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子どもからみれば子どもは怖い

この世に蔓延する「子どもはピュア論」。確かにピュアだ。無邪気だ。花のように可憐でかわいらしい。その一方で、ピュアゆえの残酷、ピュアゆえの不道徳、ピュアゆえの攻撃性も、同時に併せ持つ生きものだ。

子どもたちにとって、もっとも脅威となる存在。それは大人たちより、むしろ身近にいる子どもたちではないだろうか。もう幼稚園の頃から、子ども社会というのが誕生し、そこではっきりとした優劣の差が生じ、それによって評価が別れ、弱肉強食の世界が形成される。最下層にいる子どもたちは、トップ層の強者に心を食い荒らされることもしばしばである。

わんぱく小僧で、明るくて元気いっぱい、運動がよくできてたくましい子どもに、おとなしくて控えめ、あまり前へ出たがらない子どもは圧倒される。萎縮し、つい控えめになって自分のか弱き心を守ろうとする。そんな現実がどこかに存在するにもかかわらず、大人たちは子どもというだけで全部ひとくくりにして「かわいい」「無邪気」「ピュア」「みんないい子」「みんな罪はない」で片付け勝ちになる。

小さな子どもにとっての一番の敵は、身近にいる小さな子どもだったりするんだ。

悪口を言ったり、のけ者にしたり、石を投げてきたり、平気でうそをついたり、仲良くすると見せかけて仲間外れにしたり、そんなことも平気でする生きものが子どもである。誰かを傷つけて喜んでいるときのあの笑顔は、太陽の光みたいにまぶしく、真っ白な輝き放って残酷な世界を照らす。

いつもは絡まないくせに、新しいゲームを持っていると聞いた途端、急にごまをすり出して近づいてくる。「○○ちゃん一緒に遊ぼうよ」うん、いいよ、と言って家に上げると、まるで自分のもののようにひたすらゲームばかりし始める。そんな日がしばらく続き、やがてそのゲームにあきると、何でもなかったかのように付き合いを断ち切る。そしてさんざん遊ばせてもらった相手を石ころみたいに扱うようになる。金の切れ目で大人が付き合いをやめるように、子どもたちはマンガやゲーム、玩具で付き合うかどうかを決める。結局どっちも醜い。

けれど、感謝を知らず礼儀を知らず、心のなかにやさしさや人の痛みに対する理解も持てずに、そのまま大きくなる子どもこそ、不幸といえるのかもしれない。かわいい外見の内側に潜む心の底には、恐ろしい毒素が渦を巻いて漂っている。固まらないうちにはやく浄化して、わたしたちが忌み嫌っているあんな大人やこんな大人になってしまないよう、もっと注意を払うべきだと思う。あんな大人もこんな大人も、最初はみんなピュアピュアとかわいがられていたのだから。


#ライター #エッセイ #コラム #子ども #教育




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