに言いあって横山のおじさんを慕っていましたが、家から一番近いという理由だけで、幼い頃から横山理髪店に通わされていた真文は、本当は、おじさんのことが嫌いでした。
 
 おじさんは真文のことをオマエと呼びました。
「オマエ、色が白えなあ」
「オマエ、ガリガリじゃねえか」
「オマエ、頭いいらしいなあ」
 子供をオマエ呼ばわりする大人は真文の住む街にたくさんいます。ですが横山のおじさんの、丸というよりは四角い感じによく太った体から発せられるガラガラとした声は、何を言っていても威張っているように聴こえます。そんな声でオマエと呼ばれるたびに真文は不快でした。
 しかも、おじさんは野球の話ばかりしました。

「見たか、落合のホームラン?」

 そんなことを尋ねられたって、少年野球チームに入ってもいなければ、この世で一番退屈な番組はプロ野球中継だと思う真文には、ちんぷんかんぷんもいいところです。

「オマエ、そんなことも知らないのか」

 もう、うんざりでした。

 だから、横山のおじさんが死んで、真文は、ホッとしていました。
 死んだ人のことを悪く言ってはいけないよ、とおばあちゃんがよく言っているので、ホッとなんてしたくはないのはやまやまですが、頭ではそう考えていても、心が勝手にホッとしてしまいます。真文にはどうすることもできません。できることといえば、自分だけの秘密にしておくことくらいです。

 横山のおじさんが死んだ夜の夕飯の後に、お父さんとお母さんが「盆踊りで横山さんの太鼓を聴かないと夏が来た気がしないわ」やら「向かいのクリーニング屋で小火騒ぎがあった時は先頭に立って消化活動をしていたな」やらと思い出話をしていたので、真文も「もうおじさんに髪を切ってもらえないなんて寂しいよ」と混ざってみました。
 すると、お母さんが「本当だね、真文は優しい子だね」と真文の頭を撫でながら、片方の目からすっと涙をこぼしたので真文はびっくりしました。さらにびっくりしたことに、お父さんがそんなお母さんの肩を何も言わずにそっと抱きしめました。

 毎日喧嘩ばかりしているふたりが、昨夜だって、お父さんの釣竿が玄関に置きっぱなしになっている件で大声で怒鳴り合っていたふたりが、今は体をくっつけて慰めあっているなんて。
 真文は子供が見てはいけないものを目撃してしまったような気がして、あわてて視線をテレビの方へ移しました。



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