見出し画像

書く前は誰もが途方に暮れる。村上春樹が語っていた小説家の条件

作家・佐山一郎さんと出版の未来を語るシリーズ。今回のテーマは「書く」。書評家であり、編集者としても数々の書き手を相手にしてきた佐山さんが語る、文章論とは? 書き始めるのが憂鬱なすべての人に捧ぐ文章講座をお届けします。

書き手の個性なんて吹けば飛ぶようなもの

──定期刊行物の灯が一つ、また一つと消えています。『週刊朝日』に次いで、今度は『レコード芸術』(音楽之友社)の7月休刊が話題になりました。今やここでの定番ネタのような状況と言えますが、「文章講座」のような角度で考えた場合、どんな影響を次世代にもたらすでしょうか。
 
 あっけらかんと言ってしまうと、メジャー系週刊誌や老舗専門誌の終わりは、自分校閲時代の幕開きということになります。
 
──それはプロの校正・校閲者の目を通さずに発信されてしまうことへの危惧ですか。
 
 そうです。ネットの世界のあれやこれやを私は「不定期刊行ブツブツ」と思うことにしています。
 
──ブツブツ文句ばっかり言ってるからですか。
 
 そう(笑)。そももそも紙と違って「物」じゃないし。刊行物は物として残るから正確さが必須条件。ノンフィクション系の人ほどその思いは強いはずです。編集者と書き手が初校、再校でいくら頑張ってもやはりスペシャリストには敵いません。嫌な言い方になりますが、マイナーな版元ほど専門職の価値を端折りがちなんです。よくそんな細かいところに気づいてくれるもんだなあ、というのが、終刊間際の『週刊朝日』の書評校閲時にもありました。下手をすれば指摘した箇所が言いがかりになってしまうわけで、そりゃあもうスペシャリストとの真剣勝負です。文章講座と大上段に構えるよりも前に、まずは不用意なミスだけは避けましょうというのが、基本中の基本です。
 
──去年2月の『週刊朝日』「創刊100周年 読者の皆さんありがとう!」号は買った人が多かったです。吉永小百合さんの「独占祝福インタビュー」を巻頭グラビアに持ってきていました。それから1年以上が過ぎて、休刊までの5号ではフィナーレ企画が続きました。なんだかな~、というのが正直なところでした。
 
 どこかはしゃいでいる感じがしたからじゃないですか。有終の美とは程遠いものがありました。実態は長きに及んだ重圧からの解放みたいなことだったのでしょう。テレビでも何度か報道されて、最終号の表紙はさして見たくもない編集部の仕事風景。これもまた部数に直結しがちな表紙問題からの解放をあらわしていたのかなと。


『週刊朝日』創刊100周年の増大号(2022年2月25号)。
『週刊朝日』最終号。休刊まで5号にわたりフィナーレ企画が続いた。

──表紙にジャニーズ事務所のタレントを出して来れる編集者が重用されたりで、いろいろ賛否両論がありました。しかし、最終号に寄せた吉永小百合さんのコメント「トップが悪いんじゃないですか。100年も続いた大事な雑誌をやめるなんて」──は強烈でした。せっかく100周年記念号でエールを送ったのに、という落胆と怒りからなんでしょうね。
 
 終刊1号前の「週刊図書館」アンケート「次世代に残したい一冊(上)」では、書評についての本を挙げさせてもらいました。丸谷才一編著『ロンドンで本を読む』(マガジンハウス・2001年)を選書して、最後の1行に<……丸谷が愛した世界最古の英週刊誌『スペクテイター』(1828~)は今もなお世界水準の書評欄を堅持し続けている。>でトメてスパイスを利かせたつもりだったんだけど……。
 1951年に始まる書評欄「週刊図書館」も部数に直結しないということからだいぶ前から縮小傾向でした。まあでも、多少なりとも関わってきて言うのも何だけど、この号だけは買うぞと思うことがあまりなかった。司馬遼太郎さんを賛美し続けるなら同じだけの熱量で現役の保阪正康さんのメジャー化もしてみせるのが、プロの仕事なんですけどね。最後の最後まで繰り返された「大学合格者高校ランキング」も現状追認的で無粋な感じしかしなかった。むしろいま大学内で何が起きているかを学生、教員、管理・経営の3方向から読者は知りたいわけですよ。でもそれをやるにしても、学生寄りの記事は作れなかったでしょうね。「どうせ買ってくれないネット世代だから」の分断を前提にしていたわけだから。継ぎ足し継ぎ足しのタレで頑張れるような物じゃないんだよね、週刊誌というものは。ところが「休刊」でまず気になったのは、なぜかレギュラー執筆陣の減収問題。普通そんなことは考えないものなんだけど(笑)。
 
──それでも色々な文章やビジュアルの見本市ではありました。大善戦でしたよと、無理やり文章講座方面に話を引っ張ろうとしております(笑)。
 
 書き手の個性なんて言ったって、しょせんは吹けば飛ぶようなもの。卑近とまでは言わないけれど、文章を書く作業は、誰にでもできる身近でありふれた表現行為でしかないんです。利点は、年とってもなんとかやれるエイジレスなところじゃないでしょうかね。

プロとアマの違いがあまりないのが文章の世界

──特効薬はない、ということですか。
 
 割と最近になって小学校卒業当時の文集を読み返したんです。そしたら今とそう変わりがないんでびっくりしました。学生服を洋服と書くところのバカさ加減とか含めて(笑)。プロとアマとの画然とした違いがないのが、文章の世界と言えるんじゃないでしょうか。文章の光彩となってあらわれる微差の演出が決め手となるわけだけど、そこへのこだわりも減退しているような気がしています。日本社会全体の見事な鈍感力とパラレルです。まあ、そうは言っても、業界の先輩から文章作法のようなことを聞いたこともあまりないです。唯一、83年に村上春樹さんから聞いた話だけはインタビューのタイトルにしたこともあって、とてもよく覚えています。
 
<とにかく小説家の条件は、書き出せば書き終えるという確信です>
<『羊をめぐる冒険』を書きながら、ホロッと泣いちゃう時が二度あった> ──の二つでなかなか奥深いのがあります。
 
 これはたぶん沢木耕太郎さんの受け売りになると思うんだけど、書く前はプロであろうがアマであろうが、誰しもが途方に暮れます。問題は、その時の自分が、小学生なのか大学院生なのかということ。そこはやっぱり小学生よりは高学歴であるべきでね。だけど村上春樹さんの話だって、話を聞ける紙媒体があったからのことで、文章家を成長させる上での紙媒体は意識し続けないとまずいんじゃないですかね。匿名やハンドルネームでもオッケーなSNSには「文責」という概念がありません。あくまでも補助的かつ無責任な媒体でしかないです。
 あとほかに言えるのは常にブックライターであるべき自分を意識することぐらいですかね。別に「著書多数」を自慢する必要なんかないけど、まだの人は早く実現させて一度ゲンナリしてみることが大事(笑)。アワジマさんは、「ゲンナリ音頭」踊れますか?
 
──そんなのあるんですか。
 
 ありません。今思いついただけ(笑)。しかし初出となる雑誌が減って行くことは痛いですね。特にノンフィクション系ライターの孤立無援は持続不可能性に繋がりそうだし。
 
──ブログの課金にも限界がありそうだし、書き手には、テキストに100パーセント集中していただきたいです。
 
 ここまで来たらもうシリアスになるより副業としてやって行くほうが賢いのかもしれない。その代わり徹底的に執筆環境にはこだわる。図書館の近くに住んで、仕事机や椅子も最高のものにするとかのポジティブな思い詰め方は絶対に必要だと思います。しかしどこが文章講座なんだ、これ。
 
──こうなる予感はしていました(笑)。でも、各論より総論が必要な時ってありますから。
 
 こういう時代であるからこそ、周辺から固めていったほうがいいと思います。環境づくりといってもいいですね。装備も大切です。これから先、必要なのは「システム執筆学」のようなもの。で、この先は、長くなりそうなのでまた次回ということで。やらないかもしれないけど(笑)。

文/佐山一郎(さやま・いちろう)
作家・編集者。1953 年 東京生まれ。成蹊大学文学部文化学科卒業。オリコンのチャートエディター、『スタジオボイス』編集長を経てフリーに。2014年よりサッカー本大賞選考委員。最近の仕事に、谷口ジローコレクション29 『シートン 旅するナチュラリスト 第4章 タラク山の熊王(モナーク)』(双葉社)別冊小冊子『「紙」が語ること──谷口ジローの世界」所載エッセイ「清瀬のあとに」、『文春オンライン』「文春野球コラム ペナントレース2023」の日ハム応援コラムなど。

編/アワジマ(ン)
迷える編集者。淡路島生まれ。陸(おか)サーファー歴22年のベテラン。

本づくりの舞台裏、コチラでも発信しています!
Twitterシュッパン前夜

Youtubeシュッパン前夜ch

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?