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世界に名前をつけること




つまり、現実世界でもサイバースペースでも、
人間の摩擦とそれを修復しようとする努力の中に、
その関係性の深いリアリティが成立する、ということだ。
〈私〉という存在の出発点は「弱さ」と「脆さ」であり、
そして、他者とのつながりは、突き詰めると、
自分ではコントロールできない「どうしようもなさ」から始まる。
それを引き受け、受け止めることが関係性の起点になるのだ。
――――〈私〉を取り戻す哲学 岩内章太郎 239頁


▼▼▼書くことについて▼▼▼


いつ頃からか、
僕はいつも何かを書いてきた。
これからも書くだろう。

書くということは僕の生き方のひとつになっていて、
それは根源的なところと結びついている。

それが何かということについて、
時々、考える。

前にも書いたことがあるけれど、
僕が書くのは、
書くことで、自分が何を考えているのかを知りたいからだ。

「考えたことをそのまま書きなさい」
「頭にあるものをそのまま書くのです」
というのは作文指導・文章指導の常套句だけど、
実はそれは間違っている、と僕は思う。
僕たちは、書くまでは、
自分が何を考えていたのか知らないのだ。

書くことで、僕たちは、
自分の思考の深海にまで沈潜し、
自らの思考を「発掘」するのだと思う。
海底調査団が珍種の深海魚や海賊船の金塊を見つけてくるように。

じゃあ、なんで僕はそんなにも、
自分の思考の奥深くに潜っていきたいと思うのだろう。
なぜ、それが知りたいと思うのだろう。

それは「摩擦」みたいなところにあると僕は思っている。

僕はいつも世間とズレている。

世間の当たり前が自分にはまったく当たり前と思えず、
自分の当たり前は世間では異形に見えている。
この「ズレ」は「摩擦」を生む。
このズレ・違和感・摩擦を、
僕はずっと喉の小骨のように、
残しておくことができる。

この「気持ち悪いものを気持ち悪いままにしておく」
という能力において、わりと僕は人よりも長けている。
普通の人なら、それらを「呑み込む」ことで、
世間とのズレを解消し、気持ちよくなるほうを選ぶ。
「まぁ、そういうもんだろう」と。

僕の悪徳でも美徳でもあるのだが、
「しつこい」というのがある。

そう、僕は「しつこい」のだ。

いつまでもそのズレや摩擦や違和感を、
身体にとどめておくことができる。
長いときは10年以上もとどめておく。

そのズレや摩擦は、
ストレスが原因でアコヤガイの内壁に真珠ができるように、
いつか「言葉」を生む。
その言葉を、僕は深海に潜って取りに行くのだ。
僕は「言葉の海女さん」なのだ。
(調べたら男性の場合、海士さんと表記するらしい)

最近知ったけれど、
この能力には名前がついていて、
「ネガティブ・ケイパビリティ」というらしい。

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