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あの頃、蝉は寝ぼけていた

幼い頃の夏休み。
東京を離れて祖父母が住む田舎へ行くと、町中から聞こえてくる大合唱にいつも驚かされた。
私の育った東京の端っこにある町は、大きな川が流れていたり、その川沿いにはそれなりに大きい公園があったりして、都会にしては確かに緑が多い場所だったけれど、夏になると聞こえてくる蝉の声のボリュームはやはり田舎のそれには全く敵わなかった。
どうして田舎の方が大きく聞こえるのかは、もちろん生息している数の違いが一番大きな理由であったと思うが、生息している種類の違いも大きかったのではないかと思っている。
特に東京ではあまり聞こえてこないクマゼミの鳴き声はとても大きくて、その鳴き声を聞くたびに僕は田舎の祖父母のうちに遊びに来ているんだと実感したものだった。
シェンシェンシェンシェンシェンシェンと耳に届くその鳴き声。
夏休みの音。

降り注ぐ夏の日差しの下で喜びを全身で表現するかのように鳴く蝉たちが、夜になるとピタリと鳴りを潜めるのも不思議だった。
長い昼が終わって訪れた夜の窓の外は今度はカエルたちのステージとなった。
そうしてカエルたちの出番が来るとあれだけ昼間に主張をしていた蝉たちは、まるでみんながどこかへ去ってしまったかのようだった。

ただ時折カエルたちの鳴き声の隙間から「ジジッ」という鳴き声が聞こえてきた。
カエルの合唱に微かに混じった蝉の声。
祖母はそれを聞くといつも「あら、蝉が寝ぼけているのね」と言った。
「蝉も何か夢を見ているのかしらね」と。
つまりあれだけ鳴いていた蝉は夜になっても変わらずそこにいて、外の大きな木にはたくさんの蝉が止まったまま静かに目を閉じて朝を待っているのだ。
僕は蚊帳の吊るされた天井を見ながら、そんな少し滑稽で少し不気味な光景を毎晩のように想像していた。


次の日になると夏の短い夜をおとなしく過ごしていた蝉たちが、また一斉に目を覚ました。
開け放たれた窓からはたくさんの蝉の声が朝日と共に部屋へ飛び込んできて、目が覚めて一瞬どこにいるかわからない僕に、そこが祖父母の家であることを教えてくれたのだった。

ここ数年、日本の真夏の夜は、しっかり対策をしなければ命の危険があると言われるほど暑くなっている。
きっとそのせいだと思うのだけれど、僕が幼かったあの頃とは違って、蝉たちが真っ暗になってもなお、夜通し鳴き続けていることが多くある。
お酒を飲んだ帰り道なんかに並木道を歩いたりすると、きっと幼い頃の僕がそこに立っていれば今が昼なのか夜なのかと混乱するのではないかと思うくらい、大きな鳴き声があちらこちらから聞こえてくる。


一晩中体を震わせながら鳴き続ける蝉たち。
街灯にポッと照らされた木から聞こえてくるそのたくさんの鳴き声は、あの頃夜の暗闇から聞こえた小さな鳴き音よりもずっと不気味だ。
「蝉が寝ぼけているのね」と祖母に教えてもらったあの頃とは全然違って、夜の町から聞こえてくる蝉の鳴き声は、ずっと大きくて力強いのだけれど。

蝉たちは今、夜通し好きなだけ鳴いていられる喜びに打ち震えているのだろうか、それとも休むことなく鳴き続けなければならない苦しみに、泣き叫んでいるのだろうか。
そんなことはもちろんわからない。
わからないけれどその力強さとは裏腹に、僕には何故だかどうしても蝉たちが、苦しいよ、辛いよと泣いている声に聞こえてしまうのだ。

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