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自分の心が、自分の人生を作る。

8年勤めた東京消防庁を退職して、1年が経った。

最高の仲間たちが集まるコミュニティーを作るんだと、大口を叩いたのはいいものの、今はビジネスの世界で四苦八苦している。

リユースの事業をやっているただの独身29歳。

対して儲けてる訳ではない。

むしろ今はぎりぎりかもしれない。

彼女とは、付き合って5年半が経った。

そろそろ結婚もして、安心させてあげたい。

それが正直な気持ち。


何故、安定している消防士を辞めて、自分が今、この場所にいるのか。

それは、10年前までさかのぼる。


2013年3月。

年齢は20歳。ニューヨークにあるエンパイアステートビルの展望台から、百万ドルの夜景とも言われる絶景に心が震えていた。

耳には、Jay-zとAlicia KeysのEmpire State Of Mindが大音量で流れている。

東京消防庁に入庁する1か月前に、兄の貴生(たかき)と、兄弟2人で行くニューヨーク旅を、両親が計画してくれたのだ。


ここが世界最大の街、ニューヨークか。

凛々しく立ちはだかる圧倒的存在感のビルの数々と、視界に焼き付くほどのネオンの数々。

この目に映る大量のネオンが、世界中からこの街に夢をもって集まってきた人たちの数に見えた。

何とも刹那的で、ものすごいエネルギーを感じる。
夢を馳せた人々が、今この瞬間を、この世界一の街で生きているんだ。

全身の鳥肌が幾度となく、繰り返された。


この時の感覚は10年経った今でも忘れられない、大切な経験になっている。


世界はとてつもなく広く、大きかった。自分の小ささを感じた。

自分はこのまま平凡に生きていていいのか。

そんなことを考えたのを覚えている。

1週間ほど滞在したのち、日本に帰国した。


帰って母親に尋ねた。

『消防学校に入る前に留学したい。いつかアメリカに住みたい。』

何でニューヨークに住みたいかなんて、理由はなかった。別にロサンゼルスでもよかったのかもしれない。

ただ、人と違うことがしたい。ビッグになりたい。そんな理由だった。

最初伝えた時、母親は本気にしていなかった。

専門学校まで通わせてもらって、高い倍率を潜り抜けて、やっとの思いで来月消防士になるんだ。親もやっと安心できるのだろう。

『それはそうだよな。』

ニューヨークの夜景をみて、脳みそに電撃が落ちるほどの衝撃は、煙のように薄く薄く、何処かへ消えていった。


東京消防庁2類の試験は、自分の通う専門学校の中では最難関と言われていた。

100人以上受験したうち、最終合格をしたのは自分一人だけだった。

本気で消防士になりたかった。

映画で『海猿』や『252~生存者あり~』など、人命救助関系の映画が流行っており、何より東日本大震災での消防士の活躍が、連日ニュースで取り上げられていたのも、若い人たちの憧れとなった要因のひとつだろう。
とにかく、当時はものすごい倍率だったのを覚えている。


アメリカンドリームもいいが、消防士への憧れもものすごくある。やっと消防士になれるんだ。

俺は消防の道で頑張ろう。そう思った。


そして4月、消防学校に入庁した。

気合の入った学生が沢山いたが、全くもって心は動じなかった。

今までやってきたレベルが違うと、自信に満ち溢れていたからだ。

消防署の訓練は予想以上にきつかったが、予想以上にきついことは学生時代に何度も経験してきていたから、どうってことなかった。

消防学校ではみんなの筋力、体力の底上げの為、体育係長に任命された。

ただ、そんなことより、ここでの仲間たちと過ごした日々こそ大切な思い出になった。

消防学校はいうならば、第二の青春だった。


半年がたち、消防学校の仲間達とも涙のお別れをした。

そして、9月後半、遂に消防署での勤務が始まった。

先に伝えておきたいが、これからここに書くことが全てではないので、そこはご理解いただけると嬉しい。


仕事の日は、朝7時には出勤して、若手は夜になっても、朝方になっても寝られなかった。

毎日、ふらふらになりながら朝日を見ていた気がする。

翌日のお昼くらいに、仕事が終わって寮に戻ると、次の日の朝まで寝てしまうこともしょっちゅうだった。


消防は人を助ける仕事だ。人命救助が全てである。自分自身も、人の為になりたいと思って消防士を目指した。

しかし、非常に残念なことに、消防署の中ではいじめが沢山あった。人を助ける最先端の仕事をしている人が、身近な仲間をいじめているのだ。そういう落ち込んだ人や、困っている人を助けるのが消防士じゃないのか!下っ端ながら、その矛盾とも思える行動をしている人たちに心底がっかりしたのを覚えている。

しかも、そのいじめは、みんなのヒーローであるレスキュー隊に多く見られた。


消防署のシステム上、縦社会が今の最適解であるのは間違いない。
システム上、縦の構図になることは仕方がないことではあるが、それにしても目に余るいじめを何度も見てきたし、聞いてきた。

レスキューに若手が入るたびに、その若手はいじめられ、夢だったレスキューを続々と降りた。人命救助はそんなに甘くないという気持ちはわかるが、そこに愛のある指導はなく、自分の目には、ただ人の心を病ませているだけのいじめのように映った。いじめられた人たちは、みんないい人たちだった。中にはひねくれてしまう人もいた。
そして、自分自身も先輩にいじめられた。

いじめられた内容をここに書くつもりはないが、当時の自分も、客観的に見ればそれなりに病んでいたと思う。


そんな毎日であったが、何年か経ち、先輩になるにつれて、消防署での勤務にも慣れてきていた。


消防署に勤務して2年ほど経った、22歳のある休みの日のことだった。

父親に誘われて、常連になっている近所のスナックへ行った。

そこで、スナックの店員だったレイという男に出会った。

年齢は一つ下だった。

彼は高校3年生の時にアメリカのサンディエゴに留学し、流暢な英語を話していた。

自分より年下の男が、既に自分より広い視野を持っていることに羨ましい気持ちもありつつ、世界観が似ていたこともあり、その場で意気投合した。

その日はスナックのママに、返る時に鍵を閉めてくれれば好きな時間まで飲んでていいよと言われ、2人で朝の6時近くまで飲み明かした。

そして、一度帰宅して、そのまま江ノ島に釣りへ行ったのを今でも覚えている。


聞くと、レイは3月にシドニーへいってしまうらしい。

その話を聞き、食い気味に質問を繰り返した。

『ワーホリ?留学?』

『資金は?』

『期間は?』

レイはすべて答えてくれた。

正直、自由に生きているレイが羨ましかった。

そして、自分に言った。

『…一度遊びにくれば?』

『オフコース!!』

即答で行く決断をした。


そこから、すぐに航空券を調べてチケットを取ったが、近々だったこともあり、結構な金額だった。

貯金なんて、もちろんない。

でも、カードという手がある!

関係ねぇー!!

行くぞー!!

お金なんて後で帳尻を合わせればいいと思った。


しかし、航空券を取った後、同じ日程で消防署の所員旅行が被ってしまった。

この所員旅行は毎年恒例になっており、全員が参加していた。

消防士は公安職にあたるので、海外旅行に行く時は、事前に届け出が必要だった。
しかし、海外旅行の届け出をするには遅すぎてできない。

所員旅行を断る理由も見つからなかった。

でも、ここで行かなきゃ一生後悔する!

どうにか理由をこぎ付けて、強行突破をすることにした。


イタリアやフランス、そしてニューヨークへの海外旅行に行ったことはあったが、航空券のことから、あらゆる手続きのことから、人に任せっきりで、自分では何もやったことがなかった。

だから、今回の一人旅は一から手探りだった。

羽田空港から北京行きの飛行機に乗り、北京からシドニー行きの飛行機に乗り変える。

時期は3月。シドニーは夏の気温だった。格好は半袖、短パン、サンダル。

しかし、北京は真冬の氷点下。

洋服などの荷物は預けてしまっていた。10時間近く北京で待機。周りの人はみんなダウンやコートを着ていた。余りの寒さにファストフード店でホットコーヒーを買ったが、一瞬で冷めてしまった。

体育座りになってTシャツに全身を入れ、寒さを凌いだ。

細かいトラブルはこれ以外にも沢山あったが、無事、極寒の北京から飛行機に乗り、ようやくシドニーへ到着した。

シドニーへ到着して安心するのも束の間、電車に乗ろうとするも、まず電車の乗り方がわからない。

どうやら周りを見ていると、日本でいうSUICA的なカードをみんな使っている。

どこで、どうやって買うんだ…。

まず空港から出ることから苦戦した。

多分、海外旅行に一人で来た若い子が、困っているんだろう。

そんな風に気にかけてくれた、気の優しいおばあちゃんが、一からカードの買い方を教えてくれた。

こういう小さな助けの手が何度もあった。


ようやく電車に乗ると、車内に手のひらサイズの青リンゴを食べ、足を組んで新聞を読んでいるスーツ姿の人がいた。

そんな光景を見て、異国を感じたのを覚えている。


シドニーでは、現地の語学学校でブラジル人と卓球をしたり、友達とフェリーに乗ってビーチへいったり、人の家に泊めてもらったり…面白いことや、色々な出来事があったが、1週間から10日ほど滞在したのち帰国した。


帰りの飛行機の中、ニューヨークのエンパイアステートビルにいた時の、電撃が落ちるような感覚が、また脳裏に蘇ってきた。

このまま挑戦をせずには終われない。

何をどうしたらいいのかわからないが、まず海外にいこうと思った。

貯金はない。だとしたらお金が必要だ。


帰国後、羽田空港からキャリーバッグを持ったまま、レイと出会った地元のスナックへ向かった。

目的は、顔が広かったママに、どこでもいいから消防士をやりながら働けるところがないか、聞くことだった。


ママは知り合いという知り合いに連絡をしてくれた。

なかなかいい返事が返ってこない。

その中で一人の方が、面白そうなやつだなと、自分に興味を示してくれた。

ロックウェルズという居酒屋を経営している中野さんだった。


『お会計も後でいいし、キャリーバッグも置いて行っていいから、行って来なさい!』

ママがそう言ってくれた。

言われた通り、走って駅へ向かい、電車に乗った。


その日のロックウェルズは忙しかったため、あまり細かいことは話せなかったが、後日予定を合わせて中野さんと会うことになった。


中野さんはたまたま地元が一緒だったので、地元の上大岡駅で待ち合わせをした。

そして、駅前の信号を歩きながら、突然中野さんに質問された。

『高橋 歩って知ってる?』

何で?

いきなり何の質問だ?

少し戸惑った。

実は、高橋 歩さんのことは、思い切り知っていた。

つい1か月ほど前、専門学校の先輩から『多分この本好きだと思うから、貸してあげる』と言われて、感銘を受けた本があった。その本の作者が高橋 歩さんだった。

そして、中学の時から『夢は逃げない。逃げるのは自分だ。』という高橋 歩さんの言葉に感化されており、今でも実家の部屋の壁には、その言葉が貼られている。


その高橋 歩さんと中野さんは、同じ上大岡出身で、聞くと2人とも同じ中学の先輩だった。

そして、ロックウェルズの創業者は、実は高橋 歩さんで、地元の後輩である中野さんが受け継いだらしい。


必然のような偶然。いや、偶然のような必然。

わからないが、そんなご縁を感じた。


早速、次の週から横浜駅にある店舗の方で働かせてもらった。

働きながら、アメリカに行って何をするのか、どう生きていくのか、毎日考えた。


アメリカに行って、Barで働く?ちょっと違うな。

飲食店をやりたい?別にアメリカである必要はないか。

何年か住めばアメリカの生活に慣れてきて、日本と同じように何不自由なく生活できるようになるだろう。だとしたら、その時、自分は何を思うのだろうか。

今度は、イタリアに行きたいと言い出すのか?

結局どこにいてもやることを見いだせずに、だらだら毎日を過ごすのか?

それじゃ、今と変わらないじゃないか。


思考がぐるぐるぐるぐるしている。

考えれば考えるだけ、頭の中のキラキラした感情は、色を失っていく。


今思えば、答えなんてなかった。

アメリカに行ってビッグになりたかった。

ただそれだけだった。

何で?何で?と答えを探すたびに、心の中でときめいていた幻想は、考えることによって、少しずつ崩れていった。


理由なんていらない。

理由なんて初めからないのだから。

心がときめいたのに、理由なんてない。

ただ心がときめいた。

それでいい。


子供のころ、新潟でカブトムシを見て喜んだ。

ザリガニを釣って楽しんだ。

海で袋麵を食べて、いつもよりおいしいと思った。

本牧でアイナメを釣ったのが楽しかった。

それでいい。

その感情はその人にしか感じられない、その人だけの神聖な感情。

それ以上、踏み入れる必要はない。

何でカブトムシがいいのか。

そんなこと、頭で分解していったら、喜びも楽しさもすべて無くなってしまう。


そもそも、そういった人間の感情に意味なんてない。

なぜ柔道をやるのか?

投げる時に爽快だから?

なんで投げる必要がある?

自分の身を守るため?

それを競技にして争う必要なんてある?


柔道が楽しいという、その神聖な感情は、踏み入れない方が美しくあれる。

柔道をやって楽しいなら、その感情を大切にすればいい。

夕陽をみて美しいと感じたなら、それをそのまま感じればいい。


頭で意味を探して、それをロジカルに解いてしまうと、魅力は色を無くしてしまう。

もともと心のトキメキにロジックなんてないのだから。

その味をその瞬間に味わえばいい。


とはいっても、その時の自分は必死だった。

考えて考えて、考えつくした。とにかく分解し続けた。

結局ニューヨークで頭に走った電撃は、人生経験というよりかは、ただの思い出に変わっていってしまった。


消防署では、特にやりたいことも見つからず、全てが中途半端だった。

もともと、与えられた環境で生きていくことは苦手だった。

だから、小学校や中学校、高校と色々苦労した。

みんなやってるんだからやりなさいと言われるのが、苦手だったし、やろうとしても身が入らなかった。

成績がいいのは、好きだった美術の作品作りの授業だけ。

そして、部活の柔道だけは人一倍夢中だった。

だが、今やっている消防の仕事に、電撃が落ちるような衝撃が訪れることはなかった。


淡々と毎日を過ごし、目標も見いだせずに、ただ作業として行う訓練や、仕事に違和感や苦痛を感じていた。

今回の人生は、消防に本気になるんだと何度も心に決めるが、無理矢理こぎ付けた自分との約束なんて守れるわけはなかった。

人生ってこんなもんか。

こうやって大人にみんななっていくんだよね。

そんなうまくいかないよね。

そんなネガティブな事ばかり考えていた。

尊敬する救急救命士の先輩に、救急の道へと誘われて、一時は目指そうと努力したが、やはりその時も身が入らなかった。

資格を取って階級が上がって責任を負うくらいなら、同じ給料なんだし、だらだらしてた方が得だ。

そんなしょうもないことまで考えていた。


そんな毎日が続いていたある休みの日、彼女と湘南の蔦屋書店で休みを満喫していた。

そこでの出来事が、自分を新しい世界へと導いてくれた。


もともと本はほとんど読んだことはなく、人生のほとんどを感覚で生きていた。

読んでもすぐ飽きてしまい、まともに読んだ本といえば、自伝関係の本か、親に勧められたリリーフランキーの『東京タワー』くらいだった。

そんな自分だったが、その日、一冊の本に出会う。


西野亮廣さんの『ゴミ人間』という本だった。

見出しには『日本中から笑われた夢がある』と書いてあった。

夢ねー。ゴミ人間かー。何か刺さるものがある。

夢を失った自分をゴミ人間と思っていたのかもしれない。

何気なく、その本を手に取った。

しかし、気が付くと、夢中になってその本を読んでいる自分がいた。

あっという間に、読み終えてしまった。


そして、その本の最後に書いてあった言葉が、今の状況へ導いた。

『まずは環境を変えろ。景色を変えろ。そして、キミに入ってくる情報を変えろ。歩き出せ。方角はどちらでもいい。』

ニューヨークで感じた時の衝撃と、同じような感覚に陥った。

今まで培ったこの感性を。

自分を信じる概念を。

…もう無駄にしたくない。

これがラストチャンスだと思った。


どうしよう。何を学ぼう。

方角はどちらでもいい。歩き出すことだ。

とりあえず、蔦屋書店の中で会社をやっている友達に電話した。


そして、その本をきっかけに事が動き出し、自分で会社を起こすに至ったのである。

今は、スナックのママから紹介していただいた、ロックウェルズの社長の中野さんからのご縁で、色々と面白い未来が見えてきている。

人とのご縁に感謝している。


全ては人とのご縁。誰一人として蔑ろにはできない。

そして、その上で絶対に大切にしたいのは人としての『人情』

『人情』は今の自分の生きる指針の一つであるが、消防署時代にいた中隊長から学んだことだ。
もう定年で退職されたが、いまだに自分の隊長に変わりない。


学生時代が第一の青春、消防学校が第二の青春だった。
ならば、今は第三の青春だ。

今もこれからも、人生の旅の途中。

どんなアートになるのかは誰もわからない。

ただ、消防の8年間で得たものは大きい。

人生のブレないコンパスを手に入れたと思っている。

後は向かうだけ。


誰だってやればできる。

人と同じでなくていい。同じ人間などいないのだから。

みんな、自分の人生で感じた感覚や、衝撃、心が動いた瞬間のことを、大切にしてほしい。

それはあなたにしかない、美しく、神聖な感覚。あなただけの感性。
鍵は必ずそこにある。

自分を大切に、自分の人生を生きよう。


今まで培ったこの感性を使って、あらゆるものへの感謝を、自分なりの色でお返ししたい。

それが自分の目標。


ありがとうございました。

#ビジネスの出会い

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