日本人の「買いもの耐性」が試される友好国トルコの商人道
タイ人は商売が上手いか、と聞かれると答えは「否」だと思う。もちろん実業界で成功した金持ちは多いが、一般には店先で、やる気がないというか覇気が伝わってこない店員が多い気がする。
ある日、プロンポン駅近くの某高級百貨店にカメラ用の三脚を買いに行った。よくある光景だが、店先で対応したのは、やる気なさげなニューハーフの店員さんだ。カウンターの隅っこに置いてあるホコリをかぶった三脚を2つ3つ、テキトーに取り出して、面倒くさそうに「これにしなさいよ」と勧める。別なのを見せてくれと言うと煩わしそうにし、他の店員とおしゃべりを始めた。
「じゃ最初のでいいや。展示品じゃなくて新しいのない?」
「……ない」
「じゃあ、ホコリで汚れているし、1800バーツ(当時約5800円)を1500でどう? 安くしなけりゃヨソで買うよ」
すると、彼女(彼?)の目の色が変わった。その場を去って探すこと5分、同じモデルの新品箱入りを持ってきた。「おい、探せばあるじゃないか」と不平を言うと、平然と「1800バーツでーすっ!」だと。なんかやるせない。
国民性の違いと言えばそれまでだが、もっとうまく出来ないものか。世界にはもっと巧者がいる。後で「どうも、だまされたかも」と悟るのだが、買った時点では「非常に良い買い物をした」と思わせるテクニックを持つ商人がいるのだ。
それがトルコ商人だ。筆者はカネがないくせに、イスタンブールに行くと絨毯(じゅうたん)を買ってしまう。「今回こそは絶対に買わない!」と固く決意していても、店を出る時にはなぜかワキに丸めた絨毯を抱えているのだ。まったく不思議で仕方がない。
店主が客を店内に招き入れ、チャイ(トルコ紅茶)を振る舞うのは、礼儀上も当たり前のこと。客としても、これくらいではそんなに大げさな恩義は感じない。
次に、棚に丸めて詰め込んである、ありとあらゆるデザインと素材の絨毯を、次から次へと何枚も何十枚も広げて説明に入る。日本人客の「申し訳ない心」はここでいたく刺激されるのが、これも「絨毯屋とは、そういうもんだ」と思えば何とかしのげる。
いやいや、もっと巧みなのだ。生まれて初めて絨毯を買ったイスタンブールの店では「大学で絨毯学の講義をしている」という店主がいた。チャイを飲みながら、まずはレクチャーが始まる。
トルコでは「昔、若い娘は自分で織った絨毯を持参して他家に嫁いだ」と言い、「ここの縁を彩る水色の唐草的な文様は〝ウオーターライン〟と言ってね、水=生命とお金がいつまでも豊かで、平和な家庭が続くようにとの願いでデザインしたんだ」などと柄・文様の意味を教えてくれる。
別の一枚を広げて「ここに人の形を織っているだろ、これは『本当は別に好きな人がいる』という意味だ。イスラム世界では非常に珍しく、とても貴重な絨毯なんだ」——。
1時間、2時間と聞いていると、だんだん自分でも絨毯の目利きができるようになった気になってくるのだ。そうして客が「自分で価値が判断できる」と思わせるのがコツなのだろう。そのタイミングで店主は、
「これは珍しい柄だ。君なら価値が分かるだろう」と持ち掛ける。
「ああ、これはいいモノだね。でも高いだろうから買えないよ」
「君なら特別に500ドルにしてあげるよ。やはり違いが判る男にこそ、この貴重な絨毯を使ってほしいんだ」と持ちかけるのだ。
……誰が断れようか。
別の店でも、この「自尊心くすぐり系」が非常に巧みで、つい買ってしまった。常に2枚同時に広げ、どっちが好きかではなく「どちらの柄が優れている?」と聞くのだ。
こっち、と右を指さすと、「さすがは長い歴史を持つ日本人だ。分かっている。ちなみにアメリカ人はみんな左を好む。ヤツらは歴史が浅くて分からんのだなぁ~」的な畳みかけ方をしてくる。これも2時間近くやられると、だれもが自分はすごい目利きになったと勘違いする。
最後に「おお! さすがは日本人。トルコ人の心をよく理解している。友よ、君にはこの価値のある絨毯を特別価格で売らせてくれ」となる。
……だ、誰が断れようか!
ちなみにこの時は、良い買い物をした満足感でメシまで奢(おご)ってしまったのだから、我ながら情けないほど「良きツーリスト」だったと思う。
タイ人もこれくらいの「技」があればとも思うが、想像すると一段と疲れた生活になりそうで、なんかイヤだ。でももう少し愛想良くできないものか。タイを「微笑みの国」だなんて思っているのは、ほんと今や少なき「良きツーリスト」くらいなものなのだから。
(初出:フリーペーパーweb「泰国春秋」2009年8月15日号)
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