私は怪物であるか ─無意識の怪物性─ 映画「怪物」感想

正直、勘弁して欲しい。

以前「花束みたいな恋をした」の感想(後半にURL貼っておきます)でも書いたのだが、坂元裕二氏の脚本はあまりにもこちらを見透かしていて、恐ろしい。

感想をどのように言語化していくのか想像がつかないまま、ただ何か残さなければならないという使命感によってのみ書き始めたいと思う。恐らく映像以上のことは何一つ語れないであろうが。


人は、日々与えられる数多の情報という点に、自身の経験や憶測や願いを組み込み、線にしていく作業を無意識に繰り返しおこない、自身が最も納得できるよう編集したなるべく直線に近い線を作り出し、信じ切ることで、その日を生きていると思う。

「この人がこんな態度をしているのは、きっと○○だからだ!」
そう言って、相手や物事全体を杜撰に解釈しようとする。その無意識さは暴力的である。無意識は、まるで怪物のように大きな力となる。

無意識さの暴力性でいうと、近年の思いつく問題に置き換えてみても、コロナ禍の混乱もトランプ現象もブレグジットも地球温暖化も大人気芸能事務所の失墜もすべて、それが良いか悪いかはひとまず置いておいて、小さな無意識が大きな力に化けて進行を後押ししているように思う。

しかしながら、ネットに溢れる恋愛相談なんかを読んでみると「相手がこんな態度を取るんですけど、気持ちが分かりません!」という悩みが形を変えてひっきりなしに生まれては解決している。これは恋愛を経験するほとんど全員が知る悩みである。恋愛は特別なものだから? すべての相手に対して、そうやってひとつひとつ丁寧に考えることはどうしても難しいし、潜在的に恨みや怒りを持つ相手には、余計に杜撰になってしまうように思う。

私たちは怪物なのだろうか。

この作品を観た全員がおそらく一度は保利(永山瑛太)を恨んだ。しかしまた、おそらくその全員が保利に同情した。
(保利の主観としては)ただの良い教師でしかなかった保利に降りかかる理不尽さを思うと確かに同情はできるのだが、それさえも、本当にそうだろうか?本当に良い先生だっただろうか?本当に理不尽だろうか?いじめを見て見ぬふりしていたとしたら?シングルマザーに恨みがあったとしたら?他の子と対等に接していただろうか?本当にそうだろうか?
保利はどんな人物なのだろうか。無意識に判断するのではなく、きちんと"穿った"見方をしたい。

湊の母の死んだ夫は、ラグビー大好きで競馬大好きで妻以外の女と浮気するような男である。息子がまさか、クラスメイトと顔が近づいた瞬間に反射的に身体を押し返しているなどとは一切思うまい。
保利は組体操で崩れた湊に対して「男だろ!」と笑い、男同士の喧嘩に「男らしく握手しなさい」と声をかけ仲直りを促す。
劇中の「あなたは人間ですか?」という咄嗟の問いに、じゃあ人間とはなんなのだ?と私は思う。
私は人間である。私は女である。ヒトでありメスである。それを無意識に認知している。この認知って、実は結構杜撰だと思う。一般に期待される女らしさと呼ばれる概念は知っている。でも、知っていてたまたまうまくやれているだけだなとは思う。


これまでの是枝裕和氏や坂元裕二氏の作品では、こどもがアイデンティティと向き合う姿が度々描かれてきた。おふたりともきっと関心を強くお持ちなのだろうと想像する。

今回もその作品群のひとつであり、おふたりの紡いだ世界は、苦しいほどに丁寧で、痛いほどに真摯で、まるで自身の体験であるかのような切実さを感じた。

私は高校生くらいのときに、同性の友人に対して「これは恋心なのではないだろうか」と、ふと考えてみたことがあった。毎日に彩りを与えてくれる他に代わりのいない特別な存在に対し、このような想いや悩みを抱いてしまうことは自然であり、何も可笑しいことでは無いと思う。

あの日々の中で、湊と依里にとって大切な気づきがあったはずだ。いや、日々何かに気づいているはずなのだ。それがきっと"幸せ"につながるもの・もしくは"幸せ"そのものだと知ってほしい。
ちゃっかり大人になってしまった私は軽々しくそう願ってしまうが、私自身もどのように"幸せ"を手に入れたら・認識していけば良いのか分からない。幸せについて語る校長先生もきっと分かっていない部分である。しかしそれが人生の主題であり、楽しみでもあると私は信じたい。


映画「怪物」は、是枝裕和×坂元裕二×坂本龍一×川村元気がタッグを組んだと発表された瞬間から今日までずっと心待ちにしていた作品だ。
それゆえ、まっさらな気持ちで臨みたいと思い、特報映像やキャストの情報さえもなるべくシャットアウトした。

スクリーンに映されたのは、「リスペクト」そのものだと感じた。

公式パンフレットを拝読して、それをより強く実感する。是枝裕和氏の坂元裕二氏への想い、坂元裕二氏の是枝裕和氏への想い、坂本龍一氏への想い、俳優への想い、美術・衣装などすべてのスタッフ陣への想い、そして観客への想い。互いがリスペクトしあって作り上げたものだと節々に溢れ出る。どこがと言うのは難しいのだが、私はとにかくそれを何よりも感じていた。

あの是枝裕和が「坂元さんみたいな脚本は自分には書けない」と語る。あの坂元裕二が「是枝作品のひとりのファンとして憧れを持っていました」と語る。このリスペクト合戦が、スクリーンにも滲み出ているなぁと、彼らのひとりのファンとしてにやにやしてしまう。


万人が万人素晴らしいと手を叩く作品など存在しないと私は思う。しかしながら、こんな傑作が生まれてしまったからには、どうか多くの人に届いて欲しい。

俳優のこと、音楽のこと、舞台のこと、美術のこと、もっと色んなことを感じているはずだが、私の言語化能力では到底、映像以上のことを表現出来ない。ただ様々なことをぐるぐると想うだけである。

正直、勘弁して欲しい。


↓以前書いた「花束みたいな恋をした」の感想

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