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父の死を改めて振り返る

 2021年7月1日。この日は僕にとって、本当に僕だけにとって特別な日となりました。それを説明するにはあと2つの年月日を示さなくてはなりません。1つは1995年10月17日、僕の誕生日。もう1つは2008年8月23日、父の命日です。僕が中学1年の時の夏の終わりに、病気を患っていた父は長い闘病生活の末、横浜市内の病院で帰らぬ人となりました。始めにお書きした日付以降、僕の人生において、生まれてから父と過ごした日々よりも、父がいない日々の方が長くなったのです。その日を境に身体的、精神的に目に見える変化は特にありませんでしたが、父がもうこの世にいないということを改めて感じ、父と過ごした記憶が段々と薄れていき、家族揃って一家の団欒を過ごしたことが遠い昔の思い出になりつつあることを認識したのです。

 僕の抱いていた父の印象は、「優しくて面白い」というものでした。父が自分の趣味を僕にも教え込んでいたため、特撮や地理歴史、鉄道の話で会話が弾んだのが大きな理由でしょう。ウルトラシリーズの平成三部作にハマり、僕以上に仮面ライダー龍騎のTVSPを楽しみにしていました。地図帳を挟んで談義したり、相鉄のスタンプラリーを一緒に楽しんだこともありました。車も好きで、僕は両親と妹の4人家族でしたが、休日には横浜市内を中心に色々な場所へドライブに連れていってもらいました。ショッピングモール、遊園地、スーパー銭湯、映画館・・・。僕の幼少期の「家族の楽しい思い出」を形作った、正にその中心が父だったのです。
 そんな父が病魔に冒されたのは2005年の8月下旬でした。数日前まで家族で旅行へ行っていましたが、その時から「体がだるい」と母に訴えていたのを覚えています。家に帰ってからは、夜中に父と母は近所の総合病院へ向かっていました。翌朝、起きると父の姿はありませんでした。朝食を食べながら母から「父が入院した」と告げられました。行った病院では医師が血相を変えて、もっと設備の整った大きな病院で治療を受ける必要があると判断し、そこに向かうことになったのです。僕はその時「入院」というものは1泊2日程度の簡単なものという認識でしかありませんでしたが、母がすすり泣きをしながらそれを話しているのを見て、「父は何か大きな病気に罹ったんだ」と直感的に理解しました。仮面ライダーを見ながらの、夏休み最後の日曜日でした。
 父の罹った病名は慢性骨髄性白血病でした。血液中の白血球が異常に多く作られ、「血液のガン」とも言われる難病です。医学に少々精通している母だからこそ、その病気の重大さが分かり、涙したのでしょう。夏休みが明けてからは、僕と妹は週に1度か2度、病院へ行くのが日常になりました。電車とバスを乗り継ぎ、病院へ着いたら父と会話をし、時々最上階の展望スペースにて売店で買ったアイスを頬張る、そんな午後を過ごしていました。秋も冬も春も、同じように。
 母は仕事が終わるとほぼ毎日病院へ行っていました。父が所望する食べ物や漫画を買ってきてあげたり、夫婦同士でしか話せないことを沢山やり取りしたのでしょう。母の帰宅は遅くなるため、夕飯はいつも20時前後になっていました。献立としてはオリジン弁当やスーパーの惣菜がやはり多くなっていましたが、小学生だった僕としてはそっちの方が嬉しい思いをしていた記憶があります。
 父の入院生活は3年ほど続きましたが、年に1度か2度、一時帰宅が許可されていました。大好きな父が家にいる。そのことが僕にとってはとても嬉しく、帰ってくる日の学校の帰り道は胸が弾む思いでした。学校での出来事やテレビ番組の情報を共有したり、とにかく父と共通の趣味を語り合ったり、家族4人で食卓を囲うことが好きで好きで仕方なかったのです。学校が休みの日は以前のように車で出かけて、また新たな「思い出」が創られていきました。僕の小学校の卒業式にも車椅子に乗りながら駆けつけてくれ、人生の節目を共にすることができました。

 ただ、入院2年目や3年目の頃になると、一時帰宅した時も病状がそこまで改善していない時もありました。そういう時、父は今までとは違い不機嫌であったり、些細なことで嫌な気分を露わにすることが増えてきました。僕が家に鍵を忘れて中にいる父に開けさせたり、食器洗いを忘れていたりすると、だるそうな態度を表に出し、僕に怒りの矛先がぶつけられました。僕に非があることですし、父の容態を考えれば仕方のないことですが、これまで見たことのない父の態度に大きなショックを覚えました。そして、ほんの一瞬ですが僕にとって父が「煩わしい存在」になったのもこの頃です。嫌いにはなりませんでしたが、以前とは変わって腫物のような存在に父は僕の中で変貌していました。
 そうした状況の中で2008年8月8日、父は「最後の入院」をしました。

 世間が北京オリンピックに熱狂していた頃、父はまた病院へと向かいました。「煩わしい存在」が家からいなくなり、安堵してしまった自分がいました。またしばらく入院した後、一時帰宅するか本退院だろうとその時は高を括っていました。しかし病魔は、父の体をもう取り返しのつかない所まで蝕んでいたのです。
 夏休み終盤の8月22日、病院には僕と母と妹、そして僕の祖父母と叔父、つまり父の両親と弟が集まっていました。僕と妹はこれまでと同じように病院内を過ごしていましたが、大人達は何やら深刻そうな面持ちで会話をしています。会話が終わると、「私達は今日ここで寝泊まりするから」と母は言ってきました。妹と2人で帰路へ向かおうとすると、母は何かを察している様子で「覚悟しなきゃいけない」といったことを僕に告げました。その時、入院前に父が言ってきたあることを思い出しました。自宅のリビングで「俺がもし死んじゃったら家族で男がお前1人だけになるから、ママや○○(妹の名前)をちゃんと支えていくんだぞ。○○君や××君みたいにお父さんがいない子だって結構いるんだから、そこまで悲観せずにこれから頑張っていけよ」と。父は既に自分の行く末を理解していたのかもしれない、遺言を僕に遺していたのかもしれないと思いが頭の中を駆け巡る中、「遺言になってたまるか」と強く願ったのです。「煩わしい存在」などと切り捨てた自分を悔やみ、父の無事を切に願ったのです。
 翌日、お昼頃に僕らはまた病院へ行きました。タクシーを呼んで向かいましたが、現地に着いた時、会話の中で「父が入院している病院へ向かう」ことを知ったタクシー運転手のおじさんが、僕達に100円玉をくれました。「99(苦苦)を乗り越えるって意味があるんだ」と笑顔で教えてくれ、それを受け取って父のいる病室へ行ったのです。

 父はぐったりとしていました。院内で寝泊まりをし、神妙な顔をした母と親戚一同が中にいて、父と静かに、ゆっくりと会話をしていました。体に多くつながれた点滴、心拍数を示すモニターと、もはや見慣れた光景でしたがこの時ばかりは僕を何やらゾクっと不気味な気分にさせました。
 夜6時頃、父の容態が悪化していきました。心拍数に異常が発生し、当時の僕はよく分かりませんでしたが、モニターに映った様々な数字も「減ると危ない」という事は理解していて、周りの様子も相まって「父が危ない」ということはすぐに分かりました。主治医がかけつけるまでの間、僕らと看護師は必死に父を助けようと努めました。主治医が到着し、父の容態を診て処置を行なっている間、僕も脚などのマッサージを行なっていました。そこから先は、周りの人達が何をしていたのかはあまり覚えていません。僕は必死に見ていました。沢山の数字の書かれたモニター、父の体、そして顔を。僕らに何かを言いたそうに、必死に顔を上げようとしていました。しかし、父の体の力は次第に失われ、目が閉じていきます。

 「午後8時11分です」。主治医は時計を見て僕達に告げました。父は口をポカンと開け、動かない。医者が時刻を告げた、父が動かない、つまりそういうこと?ドラマとかで見たあれのこと?僕の脳内は忙しく、しかしシンプルに状況を理解しました。瞬間、僕は椅子に座り泣き崩れました。13年間の父との思い出が走馬灯のように頭を錯綜し、あまりの出来事にただただ涙を流していました。母も僕の肩に手を添え「大好きだったもんね...」と寄り添ってくれました。落ち着いてから息のしていない父の所へ行くと、父と骨髄移植をした叔父が「不思議だよな、死んでもまだ血は流れている」と言いました。人の死を間近で目撃し、その現実に目が回りそうでした。
 母は前々から連絡を取っていたと思われる葬儀社へ連絡をしていました。暫くしてからその葬儀社の担当者がやってきて、遺体となった父を霊柩車へ連れていきました。その夜、僕ら家族と親戚一同と、霊柩車が自宅へ向かい、今後のことについてのお話がありましたが、何を話されたかは全く覚えていません。
 翌朝、起きると夏とは思えない涼しさを感じました。8月下旬の特徴的な、急に涼しい日。リビングへ向かうと、いつもは開いている、隣の部屋とを仕切る襖が閉まっていました。中を見ると、冷房が異常に効いていて、とても寒い部屋になっていました。そして床には布団に寝かせられ、表情を整えられた父の遺体がありました。僕は初めて人の「死体」を触りました。冷房もあってかとても冷たく、しかし温度以外の感触は人間そのものというギャップが不気味でした。中学生特有の好奇心もあり、今度は閉ざされている目を指で開けてみました。その瞳は薄くグレーがかっていて、本当に「死んだ目」をしていました。
 お昼頃、母が葬儀社に電話をしていました。行われる予定の葬儀の打ち合わせをしていたのでしょうが、父が生前どういう人物だったのかを話している時、途中言葉に詰まって涙を流していました。数日後、横浜市郊外の斎場で葬儀が開かれることになりました。

 斎場は非常に大きく、グレーを基調として現代建築のような綺麗な場所でした。通夜までの時程や控え室の様子などはよく覚えていません。通夜本番では、沢山の人が駆けつけてくれました。親戚一同を始め父の友人、職場の人、母の知人、僕の友人や同じクラスの生徒、担任の先生や小学校でお世話になった先生方、妹の友人・・・。次々にお焼香を上げに来る人々を横目に、僕は微動だにせず座っていました。式が一通り終わると、人々は思い思いの時間を過ごします。式の最中もそうでしたが、僕は不思議と「悲しさ」よりも、いつもそんなに話さない中学校の知り合いが僕のために斎場まで来てくれたり、母が旧友と抱き合って泣いていたり、普段会うことのない父方の親戚と母方の親戚が”共演”したりしている、「非日常の嵐」にただただ圧倒されていました。僕も仲の良い友人と会話をし、その日は終わりを迎えました。そして次の日、告別式を終えて僕は父と「お別れ」をしたのです。

 以降は、休んでいた夏休み中の部活にも復帰し、無事に夏休み明けは登校することができました。父の死に対する悲しみは、看取った時と葬儀で出し切ったため、周りの友人に気遣われることは嬉しかったですが、僕に必要なことではありませんでした。四十九日の法要を終え、やがて父の墓が近所に作られ、僕も心身共に「日常」へと戻っていきました。こうして僕は今まで生きてきましたが、父の死を強烈に思い出すある出来事が、それから7年後に起きました。2015年8月、僕の祖父、母の父親が亡くなったのです。訃報を聞いた時は、僕は家族3人で出かけている最中でした。介護施設に入所し、あまり先は長くないだろうと思っていたたため、3人共泣き崩れるようなことはありませんでしたが、帰りの車の中で、母はとても悲しそうな声色で「あんた達は強いね」と運転しながら呟いていました。そうか、僕は自分の親よりも先に「親の死」を経験したんだ。7年前の父の死が思い起こされ、今の母の心情を察することができました。それと同時に、誤解を恐れずに言えば、僕は幸運だとも思いました。父が亡くなったのは僕が中学1年生の時。父に関する思い出は数多くありますが、それでも13年弱しかありません。自分の精神が未熟な時に親の死を経験して、精神的に強くなったのは恐らく間違いないでしょう。それを考えれば、僕はある意味で幸運でした。母はと言えば、自身が大人になってからも関わりがあり、40年以上の付き合いがある父が亡くなった訳ですから、僕が感じた「悲しみ」と単純を比較をするのはナンセンスでしょう。
 そして僕は怖くなりました。いつか必ず来る「母の死」に、です。父が亡くなってから女手一つで僕と妹を高校、大学まで進学できるくらいに環境を整えてくれて、今は実家に帰って別居していますが定期的に会って「家族の時間」を過ごしています。どんな原因であれ、そんな母が亡くなったら僕は立ち直れるのだろうか?と不安に思うのです。先程お書きしたように、父が亡くなった時は僕は精神的に未熟で、嵐のようにさっと月日が過ぎていきました。しかし僕の人生における苦難を何度も助けてくれた母が亡くなったらどうなるのか?もし仕事のストレスと重なったら?なんていう事を時々思うのです。しかし、それまでに僕が出来ることは、「看取ってあげること」だということも理解しています。父が亡くなった際、父の母親である僕の祖母は「親より先に死ぬのは最大の親不孝なんだよ」と言っていました。そうならないためにも、僕は毎日を必死に生きているのです。

 冒頭で述べたように、今年の7月1日をもって、僕の生涯の中で「父のいない日」の方が長くなりました。今や父の肉声すら忘れかけてしまい、親が1人しかいない現状には完全に慣れています。亡くなってから今年で13年となりますが、僕の中で最大の心残りがあります。父と盃を交わせなかったことです。父とお酒の入ったグラスを片手に、大学のこと、仕事のこと、恋愛のこと、結婚のことといった話題を赤裸々に愚痴ったり談笑することが出来なかったことがとても残念です。そんな事を空想するだけで、胸が詰まって涙しそうになります。自分を子どもとして接する父しか知らないため、そういう空想はすればするほど想像だけが膨らんでしまいます。もし今も生きていれば今年で56歳になりますが、自分の職場の上司や役職者に近い年齢の人が多くいて、「生きていたらこんな感じだったのかなあ...」と感傷的になることがあります。存命だったら僕の高校・大学生活や各節目の進路もまた違っていたのかもしれませんが、今も時々夢に出てくるくらい、父の存在を欲している自分がいるのです。

 僕もいつかは向こうへ行きますが、その時はまたまた他愛もない話をしましょう。話したい事が山ほどあります。お酒を片手に、くだらなくて最高に面白い話を沢山沢山話しましょう。


2021.7.2

 

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