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北条政子が熱弁をふるって鎌倉御家人衆をまとめあげる話

いまはむかし、東国伊豆に北条政子という武家の娘がいた。伊豆一帯を治めた北条時政の長女である。伊豆に流されていた源頼朝の正室となった。

東国武士の血を受け継ぐ彼女には、明晰な頭脳と豪気な一面があった。意見があれば堂々と主張し、相手が頼朝であっても容赦しなかった。ときに敢然と主張し、激しい夫婦喧嘩を演じたことも一度や二度ではない。御家人たちのなかには、頼朝より政子のご機嫌をうかがうものも少なくなかった。

男勝りというだけが政子の性格ではない。情が深く、嫉妬深い一面も彼女の特徴であった。頼朝が浮気をすれば烈火のごとく怒り、見せしめとばかりに不倫相手の屋敷を扈従に命じて襲撃させたことすらある。頼朝を取られたくないという女心もあったが、武家の棟梁として身を正してほしいという切実な思いもあったのだ。

そもそも、政子と頼朝は結婚が許される間柄ではなかった。父時政は平家に仕える豪族で、伊豆に配流の身となった頼朝を監視する役目を担っていた。ところが、頼朝と出会った娘が一途に想いを募らせ、親の反対も無視して逢引きを重ねるようになり、悩ませた。父は苦肉の策で娘を屋敷に閉じ込めたが、そんなことで政子の恋の炎は鎮まらなかった。

ある嵐の夜、政子はひとり部屋にこもっていた。外は風が激しく、屋敷をたたく音が響きわたる。そのとき、政子はおもむろに部屋を飛び出し、外へ駆け抜けていった。強い雨のなか、向かった先は、頼朝のいる走湯権現であった。娘の本気を知った時政はとうとう折れ、平家を捨てて源氏側につく覚悟を固めた。

関東の武士たちを糾合した源頼朝は、平家打倒を掲げて挙兵した。弟義経や木曽義仲といった有能な武将を巧みに使いこなし、度重なる合戦に勝利をおさめていく。自身は鎌倉に身を置いて執務をとり、武家政権の基盤を着々と固めていった。平家を滅亡させた頼朝は鎌倉に政権を敷き、征夷大将軍として天下に号令をかけた。その影には夫を支える政子の存在が常にあった。

鎌倉幕府を開いて十数年後、頼朝は不慮の事故で命を落とす。嵐の夜に結ばれてから、二十二年が経過していた。残された政子は、落飾して尼となる道を選んだ。長男頼家が二代目将軍の座に就き、政子はその後見役に回った。

政子の期待に反して、頼家は将軍としての器を大きく欠いていた。気心の知れた側近しか使わない密室政治は不信を呼び込み、土地の訴訟では不当な判決を出すなどして御家人たちの反感を買った。そんな息子を政子は激しく叱責したが、頼家に改心の気配は見られない。政子はとうとう頼家を将軍の座から追放し、伊豆の修善寺に幽閉した。三代将軍には次男の実朝が就任する。

将軍の資格に欠けていたのは実朝も同じであった。京の気風を愛した実朝は、ろくに政務と向き合わず、もっぱら短歌にかまける日々を送った。あろうことか京の貴族を近くに置き、朝廷に忠誠を誓うなどして将軍の権威を貶めた。政子の落胆が大きかったのは言うまでもない。

そんな実朝の世も長くは続かなかった。朝廷から右大臣の官位を授けられた実朝は、鶴ケ丘八幡宮で任官を祝う儀を執り行うが、その直後に何ものかに暗殺されてしまう。真相は定かでないが、黒幕は北条氏、もしくは政子自身がその手にかけたとも言われる。いずれにしても、源氏政権は三代で滅び、実権は北条氏の手に移った。

源氏の衰亡は、朝廷から見れば京に政権を取り戻す好機であった。自ら兵団を養成し倒幕の隙をうかがっていた後鳥羽上皇は、満を持して兵を挙げた。承久の乱である。

実朝の死で幕府の体制は揺らぎに揺らいでいた。歌人で教養があり、貴族風の気品を持つ実朝の人気は高く、その死を惜しんで出家した御家人が百人以上もいた。そこへきてこのたびの上皇の挙兵である。御所に集まった御家人たちの顔には動揺の色が見て取れた。鎌倉につくべきか、朝廷にひるがえるべきか、決心がつかず右往左往する者が大半であった。

そこへ、政子が檀上に立った。彼女は見るからに狼狽する御家人たちを叱咤するように、声を励ましてこう訴えたのだ。

よいかお前たち、頼朝公の恩義を忘れるな。その恩は山よりも高く、大海よりも深い。このたびの追討は、まったく言われないものである。頼朝公の御恩に報いるときは、まさにいまをおいてほかにない。武士の名を汚したくなければ、すぐに討って出よ。もし京になびくのであれば、この場で尼を殺して屋敷に火をつけるがよい。

政子の涙ながらの演説を聞いた武士たちは、ようやく目が覚めたように奮い立った。そして強い結束のもと、大挙して上洛する。精悍な東国武士たちは京の兵たちを蹴散らし、わずか数日で鎮圧してしまった。まったくもって政子が呼び込んだ鎌倉勢の勝利である。



武家の娘として、北条政子は、その役割を峻厳にまっとうした女性だった。頼朝に対する度重なる諫言も、浮気への牽制も、武家社会という大きな家を守るために生まれた言動であった。また、わが子に将軍としての資質がないとみれば非情にこれを切り捨て、武家政権の瓦解を防いだ。上皇の反乱に際し、彼女の毅然とした振る舞いがなければ、御家人たちは立ち上がらなかっただろう。北条政子という女性がいなければ、武家の時代は到来しなかったかもしれない。

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