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床屋と図書館 その3 


 色気づく。

 そんな言葉、真文は生まれて初めて耳にしました。
 正確な意味はわかりませんが、「色気」とは、たとえば、おっぱいの大きな女の人や、スケスケの服を着ている女の人に使われる言葉です。
 だから「やあねえ、あんたも色気づいちゃって」とお母さんの口から飛び出した言葉は、その瞬間、真文の頭の中で「やあねえ、あんたもエッチな人間になっちゃって」と変換され、とても恥ずかしい気持ちになりました。
 
 真文は、知らない言葉はすぐに辞書で調べるタイプです。
 
 色気づく。
 異性に関心を持ち始める、性に目覚めること。
 
 やっぱりです。

 真文は、女子にモテたいわけでも、好きな子がいるわけでもありません。性に目覚めただなんてとんでもありません。ただ、中野や羽賀が着ているTシャツを格好良いと感じ、それと同じようなものを着てみたいと思っただけです。
 
 真文はエッチな人間なんかではありません。
 むしろ、真面目な人間です。

 1年生の1学期から通知表は常に半分以上が5で、残りは4です。
 スポーツだって、野球やサッカーのように道具を使って大人数でやる種目はなぜか苦手なのですが、走ったり泳いだりするのは、中野ほどではないにしろ得意です。
 毎年、いずれかの学期には学級委員に選出されます。
 同級生のお母さんたちからは「挨拶がきちんとできる子」と褒められます。
 3年生の時の保護者面談では、担任の石田先生に「真文君はみんなの模範生徒です」と言われてお母さんは喜んでいました。
 
 こんな生徒のどこがエッチな人間だと言うのでしょうか?
 
 ですが、たしかに、中野はクラスで一番モテる男子です。
 羽賀も、また、女子に悪戯をして泣かせてしまうこともあるのに、バレンタインの日には何人もの女子に呼び出される男子です。
 羽賀の頭は、時々、ふんわりといい匂いがします。
 「アニキの、借りた」と言ってヘアムースをつけてくるのです。そんな時、女子たちは羽賀を囲んで順番にその匂いを嗅ぎます。「いい匂い」と言い合う女子たちの真ん中で、羽賀は「やめろよ」と頬を赤らめます。
 
 中野や羽賀の髪型や服装を真似したい。
 
 そう願う真文の心の中には、女子にモテたいと言う願望が含まれてしまっているのでしょうか?
 真文には、そんな自覚は全くありません。
 ですが、たとえば、金子のおじさんが死んだ時、頭の中では悪い事だと知りながらも、心が「死んで良かった」とホッとしてしまったように、真文の心は、真文が頭で考えていないことを勝手に思ったり感じたりしてしまうことがあります。
 
 お母さんは、真文の心の奥に隠れて、真文自身も気づいていない「女子にモテたい」と言うエッチな願望を見抜いたのかもしれません。毎年の冬の寒さの違いを敏感に感じとれる大人ですから、そのくらい簡単なことなのかもしれません。

「髪を伸ばして、中野や羽賀みたいに髪型にしたい」

 結局のところ、真文は、そんな願望を口にすることはできませんでした。
 「色気づいている」なんて、もう、誰にも思われたくないのです。



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