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昭和史を振り返り戦争について考える

 「台湾有事を防ぐためにも、ウクライナ頑張れ」と言う身勝手な政治家やマスコミ等に扇動されて、まるでオリンピックを観ているかのように「ウクライナ頑張れ」と言う人たちがいることに驚いています。戦場では日々殺戮と破壊が繰り返されて修羅場となり、極限状況から狂気の沙汰が横行していると思われます。また、今後停戦や終戦が実現し戦後復興が叶ったとしても被害の苦しみと加害の苦しみが延々と続き、精神的に患ったり自死を選んだりする人も残念ながら出てくるでしょう。そんな戦争のリアルを知るためにも、過去の大戦に至る道を振り返る必要があると考え、少林寺拳法の門下生に向けて以前話した内容を転載します。半藤一利の「昭和史」等をつまみ読みしながら、話を進めました。少し長くなりますが、ご高覧頂ければ幸いです。(本稿は、多少の修正と加筆を行っております。)
「時事法談(56) 昭和史に学ぶ」(2004年11月2日)
「時事法談(57) 極限状況と人の質」(2004年12月2日)


1、 「昭和初期の再来」と言われた開祖の思いを知る

 さて今日は、開祖(金剛禅総本山少林寺開祖、少林寺拳法創始者  宗 道臣)の志を思うとき、どうしても避けて通る事のできない昭和史について、大まかにその流れを追ってみたいと思います。開祖は、明治から昭和にかけて人生を歩かれました。動乱の時代を生きて、一つの大きな志を抱き、金剛禅を、そして少林寺拳法を創始されたのですから、その時代をしっかり認識しなければ、少林寺拳法も金剛禅も本当の意味で理解する事はできないと思います。開祖の体験を追体験できるほどに、深く学びたいものですね。

 一言で昭和史と言っても、一つ一つの事件がとても深いものですから、本来はそのそれぞれをじっくりと追求していかなければなりませんが、まずは、取っ掛かりとして、大雑把に流れを理解する事が大切だと思いますので、お付き合い下さい。

 開祖は、今の時代は昭和初期によく似ていると仰っていました。軍靴の音が聞こえるとも仰いました。確かに、昭和史を勉強していくと、たとえば今のイラク問題などと直結するような、まるで今議論されていることではないかと錯覚するような議論がなされていたようです。開祖が危険を指摘されていた時代からすると、今はもう大分年月がたっているはずなのに、今でも昭和初期に酷似している情勢であるというのは、なんとも薄気味悪いですが、それが現実でもありますので、お互いしっかり勉強して、二度と過ちを繰り返さないように、日本人として努力しなければならないと思います。

2、 昭和史の流れは幕末から

 さて、昭和史と言いますが、その流れは幕末から始まっていると考えられます。江戸時代末期は、財政的にも大変厳しく、倒幕の機運が高まっていました。そんな中での諸外国からの開国要求。そして尊皇攘夷です。当時の日本の指導者は、日本を植民地にさせなかったという意味で、素晴らしい働きをしてくれました。経済の逼迫と外国の脅威。それらに対抗するための殖産興業、富国強兵ですね。この頃の日本は、最も身近な大国であるロシアの脅威を感じていました。ロシアからの防衛を考えたとき、どうしても朝鮮半島の安定が不可欠だったわけです。もしそこがロシアの領土になったら、すぐに日本はつぶされてしまいます。大変な脅威を感じていたと思いますよ。当時朝鮮は、鎖国をしていましたので、軍事面でも経済面でも日本と同じく、欧米列強とは比べ物にならないほど遅れていました。日本が唯一かなう相手でもあったわけです。同時に、世界の植民地政策が当たり前の時代に、列強に追いつき追い越そうとする日本が植民地に食指を伸ばそうとするのも自然な成り行きでした。西郷ドンの征韓論は、そんな思いとともに、幕府を倒した後のエネルギーを噴出させつつ内政の反発を外国に目を向けさせる事で解決しようというものでした。いつの世も、内政に問題がある時は、外国侵略を考えるようです。西郷さんは大久保さんに追われて野望を砕かれますが、征韓論の機運だけは後世に残ります。西郷さんより前に吉田松陰も征韓論者であったようですが、薩摩の西郷を追い落としたずっと後に、長州の伊藤博文が日韓併合をして、この日本の野望は実現するわけです。

3、 日清戦争、義和団事件、日露戦争

 話は少し戻りますが、1885年、伊藤博文を全権大使として、日本は朝鮮との間で天津条約を締結しました。日本は、列強によって朝鮮が植民地にされる事を恐れて、まずは朝鮮の独立を保障しようとしたわけです。ところが当時の朝鮮は、独立できるほどの力がなく、国内で農民一揆などが起こってくると、朝鮮政府は清に内乱鎮圧の出兵を要請してしまいます。もし清が出兵して内乱を収めてしまえば、必ず朝鮮への清の支配が強まると考えた結果、1894年に日清戦争が勃発するわけです。難攻不落と謳われた旅順まで落として、日清講和条約で2億両の賠償金を得て、遼東半島や台湾なども割譲された上、朝鮮の領土保全が決まりました。この頃の清は、国内が、がたがたの状況にはありましたが、腐っても大国ですから、大変な金星だったわけですね。

 ところが、小国である日本が、大国である清を破ったことで、欧米列強は脅威を覚えました。特に、直接的な利害関係にあるロシアは躍起になります。フランス、ドイツと組んで日本に対して遼東半島を清へ返還するように要求してきます。三国干渉です。日本としては、ロシアをはじめとした三国を相手に戦う力はありませんから、返還に応じたのです。

 その後程なくしてロシアは、遼東半島や満州、大連、旅順までも租借して不凍港を手に入れたのです。侵略が国家の目的であるかのような帝国主義の時代ですから、ロシアの侵略を見てヨーロッパの列強も、それまで以上に競って清国を食い物にしていきます。

 「扶清滅洋」をスローガンとして義和団が決起するのはこの時期です。先月の武専では、義和団事件についての開祖法話がテーマでしたね。1898年頃から、山東省西部では、列強によって強いられた開港と外国貿易の開始によって、家内工業が大きな打撃を受けていました。また、キリスト教の布教活動が活発になって、国民感情を逆なでしていたのです。そんな中で、婦女暴行をした犯人を教会がかくまった事件が発生し、それに対して白蓮教系の幇が中心となった義和団が決起し、教会を焼き払い、宣教師も殺してしまったのです。その後義和団は、鎮圧しようとした清朝軍を破り西大后に対して、列強を追い払うように迫りました。大刀会、三合会などの秘密結社を主力とした義和団は、それほど強力に愛国運動を展開していましたので、当時清にいた列強は大変恐れおののいたようです。そこで日本を始めとした列強8カ国が連合軍を派遣します。西大后は、義和団を公認して、列強に対して宣戦布告しましたが、強力な近代兵器にほとんど無手に近い格闘術がかなうはずもなく、やがて鎮圧されてしまいます。負ければ賊軍ですから、その後義和団は国賊として弾圧を受ける事になります。1900年の事です。

 翌年、清国は、11カ国を相手に議定書の締結をさせられました。責任者の処罰や、総額9億8000万両の賠償金、列強の北京駐兵権承認、列強との通商条約改定などです。この後満州には、義和団鎮圧に出兵したロシア軍が撤兵せず居残る事になります。年が明けると、日英同盟が締結されて、日本も帝国列強の仲間入りを果たします。

 ロシアはその後、着々と占領政策を展開し、東清鉄道を全線開通します。満州や朝鮮半島の権益をめぐる交渉が完全に暗礁に乗り上げ、1904年に日露戦争が勃発します。大変な苦戦を強いられた後、日本は国力ギリギリをつぎ込んでようやくロシアに勝利しました。1905年に締結されたポーツマス条約と満州に関する日清条約で、日本は、ロシアが清国との条約で獲得した全ての権利をロシアから継承し、清国の了承を得ます。1906年にはロシアから継承した東清鉄道を基に満鉄を設立して、本格的な満州経営を始めました。なお、日本は、継承した遼東半島の租借地を関東州と名づけています。後になって、満鉄の鉄道守備隊と関東州の守備隊を、参謀本部直属の関東軍として再編成し、昭和の日本を泥沼の戦争へと引きずり込んでいく事になるのです。

 なお、1911年に辛亥革命で中華民国が誕生しますが、その年の2月11日に、開祖は生まれました。

4、 当時の経済状況

 ところで、その当時日本の財政状況はどうだったと思いますか。開国から、富国強兵政策で、徐々に経済力をつけてきたわけですが、日清戦争に勝利したことで、莫大な賠償金を手にすることになります。当初は、銀で受け取る事になっていたのですが、ポンドに変更し、その金で金を買い付けて、銀本位制から金本位制へと脱皮する事に成功しました。これによって国際的な信用を勝ち得たのです。

 その後、日露戦争に突入するわけですが、これが無謀な戦争でした。信用ができたお陰でイギリスやアメリカから借金することができたのはいいのですが、当時の戦費は、国家予算の6倍だったと言います。日清戦争とは全く違う近代戦でしたので、かかる経費も桁違いだったようです。

 日露戦争では、領土を得る事はできましたが、賠償金は一銭も手に入れることができませんでした。後になって、「満州は莫大な犠牲と金で手に入れたのだから決して手放せない」と言われたものです。莫大な国家債務に伴い、利払いだけで年間の予算が消滅するほどになって行きます。貿易赤字は増大し、正貨準備も急速に減少します。こうして、7~8年にわたる大不況に見舞われる事になります。

 ところが、1914年にオーストリアがセルビアに対して宣戦布告して第一次世界大戦が勃発します。日本は日英同盟に基づいて、連合国の側に立ってドイツに宣戦布告します。そこで陸軍は青島を、また海軍は南洋諸島をそれぞれドイツから占領しました。とはいっても、主戦場はヨーロッパですから、日本は漁夫の利を得る事になります。大戦景気が到来したのです。軍需品や食料品などの他にも、ヨーロッパ製品の代替品として日本製品が大いに売れたようです。こうして、国家破産の危機にあった日本が一気に成金国家になっていきます。大正時代です。まさにバブル景気です。そんな中、日本は好況にありましたから特別問題はなかったのですが、世界的な流れから、1917年に日本も金の輸出を禁止しました。ただ、これを解禁する時期に、後々大きな問題を引き起こします。

 話は飛びますが、この時期の事で忘れてはいけないのが、対華21か条要求です。大戦の混乱に乗じて、ひそかに中国での権益を強化しようというものでしたが、これをきっかけにして中国での抗日運動が本格化することになります。

 そうして1919年、ベルサイユ条約が調印されました。戦争で領土や鉱山採掘権を得た上に、休戦期間中に起きたインフレによる一時的な米騒動などを打ち消して、戦後には更なる熱狂的な好況になります。

 そんなブームの後に、戦後恐慌が始まります。そして、関東大震災。さらに震災手形の処理をめぐる国会答弁の中から昭和恐慌が起こります。駄目押しに1929年からの世界大恐慌です。この世界恐慌のさなかに、日本は、金解禁をしてしまいます。しかも旧平価での解禁という手法をとったため、市場原理によって、日本の金が大量に流出してしまったのです。これらによって、景気は更に急速に悪化していきました。その後1931年に再度金輸出が禁止され、金本位制から離脱する事になります。

5、 満州事変と石原莞爾

 そんな厳しい経済状況の中、話は前後しますが、日本は昭和を迎えたのです。1926年です。開祖はこれより前に、二度目の家出をして満鉄調査部の嘱託をしていたおじいさんの所にたどり着きます。この人は、頭山満や内田良平とも親交があったようで、開祖は、彼らの他にも、板垣征四郎、土肥原賢二、石原莞爾、大川周明らとの面識も得たそうです。その後、1926年に母危篤の電報で日本に帰るのですが、5月にお母様が亡くなり、二人の妹も相次いで亡くなってしまいます。開祖は、16歳にして天涯孤独になったわけです。

 1928年1月に、開祖は再び満州に渡ります。そこでどうやら、満州某重大事件に関わったようです。おじいさんの下で築いた縁がそうさせたのでしょうが、17歳そこそこの開祖が、事の重大性を知らされていたはずもなく、歯車のひとつとして、事件のうちの何らかの仕事をしたのだと思います。当時中国では、中華民国が成立したとはいえ、まだまだ混乱していて各地で軍閥が闊歩していました。そんな中、満州の大軍閥として日本の後押しを得て活躍していたのが、張作霖です。日本では、彼を利用して満州をうまく経営しようとしていたわけですが、彼は自ら大元帥と称して威張りだすわけです。日本では、役に立たなくなったら亡き者にするという方針が決まっていたようで、その方針を実現させたのが、河本大作関東軍参謀でした。張作霖が乗った列車を中国人の仕業に見せかけて爆破し殺害したのです。この事件をめぐって国内では、天皇や君側の奸と称される人たちと、軍部や田中総理らとの間に大変なやり取りがありました。天皇は、この事件が中国人でなく陸軍がやった事だとしたら、首謀者たちが帝国陸海軍の大元帥陛下である自分の命令もなく勝手にしかも国際的に見てとんでもない行動を起こしたと言う事で、国際的にはその真相を明らかにできないけれども、国内では厳正な処分をするようにと指示していたにもかかわらず、最終的に陸軍大臣は、軍法会議にもかけずに書類上の穏便な処罰で済ませてしまいました。そこで、天皇は激怒し、総理を呼びつけ「お前は辞めろ」と告げたそうです。この事件をきっかけに、立憲君主制をとる日本の天皇は、余計な事を言うと憲法違反になると周りから強く言われるなどしてか、天皇は、その後、内閣が一致して上奏することについては、一切意見を言わなくなったそうです。そういう意味では、軍部の独走を許すきっかけになった事件でもありました。

 その後、満州事変が起こります。満州事変の首謀者は、関東軍参謀の石原莞爾だと言われていますが、開祖は彼を尊敬していたようです。その理由は後で述べるとして、まずは満州事変について簡単に触れておきましょう。張作霖が殺された後、ますます抗日意識が高まって、満州では、日本人や満鉄そして関東軍に対する妨害や事件事故が頻発し、一触即発の状況になっていました。そんな中で、1931年9月18日に柳条湖での満鉄爆破事件が起こりました。抗日運動による中国軍の仕業であるとして、関東軍が朝鮮軍の越境も得て一気に満州全域を占領する事となりました。この事件も張作霖爆殺事件と同様、石原や板垣の勝手な行動ではなく、陸軍中央の計画でした。なお、中国ではこの事件を九・一八事変と呼んで、日本の侵略の原点であるとしています。

 ここで一つ覚えておいて欲しい事があります。当時のマスコミです。アメリカの9・11の時にもお話しましたが、戦時になるとマスコミと言うのは、軍事行動を称える本能があるかのようで、このときも、それまでは軍の不穏な動きに対して厳しい論調で批判をしていたのに、事変勃発直後から、180度転換して、軍の行動に対してエールを送りいっせいに軍国主義の太鼓を叩きはじめたのです。マスコミの報道に振り回される事の恐ろしさを理解しておかなければなりません。

 その後リットン調査団の報告を受けて国連が、日本に対して満州からの撤退を要求してくると、日本は国連を脱退する事になります。

6、 中国侵略の拡大と東条英機

 石原莞爾は、五族協和、王道楽土の理想を抱いて満州を理想の楽土にしようと計画していました。詳しい話は別の機会に譲りますが、植民地政策が当たり前のこの時代に、日本、朝鮮、中国、満州、蒙古の五民族が、仲良く助け合い協調協力して、ともにアジアの繁栄を築こうというものでした。石原が侵略を目的として満州事変を起こしたというような悪口を良く言われますが、よくよく彼を調べてみると、本気で五族協和を考えていたと思われます。確かに、アメリカに対する甘さや、一旦事を起こすと抑制が効かなくなる怖さ、また、命令系統を無視した行動による下克上の機運が軍紀を破壊するという致命的な失敗を彼自身がしてしまったなど、責められるべきは多いのですが、その考えは非常に純粋だったと思います。石原は、こんな事を述べています。「そもそも東亜連盟というのは、どういうのであるかと申しますと、さしあたり日本と支那及び日支両国の共同の経営地であるところの満州国の独立を認めて、その日満支三国が、提携の原則を次のように定めるのであります。その方針は、国防は白人に対して協同して東亜の天地を守る。経済は、本当の共存共栄を目的として極力共通にして行って、その一体化を図ろう。しかし日満支三国は、各々その国の特徴において、政治は独立してやり、内政の干渉はお互いにやらないことにしよう。こういうのであります。そうして、王道の精神にもとづいて全く精神的に提携してゆこうというのであります。」そんなわけで、石原は、満州の治安回復の後は、それ以上軍事行動することを望んでいませんでした。

 ところが、石原が志半ばで仙台の連隊長として転出させられた後に赴任したのは、小磯国昭や、東条英機らでした。彼らが着任するとすぐに方針が転換されて、満州国の植民地化が露骨に推進される事になったのです。当時の日本の経済状況を考えてみれば、早く満州を植民地にして資源を採掘し人材を移転して一日でも早く日本の財政を立て直したいと考えるのが当然と言えば当然の時代でした。いきなり植民地にすると世間体が悪いので、とりあえず独立させて傀儡政権を打ち立て、その後じっくりと植民地政策を実施していけばよいと考えていたのが、当時の一般的な指導者たちだったのです。そんなわけで、中国への侵略も、日に日に深みにはまっていきました。

 もっとも、石原が満州にいた頃からも、東条は市ヶ谷の参謀本部で、軍事行動による侵略拡大に向けて指揮をしていました。石原とはことごとく意見の対立を見ていたようです。軍人の本能のようなもので、勝っていればどこまでも攻め込みたい気持ちが湧いてきます。本来ならば、戦争に限らずケンかでも交渉ごとでも、始める前に落しどころを決めておき、どう収めるかを考えてからはじめなければなりません。終わる事は始める事よりはるかに難しいのです。日本が満州事変以後、泥沼の日中戦争を戦い、後には、世界を敵に廻して破滅への道を突き進むのも、端的に言えば、この終わり方をしっかりと決めていなかったことが大きな理由ではないかと思います。

7、 5・15事件と2・26事件

 話は少し戻りますが、石原が軍紀を乱した結果、多くのクーデター事件が計画され、また引き起こされ始めます。石原自身は、軍人が政治に口を挟むものではないとして、これらを大変批判していたようですが、彼の行動がその後の少壮軍人や右翼を刺激した事に間違いはないと思います。3月事件、10月事件、5・15事件、そして2・26事件。これらの事件をとおして、軍部の意見には逆らえない軍国主義的風潮が、どんどんエスカレートしていきます。

8、 海軍の動向

 今まで主に陸軍の暴走を話してきましたが、海軍はどうだったでしょうか。1922年にワシントン軍縮条約が結ばれました。第一次大戦で世界中がひいひい言っていた時ですから、みんなで軍備を縮小しようというものでした。ところがこの時代日本の海軍は、多くの戦艦を作り列強と対等になれるようにと努力していた頃ですから、大反対しました。政治の面では安定を求める海軍省が条約締結に向けて動きますが、軍令部は大反対したわけです。そのとき、北一輝が生み出したと言われる「統帥権干犯」ということを盛んにまくし立てたのです。これをきっかけに政治が軍事に口を出せなくなっていきます。また、この事件をきっかけにして、世界情勢に明るい秀才たちが海軍を追われる事にもなっていくのです。

 1934年になると、ワシントン条約から日本は単独で脱退します。海軍青年将校たちが強く政治に口を出したのです。海軍も陸軍も変わりないですね。その後、イギリスが日本を圧迫することなどに対する反発からイギリスを仮想敵国扱いし始めます。イギリスの後ろにはアメリカがいますから、米英両国を敵視していくことになります。中には、山本五十六や米内光正などのように、英米を敵に廻してかなうはずがないのだから外交によってうまくやっていくべきだと言う常識派もいました。アメリカを敵に廻して戦争をすることは、千円しか持っていない者と百万円持っているものとが、互いに1万円の買い物をしようと競っているようなもので、始めは良いがすぐに行き詰ると、当時でも冷静に世界を見ていた人たちもいたのです。それでも強硬派がどんどん力を付けていきます。

 1939年に、ヒトラーが日独伊三国同盟を提案してきます。そんな折、ノモンハン事件が起きます。ソ連に徹底的にやられるわけです。陸軍は、ソ連の脅威と米英への対抗という点から、破竹の勢いがあると思われていたドイツと手を組む三国同盟に賛成します。海軍も行け行けどんどんという感じで三国同盟に賛成する機運が圧倒的でした。山本や米内たちは大反対するわけですが、第二次大戦が始まって、やがて押し切られてしまい、1940年に同盟が成立します。ちなみに、その頃はもうドイツの敗色が濃くなってきていました。

9、 南方侵略の拡大

 その頃アメリカが、日米通商航海条約廃棄を通告してきます。1941年に日ソ中立条約が締結されると、日本は北の脅威がなくなったものとして南進を実施します。英米を敵に廻すとなると何としても石油や鉄などの資源が必要になります。日本には何もありませんから、どうしても資源を求めて南の島々を押さえておく必要があるわけです。ところが、太平洋に日本が進出するのをアメリカが黙って見過ごすはずがありません。サイゴンに進駐し始めるとすぐに、在米日本資産の凍結や石油の禁輸政策を実施します。それに続いて列強も続々と対日経済封鎖をしてくるのです。その当時は、石油が一滴も入ってこなくなるとはほとんどの人が想像していませんでした。いや想像したくなかったのかもしれません。世界の対応は、冷静に考えれば当たり前のことなのに、「石油が入ってこなくなるかもしれない」という「かもしれない運転」ではなく、「石油が入ってこなくなる事はないだろう」という「だろう運転」で日本が操縦されていた時代なのです。

 なお日本には、列強の植民地にされているアジアの国々を解放し、欧米列強に対抗して、東亜独自の経済ブロックを築こうという大東亜共栄圏の思いもありました。しかし、そんな大義名分よりも、資源欲しさの侵略意図の方が強かった事は言うまでもありませんし、その意図を隠すための大東亜共栄圏構想でもあったわけです。

10、 太平洋戦争

 さて、アメリカとの交渉が大詰めを迎えてきます。山本は、日米の開戦が避けられないのならば、1941年に真珠湾を奇襲する事を提案します。海軍の軍備や石油の備蓄量などを考えると、この時期より早くてもこの時期より遅くても、アメリカと戦う力がないと考える山本の決死の作戦でした。実際ハル・ノートが提出された時期のアメリカでの議論を見ると、もう1~2年開戦を引き延ばせれば、アメリカは日本を打ち砕く事ができるが、今の段階ではまだ無理であると考えられていたようです。ですから、当初アメリカとしては、日本が戦争回避へ向けたギリギリの交渉に臨んでいたとき、すぐに最後通牒を突きつけるつもりはなかったのです。そんな中で、中国やイギリスから、アメリカは開戦を要求されます。早く助けてくれと言うわけです。そして、日本の輸送船団を戦艦の大船団と勘違いして激怒したルーズベルトは、ハルに対して最後通牒であるかの有名なハル・ノートを出させる事になったのです。

 それでも当時のアメリカが、日本と戦う力を蓄えていない事に変わりはありません。山本の作戦実施時期はまさに絶妙のタイミングでした。ただ、アメリカのほうが一枚上手で、暗号を全て解読して真珠湾を攻撃される事を事前に知っていながら、あえて自由に攻撃させておいて、リメンバー・パール・ハーバーという標語を作り、アメリカ国民の心を掴んだのですからね。

真珠湾攻撃を報じた日米の新聞(復刻版)

 ちなみに山本の作戦では、真珠湾を叩いた後、すぐに講話に持ち込もうという考えでした。最初から、山本は戦の収め方をそう決めていました。ところが行け行けどんどんの軍部は、東南アジアの資源地帯であるシンガポールやフィリピン、インドネシアなどを奪う計画を立てていました。インドネシアまで予想以上に早く大勝利して行くと、次をどうするか決めていなかったために、焦って次なる作戦を検討し始めます。そして最終的に、アメリカの反撃を防ぐために、ハワイからオーストラリアに向かう輸送路を遮断しようということになって、ミッドウェイ海戦から始まる泥沼に陥るわけです。先ほどもお話しましたように、戦の最終的な収め方を決めたわけではなく、とりあえず次の作戦を考えたに過ぎません。いい加減としか言いようがありません。いい加減といえば、その作戦自体もいい加減でした。結果的に、ガダルカナル、インパール、サイパン、沖縄、本当の極限状況があちこちの戦場で繰り広げられることになったわけです。

 この時期の国民生活は、あまりにも悲惨でした。何しろ千円しか持っていないのに1万円の買い物をしようというのですから、あらゆる物を質に出しても追いつくはずがないですよね。そうして、最後にヒロシマ、ソ連参戦、ナガサキ。そうやって日本は破滅したのです。

11、 全ては人の質にある

 敗戦までの流れは、大雑把に言ってそんなところです。開祖が教範冒頭から書き綴られた、敗戦とそれに伴う極限状況に関する事は、来月お話しようと思っています。

 ところで、9月に、劇団四季の公演を見てきました。南十字星というインドネシア進駐に関するお話でしたが、大変感動的で、最初から最後まで、泣きっぱなしでした。開祖は満州、この話は南方と、場所は違うものの、開祖の思いや体験とダブってしまい、また時には、イラク戦争とも重なって、何回泣いたかわかりません。皆さんも、もし東京に行く機会があれば、是非見てきて欲しいと思います。

 南十字星のお話にも出てきたのですが、インドネシア駐留軍司令官の今村均は、植民地支配としてではなく、インドネシアを植民地支配から解放するという立場で、インドネシア国民から大変慕われたといいます。一応この物語では、島村中将と言う名前になっていましたが、多分今村中将がモデルになっていると思います。今村均も、満州での石原莞爾も、もちろん開祖もそうだったように、人の犠牲の上に自分たちが繁栄しようとせず、人と協調融和してやっていこうと考え実践した人々は、当時の日本の傲慢な政策の中にあっても、現地の人たちに慕われ尊敬されて、素晴らしい人間関係を築くことができました。

 一方、東条英機に代表されるような、天皇と自分との関係にだけしか興味を持たないような、自己中心的な人間に対しては、やはり憎しみや恨みを持つ人が多いようです。まさに、「全ては人の質にある」のです。開祖は、「半ばは他人の幸せを」と言ったのであり、「半ばは相手の幸せを」とは言っていません。自分だけの、あるいは自分たちだけの限られた世界だけの幸せではなく、広く偏りなく世界を優しく正しく見つめる目を持ちたいですね。私たちは、開祖が歩まれた時代を深く勉強して、二度と戦争を起こさないように、また日本人が尊敬される民族になれるように、自分自身の質を磨き続けなければならないと思います。門下生の皆さんには、これを機会に、昭和史をもう一度勉強しなおしてもらえれば何よりです。

12、ソ連はなぜ侵攻してきたか

 さて、今回は先月の続きをお話したいと思います。教範第1編第1章の冒頭部分です。我々にとって最も大切なところですので、一緒にじっくりと考えていきましょう。

戦時下のマスコミ報道(復刻版から)

 開祖は、教範で「昭和20年8月9日午前四時、ソビエート・ロシアは日ソ不可侵条約を一方的に破棄して、突如飛行機による満州国内の軍事施設に猛爆撃を開始し、夜明けと共に機械化されたソ連軍の大部隊は各方面から一斉に国境を突破して、満州領内へ侵入を開始した。」と書き始められています。
このソ連軍の侵攻がなぜ行われたのか、その辺からはじめたいと思います。

 先月お話したとおり、ソ連は、ドイツとの戦いに集中し、東西両面での同時戦争を避けるために日ソ中立条約を締結しました。その条約には領土の保全と不可侵を尊重すると記載されているので、不可侵条約といわれることもありますが、実際には中立条約ですから絶対的な不可侵は保障していないのです。「日本は、日独伊三国同盟を締結しているからドイツの戦争に協力するはずであるが、日ソ中立条約があるからソ連に手が出せない」というようにさせることがソ連の最初からの思惑です。と同時に、スターリンは、日露戦争で奪われた利権を取り戻して不凍港を手に入れる事、さらには北海道の北半分までをも領土に加える事などを本気で考えていました。ドイツを破ったらすぐに、その前線にいる兵士を一気に西から東へ横断させて満州に攻め込もうと計画していたわけです。

 その後、1945年2月にヤルタ会談が開かれます。アメリカは、苦戦している太平洋での戦いを早く終わらせるために、当初ソ連の参戦を期待していました。どんなに叩いても、一億玉砕の覚悟を決めた日本軍の兵隊の抵抗はとても激しかったですからね。それに対してソ連は、ドイツが降伏したら3ヶ月で対日参戦するとルーズベルトに宣言します。ただしそのとき、南樺太と千島列島を含めて、奪われた利権を取り戻すことなどを条件に出したのです。当時のアメリカとイギリスは、戦勝国が賠償金や他国の領土を奪い取る事は、また次の戦争を生み出すもとになるという第一次大戦の反省を踏まえて、領土の拡大や賠償金の要求を敗戦国にしないことにしようとしていました。けれどもスターリンはそんなことにはお構いなしで、結果的にその要求はヤルタ会談で了承されます。

 ところがその後、話が変わってきます。アメリカの原爆が完成したのです。ポツダム宣言はそういう状況の中で7月26日世界に公表されます。しかもそのときソ連は完全に蚊帳の外に置かれて決められたのでした。もはや、ソ連の対日参戦は必要ないばかりか歓迎されないものとなっていたのです。アメリカは、ソ連の野望を知っています。そんな野望を持っている国を、アメリカはすでに冷たい目で見ていたわけで、冷戦の始まりといってもいいでしょう。

 ソ連はしかし、黙っているわけにはいきません。アメリカの原爆が完成したことによって、ますますスターリンは参戦を急ぐことになります。このポツダム宣言よりも前の4月に、日ソ不可侵条約の破棄が通告されていました。この条約は、一方の廃棄通告後も一年間は有効であると規定されていましたが、そんなことを重視して守るスターリンではありません。当初スターリンがソ連軍最高司令部に出した絶対命令は、ドイツ降伏後3ヶ月以内に満州侵攻兵力を国境線に集結させるというものでした。それにもとづいた当初計画では、8月5日までに集中を完了し、8月22日から25日までの間に全兵力が国境を突破して日本軍への攻撃を開始するというものでした。日本が米英に降伏する前に対日参戦するため、それをどんどん前倒しさせて、最終的には、8月9日午前0時を少し廻ったときに、ワシレフスキー元帥からの電話でスターリンが攻撃を命令します。そして午前1時5分からの虎頭要塞への砲撃を皮切りに続々とソ連軍は侵攻を始めたのです。

13, 関東軍の敗走

 そのときの状況を開祖は次のように述べています。「当時私が住んでいた東部満州の国境の町綏陽には県公署があり、日本軍の某師団(特に名を秘す)が駐屯していたのであるが、ソ連軍の参戦が知らされた頃には、警察の兵事係に命じ日本人の民間人男子を非常召集させ、これに木銃を持たせて軍事施設や橋などの警備を命じておいて、師団は司令部はじめ各部隊共、朝のうちにソ連軍とは一戦も交えることなく、後方の第二線陣地で抗戦するのだと称して、何もかも捨てて退却してしまった。そして街に残されたのは、一般から臨時召集された少数の男子と逃げ遅れた地方人の女や子供たちばかりで、正午前には憲兵隊はじめ正規の軍人はその家族とともに一人残らず消えてしまっていたのである。」

 なぜこんな事になってしまったのでしょうか。まずは、泣く子も黙る関東軍の現実を見てみましょう。そもそもソ連の脅威に端を発した満州経営と関東軍創設でしたが、南方の戦線が悪化してくると、大本営は精鋭を揃えた関東軍からその精鋭を引き抜き、南方の第一線に転用し始めます。民間から調達した船によって南方目指して輸送されるわけですが、中には米軍の攻撃を受けて、目的地に到着する前に全滅してしまう部隊も数多くありました。やっとの思いで目的地に到着しても悲惨な運命が彼ら精鋭部隊を待っていたわけで、多くのみたまが散っていきました。不足した関東軍の部隊には補充兵という形で満州の男たちが召集されました。手当たり次第の召集で、年齢に関係なく動ける男はみんな徴兵されたという感じです。人数だけそろえたのです。精鋭がそっくりいなくなった後に、体力もない教育も受けていない兵隊が補充されたのです。そんなわけで、1945年当時の関東軍は、張子の虎になっていたのです。そうなると、国境を守るはずの部隊に対して参謀本部は、敵からの攻撃を受けても反攻しない、決して手を出さないという方針を建てざるを得なくなっていました。

 それでも日ソ不可侵条約に寄りかかり、満州と関東軍は、我が世の春を謳歌していたようで、本土の空襲が始まると家族を満州へ呼び寄せたり、豪華な酒宴が催されたりしていました。まるで危機感がなかったのです。

 対外的には大本営はもとより関東軍も、ソ連を刺激しないようにしつつも虚勢を張っていました。しかし4月に日ソ中立条約が破棄されると、今度は、そのソ連を仲介に立てた戦争終結工作に日本は取り掛かります。敵にしたくないから、取り込んで仲介役を買ってもらおうという虫のいい話です。ちなみに仲介工作実現のためには、南樺太や北千島の割譲はもとより、ソ連が要求する全てを受け入れるという方針まで決めていたといいます。なんとも情けない話です。

 ソ連軍は、4月よりも前に、続々と西の部隊をソ満国境に集結させ始めていました。シベリア鉄道は、荒くれ兵士を満員にして来る日も来る日も大輸送をしていたのです。もうソ連との戦争準備を本格的にしないわけにはいかないところにまで来ていました。7月5日にようやく関東軍が作戦を決めます。その内容は、ソ連軍の侵攻に対しては後退持久戦に持ち込むということで、関東軍総司令部も南満の通化に移って、全満州の四分の三を放棄し、朝鮮半島を防衛し、日本本土を守るというものでした。その作戦を本気で実行しようと思えば準備に1年はかかる計算になりますが、3ヶ月弱で完了させようというずさんな計画でした。実際、ソ連の侵攻で急遽通化に司令部を移転しようとしたときには、まだ建物もできていない状況でした。また、南方の経験から、「一般民衆を抱えていては自由な作戦行動ができないのだから、早急に一般民衆を後方へ移すべきだ」と進言した参謀もいたのですが、輸送能力を考えれば、これまた1年以上かかる大仕事でしたので、全く計画すらされませんでした。民間人は、はじめから見捨てられていたのです。こういう国民軽視の考え方は、関東軍がこの撤退計画を立てるまで本気で考えられていた大本営の本土決戦計画にも表れていました。それは、「戦場の足手まといとなる老幼病弱者を犠牲にしてでも、また日本本土を焦土にしてでも、本土で死に物狂いに戦い、最終的に天皇を満州の安全な陣地に移して、ソ連と手を結びその支援のもとに必勝の信念を持って米英に対して徹底的に抗戦しよう」というものだったのですからあきれるばかりです。

 そんな状況の中で、最後の望みを託していた駐ソ大使がソ連の外務大臣とようやく面談を許され、8月8日午後11時過ぎにクレムリンで宣戦布告書を手渡されました。戦争終結の仲介を引き受けるという色よい返事を期待しての面談だったのですから、そのショックは相当なものであったろうと思います。そこに書かれていた攻撃開始日は8月9日でした。ソ連側の言い分では「ソ連の駐日大使が日本政府へ伝達する」とのことでしたが、日本の駐ソ大使が大使館へ帰ってすぐに電話で本国へ連絡しようとしても、すでに電話線が切られ無線機も没収されていました。結果として日本政府は、ソ連侵攻の前に宣戦布告の事実を知る事ができませんでした。

 関東軍は、各地での攻撃があって初めてソ連軍の一斉侵攻を知る事になります。とはいえ、先に述べたように多くは南満へ退却していますので、実質的に国境に取り残されたのは、開祖の言葉どおりであったのです。中には、必死で防衛戦闘に臨んだ部隊もありましたが、参謀本部も関東軍も全く新たな命令を出せずに無駄な時間を過ごしてしまいました。結果的に、ソ連軍の侵攻に抵抗せず、ただ南満へ逃げるだけという命令が長い時間生きてしまったことになるのです。午前6時になってようやく、「各方面軍及び各軍は、それぞれ関東軍作戦計画にもとづき、侵入し来る当面の敵を撃破すべし」の命令を関東軍が独自に出しましたが、ここで言う作戦計画とは、言うまでもなく南満への転進です。これまではただ逃げるだけでしたが、この命令によってようやく応戦しながら逃げる事が可能になったというところです。とはいえ、夜通し必死になって応戦していた部隊にはすでに命令が届かない状況になっており、逃げた部隊は、応戦どころではない現実がありました。朝のラジオは、「今朝、ソ連は卑怯にも突如として満州国を攻撃してまいりました。ソ連は日ソ中立条約を一方的に蹂躙し、不法にも全国境から侵入を開始しました。しかし、我に関東軍の精鋭百万あり、全軍の士気はきわめて旺盛、目下前線では激戦を展開、ソ連軍を撃退中であります。国民は我が関東軍を信頼して、云々」と何回も繰り返していたといいます。国民は、居もしない軍隊を信頼してソ連軍の侵攻の中じっと耐えていろと言っているのです。国民を盾にして軍隊が逃げたといっても過言でないでしょう。日本の軍隊に昔からあった、民間人を地方人として蔑視する風潮が、本来一般民衆を守る立場にあった軍隊を、民衆の犠牲の上に自ら生き延びようとするとんでもない行動に走らせたわけです。

14、満州で起こったこと

 こういう経過の中、言語に絶する極限状況になります。まずは輸送列車です。関東軍と満鉄は、一応は国民を安全な場所に輸送するためにと、とりあえず列車を仕立てたのですが、実際には、軍人やその家族が占領して、民間人はだまされ追い返されて列車に乗ることもできませんでした。結果として危険地帯に何の保護もなく捨てられたわけです。徒歩で、着の身着のまま、食料もなく数百キロの逃避行をせざるを得なくなります。そして集団自決です。ある集落では、集団で避難を始めたのですが、すぐに日本兵と遭遇し、「戦火が激しくてどこへも逃げられない」と言われ、いざというときに使うようにと手榴弾を渡されて、村に引き返しました。けれどもその村に対する侵攻も激しく、「もはや逃げられないから、せめて男性に思う存分戦ってもらうためにここで潔く死のう」ということになり、渡された手榴弾で女性全員が集団自決をしました。また隣の集落には男性が二人しかいないため全員自決と決め、手榴弾を爆発させようとしたのですが、それが不発だったために、ソ連兵に立ち向かおうと決心して、足手まといになる我が子を自分たちの手で殺し、鉢巻をして鎌を持って出撃したといいます。

 別の逃避行を続ける集団は、雨の中布団や毛布をかぶってひたすら歩き続けましたが、寒さで真っ先に乳飲み子が母親の背中で死んでいきます。そんな民間人を尻目に、撤退し敗走する関東軍のトラックや将兵たちがどんどん追い抜いていきます。その後炊き出しをしている関東軍の残留部隊に合流できたのですが、正面には満系反乱軍がいて、後ろから周囲をソ連軍が包囲しており、応戦したがどうにもならなくなって、最後は全員で自決したといいます。男たちが家族を銃殺していったのです。今の感覚では全く理解できない事ですが、こういう集団自決があちこちで起こり、非常に多くの犠牲者を出したのです。

 また、逃避行を続け、各地で現地人と交渉し財産を投げ打ったり戦ったりしてようやく命をつないで難民収容所にたどり着いた人たちも、それからの収容所生活で極限状況を体験します。暴民が襲撃し混乱状態になる上、食料もなく、引き揚げの見通しもつかないまま酷寒の冬を越す事になります。厳しい寒さと食糧不足で栄養失調、かぜ、急性肺炎、赤痢、コレラなどの蔓延。死者の山だったといいます。

 逃げている途中女性が中国の下層階級の人たちから嫁にほしいといわれます。彼らは、生涯嫁を娶る事が難しい立場の人たちです。髪を短く切り男装して見つからないようにしているのですが、やがて激しい飢えをしのぐために自ら満妻になろうという人たちも出てきます。結婚の申し込みを受ければそのグループへ食料の貢ぎがあることと、自分自身も生活できるという思いからです。

 妊婦の話もひどいものです。急な逃避行で早産や流産が相次ぎます。中には、逃げて歩いている最中に道路の真ん中で狂ったように産み落とし、少し休むと赤ちゃんを布にくるんでまた歩き出すという人たちもいたようです。そうしなければ見捨てられてしまう状況にあったのですから。

 侵攻してきたソ連軍は最悪でした。もともとドイツとの戦いに疲れようやく帰れると思ったらまた戦争に駆り出された兵士たちです。中には犯罪者をまとめた部隊もあったといいます。国境を越えて精鋭といわれた関東軍と戦おうと決心していた連中が、入ってみれば何の抵抗も受けず、自由に街中へ侵攻できたわけですから、暴行、略奪、思うが侭のやりたい放題だったようです。その上、スターリンは、最初から、満州にある財産や機械をはじめとした産業施設などあらゆる物を略奪し、労働力を得ることを大きな目的にしていたわけですから、現場の兵士の行為は、責められるどころか褒めてやりたい功労だったのではないでしょうか。レイプが多いなど軍紀の乱れを報告する司令官に向かって、「褒美も必要だから放っておけ」と答えたとも言われています。

 ソ連の侵攻と関東軍の敗走は、こうやって人々を極限状況に追い込み、シベリア抑留や残留孤児など、多くの問題を引き起こしたのです。

15、開祖の体験

 「この日本軍に見捨てられた国境の町に、ソ連軍の先頭部隊が入るのを見届けてからやっと脱出した私は、それからの約一年間をソビエート共産軍の軍政下にあった満州において生活し、敵地における敗戦国民の惨めさと悲哀を十二分に体験した。」開祖は、青幇の仲間に助けられながら、勝手知った数百キロを比較的楽に脱出することができたといいますが、当然その道すがら、これらの状況を目の当たりにされているのだと思います。「人間の條件」に書いてある事よりももっとひどい事をいろいろ見てきたと仰っています。

 開祖は、逃避行の中、軍用トラックを止めようとしてひき殺されそうになる体験をしました。「荷台が空だから弱い人たちを乗せて一緒に南へ行ってくれ」と頼む開祖に、「作戦行動中である」とか「地方人を乗せる命令は受けていない」などといってひき殺すかのようにして走り去っていきました。いまさらながら軍隊の浅ましさを感じたと言っておられます。また長春では、寒さをしのぐために仲間に防寒服を着せてやりたいと一つの行動を起こします。もともとは関東軍の被服庫であったものをソ連の命令で日本の兵士が警備しているので、窮状を訴えて分けてもらおうとしたわけですが、銃を突きつけられて追い返されてしまいます。翌日、腕ずくでも奪おうと出かけると、今度は別の歩哨だったので、もう一度頼み込んでみると「なるほど、わかった。君たちの言うとおりだ。それにソ連軍の管理はずさんで、正確な数などわかってはいないはずだ。自分は何も見なかったことにするから、勝手に持っていけ。ただし、本当に困っている人の分だけ、最低限度にしろよ。」ということになったわけです。地獄で仏の思いだったといいます。

 その後奉天に到着すると、引揚部隊の中隊長にさせられます。およそ300人を束ねるこの仕事は大変な事でした。司令官に命令権もない隊員に服従の義務もない、みんな自分だけしか信じられないぎりぎりの境遇にいたわけですから、力の裏付けがない正義など通用するはずもなかったのです。そんな中でのエピソードを紹介します。ある収容所に入った晩、開祖は、兄貴分らしい男を呼び出して「おい、君はだいぶ力が強そうだが、俺はもっと強いぞ。その証拠をこれから見せてやるから、サア、俺のこの片手をお前の両手で捻じってみろ」と言って、ゲンコツを彼の鼻先に突き出したそうです。彼がその手を掴んだ瞬間、巻小手で投げ飛ばし地面にたたきつけました。その手を放さず、起き上がるのを待って今度は小手投で投げ飛ばし押さえ込んで、肩関節が外れる寸前まで痛めつけてから起こしてやって、「どうだい、強いだろう」と言ったところ、本人もまたそれを見ていた仲間もシュンとしてしまったそうです。「どうだ、内地へ帰るまで俺を助けてくれんか。いろいろとこれからも問題が起こると思うから、日本人は団結し、助け合っていかねばならぬと思う。そこで君たちのような元気な青年の力と行動力が欲しいのだ。手伝ってくれんか。」と言ったところ、感激して一も二もなく承知したそうです。そうやって、無法者といわれていた3人を中隊の力強い親衛隊に得て、開祖は威厳を持って部隊をまとめあげ、引き揚げ船に乗るための最後の収容所にたどり着くことができたのだそうです。

 ところが、そこで輸送司令部への人身御供が要求されます。この問題に開祖は、誰一人犠牲にせずに解決する方法を見出し、暴力の圧力にもこれまた正義の鉄拳で対処して、大演説をぶち、無事切り抜けることになります。この事件の翌日、日の丸を掲げた米軍の上陸用大型舟艇で開祖は、日本への帰路につく事になるのです。

16、極限状況での人の行動

 開祖が撥ね返した「女を出せ」という要求は、当時の満州では数限りなくあったようです。数人の女性が逃避行の仲間を救うために自ら犠牲になったという話もありますし、無理やり生贄にさせられたという話もあります。そして開祖のように断固として断ったという話もあったわけです。

 先ほどお話した自決についても、隣同士の集落が、集団自決で全滅した部落と、誰一人自決者を出さなかった部落とにわかれたという話もあります。
軍隊のレイプ事件についても、八路軍はとても軍紀正しく行動したと聞きますし、関東軍も、石原時代には大変規律正しく、現地の人たちからも関東軍とは安心して付き合えるといわれたようですが、満州事変後のおごりと規律の乱れから、敗走中に同胞を犯した関東軍兵士の話も残されている位、軍紀はひどく乱れてしまったようです。

 いずれにしても、極限状況での人の行動は、人の質によって、それも指導者の質によって大きく変わるということを、開祖は体験で感じられたのです。

17、責任感や使命感から見る人の質

 突然話が飛びますが、戦艦大和が沈没し、味方の駆逐艦が救助に来た時の話しをしたいと思います。22歳の吉田という少尉が、兵士を救おうと必死に自らの使命を果たしました。多くの水兵が命綱を投げられてから我先にとロープに飛びつきつつもその混乱から水没していく中で、彼らの命を一人でも多く救おうとする少尉の行動が対比されて伝えられています。極限状況にあっても、責任感や使命感がその人の行動を誇り高いものにしてくれる例だと思います。

18、信仰や信念から見る人の質

 また、信仰や信念の力によって、極限状況にあっても自分を犠牲にしてでも他人を助けようとする人たちもいます。映画や小説からもそういう英雄の話がうかがえますよね。

19、開祖は何を思ったか

 「イデオロギーや宗教や道徳よりも、国家や民族の利害のほうが優先し、力だけが正義であるかのような、厳しい国際政治の現実を身をもって経験した。そしてその中から知り得た貴重な経験は、法律も軍事も政治のあり方も、イデオロギーや宗教の違いや国の方針だけでなく、その立場に立つ人の人格や考え方の如何によって大変な差の出る事を発見したことである。満州で政権を握っていた頃の日本人の場合も同様であった事を改めて思い浮かべて、私の人生観は大きく変わり今後の生き方に一つの目標を見出したのである。人、人、人、全ては人の質にある。全てのものが、「人」によって行われるとすれば、真の平和の達成は慈悲心と勇気と正義感の強い人間を一人でも多く作る以外にはないと気づき、万一生きて帰国できたら、私学校でも開いて志のある青少年を集め、これに道を説いて正義感を引き出し、勇気と自信と行動力を養わせて、祖国復興に役立つ人間を育成しようと決心するに至ったのである。」

 開祖は、「教養のためか、それとも修養の結果か、あるいはまた性格的なものなのかはわからないけれども」として、欲望を抑えたり他のために自分が犠牲になったりする人を見てきた経験から、そんな人を育てようとされたのだと思います。もちろん、開祖自身がそういう人だったことは言うまでもありません。その後の日本での経緯を経て金剛禅を成立させるわけですが、開祖は、我々に易筋行(少林寺拳法)を主行とした修練をとおして、人の道を示され、勇気と自信と行動力を養う事を教えてくれました。なおその上に、ダーマ信仰にもとづく使命感をもつ事を力強く指導されたのです。

 「人間は、平穏なときにはいくらでも自己の本性を隠し、表面を飾る事ができるものであるが、いったん秩序が乱れたときこそ、赤裸々な本性がむき出しになってくるものである。」最近では、平時でも自分さえ良ければそれでいいという風潮が蔓延していますから、正しい価値観や理念をしっかりと身につけることは、開祖の時代よりも重要性を増しているといえるかもしれません。でもそれだけで満足するのではなく、極限状況でも誇り高く生きる事ができるような質を磨くために、信仰にもとづく使命感をもつ事がとても大切なのです。

おわりに

 当時行った法話はここまでです。世界大戦からウクライナ戦争に至るまでみてくると、どんな戦争でもいったん本格的に始まってしまうと、ボロボロになりながらも勝って和平交渉に臨むか、ボロボロに負けて侵略者の思うままにされるか、仲介を得て停戦を実現させつつも再燃におびえながら長年に亘り停戦監視団を受け容れ続けるかの三択になってしまうのだとつくづく思います。戦争によって利益を得るほんの一握りの者たちを除いては、誰も得することの無い非合理な手段です。しかも、戦場は殺戮と破壊の修羅場となり、極限状況から狂気の沙汰が横行します。戦後復興が叶ったとしても国民一人一人の心には被害の苦しみと加害の苦しみが延々と続き、精神的に患ったり自死を選んだりする人も決して少なくありません。開祖をはじめ戦争を経験した人たちは口をそろえて「戦争はしてはいけない」「正義の戦争などはない」「どんな理屈をつけても所詮は殺戮と破壊でしかない」と言い続けていました。

 しかしながら最近は、「抑止力と対処力」等と言われ、「命よりも大切なものがある」だの「大義の為には戦争もやむを得ない」だのと、そして「自国を守る戦いをしなければ誰も助けてくれない」だの「侵略されたら自衛隊に頑張ってもらって」だのと、戦争することが大前提のような話ばかりが喧伝されています。

 戦争になれば、命令一つで命を捧げる自衛官はもとより、私たち一般市民も一番つらい立場に立たされるのですから、何としても戦争にならないように徹頭徹尾対話によって対処することを、また、もしも不幸にして侵略にあってしまったとしたら本格的な戦争になる前に一刻も早く仲介者を立てて対話のテーブルに引き戻すようにすることを、政府に要求し続けなければなりません。

 日本の政府は、憲法によって国民の生命、自由、幸福追求権を保障しています。また、それを担保するために平和と独立を守り国の安全を保つ自衛隊を設置しています。(それゆえ国と国民は、自衛官に対して最大限の感謝と栄誉を捧げることが大切です。)徴兵制のないわが国では、民間人が国を守るために駆り出されることなどあってはなりません。国民の平和的生存権を侵害する権利は、誰にもありません。国が国民を守る義務を負っているのであって、国民が国や政府を守るために居るのではないことを、しっかりと認識していなければなりません。国が戦争をしようとした時、何よりも必要とするのが国民の協力です。国民が政府を後押ししない限り戦争の継続は不可能なのです。そもそもいかなる理由があるにせよ戦争に突入してしまったら、その政府はもはや国民を守る事ができないわけですから本来ならば責任を取って辞めて然るべきであるにもかかわらず、その無能な政府が戦時の国家運営をし続けることは大いなる背信といえましょう。ましてや無能な政府に私たちの未来を託し命を委ねることなど考えるだに恐ろしいことです。

 戦争をさせないためには、危うい動きを察知する知恵が必要です。その一つは歴史を学ぶことです。そしてまた、アンヌ・モレリが著した「戦争プロパガンダ10の法則」を知ることも大切です。以下の10項目は、敵味方関係なくすべての武力紛争や戦争に共通して用いられるプロパガンダの大原則と言えます。これを知っているだけでも、国やマスコミ、政治家や専門家と称される人たち、そして何より世論の空気に騙されにくくなるでしょう。

  1. 「われわれは戦争をしたくはない」

  2. 「しかし敵側が一方的に戦争を望んだ」

  3. 「敵の指導者は悪魔のような人間だ」

  4. 「われわれは領土や覇権の為ではなく、偉大な使命のために戦う」

  5. 「我々も意図せざる犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為に及んでいる」

  6. 「敵は卑劣な兵器や戦略を用いている」

  7. 「われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大」

  8. 「芸術家や知識人も正義の戦いを支持している」

  9. 「われわれの大義は神聖なものである」

  10. 「この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である」

 自ら大いに学ぶと同時に、関係する様々な人の立場に立って考える努力が必要です。自分の立場だけから見ていては客観的なことは何もわかりません。正義は立場によって異なるものです。どちらが正しいかという考えにとらわれて相手を責めてばかりいては、簡単に戦争が始まってしまいます。善と悪のような対立軸にこだわると解決の糸口は見つかりません。誰も敵とはみなさず、誰に対しても敬意を払い、対話によってそれぞれの事情と思惑を想像したり調べたりすることによってはじめて、自他を共に尊重し、「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを」と考慮し願う生き方が可能となるのです。

 すべての事が人によって行われている以上、その立場に立つ人たちが「半ばは自己の幸せを 半ばは他人の幸せを」と願い行動すれば決して戦争は起きないでしょう。そんな多様で寛容な共生社会を目指して、同調圧力に屈することなく私たちは微力を尽くしたいですね。

参考文献

『クロニック世界全史』、『読める年表(8昭和編)』、岡田益吉著『危ない昭和史・上巻』、岡田益吉著『危ない昭和史・下巻』、『別冊宝島 昭和平成 日本テロ事件史』、半藤一利著『昭和史』、半藤一利著『ソ連が満洲に侵攻した夏』、藤本治毅著『石原莞爾』、合田一道著『検証・満州一九四五年夏』、結城昌治著『軍旗はためく下に』、武田修志著『人生の価値を考える』、土井全二郎著『生き残った兵士の証言』、五味川純平原作 石ノ森章太郎『マンガ人間の條件』、他インターネットサイトなど


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