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ロケンロール

2019年4月3日。桜が舞い散るころ、青山葬儀所に出向いた。内田裕也さんのロックンロール葬に、縁あって私も招かれた。ミュージシャンや俳優と、参列する面々のかぶくさまを予想し、それなりに対抗しようと、衣装に気張った。20年前に買ったエルメスの古着で、黒いロング丈の革コートを羽織って参列した。

ミスターロックンロールと異名をとった内田裕也さんは、2019年3月17日、79歳で死去した。さかのぼること、その約10年前に一度だけ「ロングインタビュー」をしたことがある。朝日新聞の土曜別刷りbeの企画で「大阪で生れた女」を取り上げた際に取材したショーケンこと萩原健一さんからの連なりで縁ができた。

「大阪で生れた女」が世に出て、ヒット曲となったのは1979年。作家でも歌手としても関わっていないが、まぎれもないキーパーソンが内田裕也さんだ。まず、このうたを大阪で見いだした。1977年の暮れ、大阪、北新地でギターの弾き語りをするBOROこと森本尚幸さんの姿を内田さんは客席から見ていた。歌うさまも酔客に野次をとばされて睨み返す態度もじっと見ていた。1960年代のグループサウンズ時代に京都にいたタイガースを見出して全国デビューに導いたこともある名うてのプロデューサーでもある内田さんはBOROを客席に呼んで矢継ぎ早に質問した。「いい曲だな、オリジナルか」「持ち歌は何曲あるのか」「東京に行きたいか」。

歌手としてのBOROに、うまい下手じゃない何かしらの意気を感じた内田さんは、「イケる」と思った。ロックともフォークとも違う独特の味わいがある「大阪で生れた女」。「あれはストリートミュージックだよ。あるいは関西人にしか作れぬブルースさ」。大阪にこだわったこの歌を世に出して、全国ヒットさせるには起爆剤が必要となる。起爆剤に選んだのが畏友ショーケンだった。年齢は下だが、ショーケンのことを「あいつはただのアーティストじゃねぇ」と内田さんは踏んでいた。

「ハギワラ―、聴いてみてくれよ」。「大阪で生れた女」のデモテープを渡されたショーケンはすぐに気に入り「裕也さん、オレうたうよ」と答える。ショーケン版の「大阪で生れた女」は本家のBOROより3か月早い79年5月にシングル発売された。この歌の人気は、東で火が付き、西ではじけた。裕也さんの読み通りだった。

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取材の裏話を挿入しよう。このストーリーを書き上げるには、キーパーソンの裕也さんから直接話を伺わないと成り立たないと思い、取材申し込みを早い時期からしていた。だが、インタビューのアポイントがなかなか取れなかった。構想はできていても、美は細部に宿るから、細かいところまで裕也さんに語って欲しいので度々問い合わせたが、締切近くになっても、色よい返事が届かなった。

裕也さんは礼儀を大切にする人、と友人から聞いていたので、きちんとあいさつをするため、前年の大晦日に開かれた裕也さんの行事「ニューイヤーズワールドロックフェスティバル」に、一升瓶を持って顔を出してもいた。うーん、困った、時間切れかというタイミングであきらめかけたころ、マネージャーから電話が入った。「すいません、あすの午前、20分しか時間がないのですが、それでもいいですか」。もちろん飛びついた。

翌朝、指定時間の30分前に、渋谷にあるセルリアンタワー東急ホテルに、一人で赴いた。裕也さんが一人ですでに待っていた。先に着いていたことにも驚いたが、顔を合わせたときの温和で落ち着いた表情が嬉しかった。何かいいことが起きる予感がした。カメラマンもマネージャーもいない。差し向かいがよかった。

インタビュー時間は20分しかない。腕時計を外してテーブルに置いた。集中して聴くために、録音するのをやめた。滑りのいいサインペンでノートに殴り書きするぞ、と腹の中で決意し、インタビューの骨子を手短に伝えた。裕也さんのシャープでよどむところのないしゃべりがはじまった。リズムも歯切れもよく、かんどころも外さない。ロッケンロールがロケンロールと聞こえる転がるようなしゃべりもいい。聞きほれてしまう。

あるタイミングで、裕也さんに気づかれないように時計を見ると1時間が経っていた。裕也さんの話がとまらない。心で笑いながら、知らんふりしてメモを取り続けた。気持ちいい。まもなく2時間というところで、裕也さんがサングラスのまま笑みをたたえてつぶやいた。

「ハルヤマさん、あんた、インタビューうまいなぁ。聞き上手だなぁ。こんなに気持ちよくしゃべったのは久しぶりだよ」「あんたはこっちがしゃべっている間、よけいな口をはさまない。言ってることはこういうことですか、とか、まとめようともしない。気持ちよかったぜ、ロケンロール」

そう、ひたすら黙って聴いていただけなのだ。そうしたら、裕也さんに最高の誉め言葉をいただいた。後年、インタビューの秘訣を問われると、こう答えている。「相手がしゃべっている間は口をはさまない。人は気持ちよくしゃべり続ける」。

葬儀でBOROと再会した。恩人に会いにやってきた。ショーケンは見当たらなかった。裕也さんの1週間後、後を追うように亡くなっていた。

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