泳ぐ女(短編小説;5,500文字)
湯船に身を沈め、目を閉じた。
(こうやって、誰にも気兼ねなくゆっくりできるのって、やっぱりいいな)
── 妻の言う通りだった。
入籍後も同棲時代と同じアパートでいいじゃないか、というぼくに、
「銭湯通いはもう絶対に嫌! 風呂付のアパートに引っ越すんじゃなきゃ」
その代償として、かなり郊外に引っ越さなければならなかったが。
息を止め、頭をゆっくり湯に沈める。
鼻まで沈めたところで目を開いた。
── おや?
《水平線》上で、何かが動いている。
白い ── 細い指?── のようなものが湯面に繰り返し突き出している。赤っぽい糸の塊り?── も上下している。
ぼくは静かに、顎まで浮上した。
《それ》は、長さ10 cmに満たない《ヒト》のようだった。
水しぶき、いや湯しぶきを上げながら、浴槽を右から左に移動していた。
── 泳いでいるのか?
腕?の使い方は、《クロール》と見えないこともなかった。
けれど、腕?── が水面を出入りする目まぐるしい頻度に比べて、右から左への移動速度は、あまりに緩慢だった。
── 溺れているのか?
ならば、と思わず両手で掬い上げた。
「%#*¥$#&*!」
手のひらの上で、つるりとした感触の《それ》は跳ね上がり、小さな拳を振り上げ、意味不明の、けれど明らかに抗議の声を上げた。
赤い髪、ふくらんだ胸、そして、ゆたかな腰つき ── サイズは小さいが、人間の女の ── 成熟した女の相似形だった。
胸にはピンクの《点》が、下腹には赤い《糸くず》が。
── 何も身に着けてはいない。
あわてて手を離すと《それ》は湯の中に落下し、本当に溺れたようにあがいた後、再び泳ぎ?始めた。
クロール?── で浴槽の左端に手が届くと、今度は背泳?── で左から右へと戻り始めた。
背泳ぎはクロール以上に《溺れている》ように見えたが、また怒鳴られるのが怖く、ただ見ていた。
やがて《彼女》は浴槽の右端に達し、ターンしてクロール?に戻った。
── 大丈夫かな?
── 疲れ果てて、本当に溺れやしないだろうか?
《彼女》はひたすら、全力で泳ぎ続けているようだった。
気のせいだろうか、ターンを重ねる彼女は、少しずつ、ほんの少しずつだけれど、速さが増しているように思えた。
── 正直に言おう。
彼女がクロール?で泳ぐ時はふたつのお尻のふくらみを、ターンしての背泳?ではふたつの胸のふくらみを、ぼくの目は追っていた。
「どうしたの? 今日は長湯ね」
突然すりガラスがあき、妻が顔を出した。
「うわ、びっくりした!」
妻を見て、そして浴槽に目を戻すと、もうそこに ──《泳ぐ女》の姿はなかった。
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