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【小説】理想の死

風を呼ぶために開けられた
窓ガラスの片側と それが重なった
もう一枚の窓ガラス
二枚の窓ガラスの間に挟まれた
一羽の蝶
それがあの夏の私であった

青穹の奥行き 庭木の陰影 塀をゆく黒猫
それらの色彩に触れながら
それらではない物質に
私の脚の先端にある六つの点が触れていた

空腹を覚えると幅数センチの空中で
花の蜜を思い出した とりわけ好んだのは
薔薇の蜜の味を反芻することだった
風を煩さくあしらう傲慢な横顔
細い指のどれにも巻き付けた棘
美貌の盛りを過ぎた頃に溢れる
しつこい程の色香
その味には一度知ったら
深追いせずにはいられない
毒があった
私の世界から消えた薔薇に耽るあまり
ヒトに風を与える空間が
この牢を形成しているという事実に
思い至ることが適わなかった

やがて窓が閉じられる時が来た
私は窓の内側に取り残された
■■■■ニワタシ達ハ殺サレル・ヒトリ残ラズ
不穏な文句が灰色の空を行き交った
閉ざされた窓の向こうでは ヒトの斃れた山を
蕩けたアイスクリームのように蝿が旋回している
二枚のガラスの内側は日に日に寒くなり
一家は菓子ばかりを食事とした
窓から見える建造物のように瀟洒な姿の
この嗜好品が彼らの種族にとっての
残された唯一の餌であった
一家はとうとう希望から最も遠い喜びを語り始めた
シェルターニ避難シテ良イト許可ガデタ
順番ガヤット回ッテ来タ・先ニ避難シタ
誰カガ死ンデクレタカラ
ささやきを聴いた少年は大人に問うことを諦めた
〝ほんとうにシェルターに■■■■はやって来ないの?〟

雲の厚い街を少年は見つめていた
半地下へ続く幾つかのシェルターの入り口には
動かなくなったヒトビトが身体を半分ほど出し 
薪のように詰められていた
少年の姿がうすく映る窓ガラスに
その意図もないのに私は
接吻のように翅を触れていた
少年の影が動き 窓ガラスが再び開かれる
大人達は驚きのあまり叱ることすら忘れていた
翅を摘ままれ ついで手のひらに包まれた
何か問いたげな気配の大人達に少年は答えた
「逃がしてやるんだ」
朗々とした声に押された大人は教えることを諦めた
〝ドコヘ逃ゲテモ、イズレ死ヌノニ〟
私を包む一瞬の闇が拓かれると 
この身体は空の高みへ放たれた 
一度だけ深く沈み窓を覗くと
一つだけ持っていくことを許された鞄に
大人が菓子を詰めこんだ

私が飛ぶことを忘れていても
この翅はそれを忘れていなかった
狂ったように空を叩いた
溺れるように空を漕いだ
歓びはあまりにも熱く怒りにすら似ていた
事実 私は憤っていた
世界が今更こんなにも広かったということに

街を抜けると 夏の大気が私を包んだ
大きくて暖かで眩しい大気だ
自然はなにも変わりがなかった
ただヒトがいないだけだった
兎が耳をそばだて叢に駆け込んだ
牛の群れが足音を轟かせて走り去り
雲の影がその先頭を追い越していく
気を取られていると私によく似た蝶と
ぶつかりそうになる
私が薔薇の毒を思い返していたあの夏
人間はより強力な毒を自らの為に
作っていたようだった

空腹だった
カラスノエンドウの野原が見えてきた
以前なら目もくれない雑草だった
仕方ない その花に脚を置き口を挿し込む
蜜を吸い上げた瞬間 不覚にも震えていた
マメ科特有の青臭い蜜の味 
気に入らない筈なのに夢中で貪り続けていた
花から花へと私は移っていた
この青臭さは大地そのものの味だった
私の口がカラスノエンドウの根から
大地を吸い上げていることを確実に感じていた
見渡せば野も森も 空も小川も
青に満ち 青に揺れ
私の口の先から翅の端まで
黄金色の蜜が行き渡っていた

窓の開く音がした
重たい窓だった
それは私の羽ばたきの音だ
空は先程より重量を増していた
抗わず だが流されず
着実に空へと櫂を潜らせる
私は生涯忘れないだろう
この日の大地の味を
そして
自らの種族が滅びるというのに
別の命をたすける生物が
かつてこの大地に存在したことも



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