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怪獣

波のような音がきこえる。
目の前が真っ白になって、全く人々の表情が見えない。
遠く連なる光。
ライトはものすごい光で私を照らしている。
途端に緊張が解けて、その時いつも、光はこんなに眩しかったっけ、と思う。
その時間が、本当に好きであった。

無機質なリズムが赤く点滅している。
夕闇に浮かぶビル群のたくさんの光を背景に、左右から電車のライトが次々に近づいてくる。
東海道線はいつもとんでもなく人が詰め込まれていて、見ているだけで不快感が込み上げる。
黄色と黒のしましまのバーの前で、学校帰りの高校生と、スーパーの袋を下げたおばさんに挟まれて、一斉に風を浴びた。
電車が通り過ぎた後の静寂に、カレーの匂いがした。

人混みを歩いていると、酔ってしまいそうになる。
あの男は部下の働きに腹を立てているところかもしれない。
あの女はディオールのバッグを下げて、良い気分かもしれない。
この大量の人間が、それぞれに自己を持っているだなんて、考えただけで目眩がする。
人々の思念やその顕示が渦をまいている。
みんな平凡なふりをしているのに、平凡なんかではないと思いながら、他人を平凡であると見下しているのを知っている。
私だってそうだからだ。
一体みんな、何者なんだろうか。
何を是として、何に意義を見出しながら生きているのだろうか。
早々と歩く彼らは、確かな足取りで己の帰る地に向かっているように見える。

紺色を深めた空を眺めると、駅からの帰り道は、砂漠になる。
ビルや家などの大きなものが、砂つぶと同等なものになり、むしろ地表が平らかにすら思える。
道のない荒野を果てしなく彷徨っているのだ。
家の場所が分からないというわけではないが、かと言ってどこに帰るべきなのか、よく分からない。
本当は、求めた地が遠く存在していることを知っている。
しかし私の足はもう、どうしてもその地へ向かない。
近づくと必ず嫌いになることを知っているからだ。
それに打ち勝つほどの強さを、私は持っていないのだ。
月の光を波に演じる砂漠は、果てしなく美しくて、厳しい。
確かなことなど一つもない広大な自由のなかで、一体何を選択しろと言うのだろうか。
私を包囲する地平線のまんなかで、もう動けないな、と思って座り込む。
どうして、砂漠の中心で波のような音がきこえるのだろうか。
疲れきっているのだ。
時々、知らない大人が通り過ぎる。
若いから、なんでもできるね。
若いから、なんでもできるね。

家に着いて、生暖かい空気を吸った時、簡単な方法を思い出した。
たとえばそこには誰かが住んでいるのである。
誰かは暗い部屋のベッドで眠ってしまっていて、私が玄関を閉める音で目を覚ます。
起き上がった誰かの寝癖が酷いので、私は怪獣みたいだ、と笑う。
怪獣も笑う。
明るいうちから寝たのだろう、カーテンがレースカーテンのままだ。
マンションや街灯の光が、レースカーテンを挟んで暗闇にぼんやりと白く滲んでいる。
遠く連なる光。
この光景を知っている。
脳内に喝采が遠くきこえる。
これによく似た窓を眺めて、ものすごく泣いた数年前の夜を私は忘れない。
それを考えないようにして、厚手のカーテンを閉めて、電気をつける。
怪獣がお腹を空かせているから、夕食の準備をする。
そっちは休みだったのに、まあいいか。
こうしているから、怪獣は今夜も私を優しく撫でる。
構造として、一時的に、怪獣は私だけのものに成り、私は怪獣だけのものに成るのだ。
そしてこの部屋が、一時的に私の帰る地となる。

カットサラダ、トマト、ブロッコリー、森の情景。
鶏の唐揚げ、豚キムチ、鮭フレーク、動物たちの謝肉祭。
フライパンが波のような音を立てた。
いただきます、ジュ・トュ・ヴ。
おいしい、ブラボー。
簡単なことだな、愚か者ども。

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