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「ワクチンを打つ、それは境界線をまたぐこと」 | エッセイ

先日、ワクチンを打ちました。

そしたらなんと、注射器が刺さるその瞬間に予期せぬ思いや感覚が体じゅうを駆け巡ったので、そのときは言葉になるものだけメモしました。

後日、夏学期に取っていた「Dwelling in the Anthropocene(人新世における棲みつき)」という環境人類学系のセミナーの期末課題で短いエッセイを書くことになり、このときのワクチン体験とセミナーでの学びを織りまぜつつしたためてみました。

以下は、そのエッセイの冒頭部分を日本語訳したものです。最下部のPDFから英語の全文を読むことができます。

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「ワクチンを打つ、それは境界線をまたぐこと」
(Getting vaccinated is a mode of crossing)

左腕の裾がめくり上げられ、裸の上腕に向かって注射器の針が向けられたとき、僕は病院の部屋のその真っ白い天井をみつめていた。意識がどこか遠いところに飛んでいくのを感じた。いくつもの状景が走馬灯のように僕の横をかけてゆく。ニュースのレポーター、PCRの検査センター、病室、嘆き悲しむ家族。どれもここ最近、ウィルスが野火のように広がるようになってからはすっかり見慣れた光景だ。でもその猛威の犠牲者となった人が身の回りにいないせいか、この惑星規模のパンデミックとやらは僕にとってはただの状景でしかなく、実体のない漠然としたものだった。それがあの病院の一室でワクチンを打った瞬間、まるであの注射の液体が作動させたかのように、具象的で確かに存在するものとしてはっきりと顕現したのだ。一体なぜだろうか?

それはきっと、ワクチンを打つことが一線をまたぐことだからだろう。注射の針が僕の左上腕の皮膚をチクリと突き刺したとき、僕の腕、そして体の”端”は、実体のある隔ての輪郭線として発現した。人工の物体が一つの肉体に入りこみ、その入口となった左腕という存在が突然前景化され、舞台の中央に立ったのだ。「境界とは、あるものがその性質を開始するその一線である」(ハイデガーから引用)。僕の体の”端”は、その開始地点を印づけた。子どもの頃からいつも、注射器は僕の中に身を切るような不安感を引き起こしてきたが、今回の接種でその理由が判明した。細くて先の尖った金属片が人間の皮膚を貫くとき、僕の内側と外側、僕の主体性と他のものの客体性、そして前景と背景は徐々に溶け混ざり、その崩壊と同時に浮き上がってくる不気味な境界線の存在とそれを日々塗り固め、維持しようとする力学の存在に気づかされるからだ。僕らの諸世界の境界線を引き、それが崩れそうになるとまた持ち上げ支えようとするこの力学のフォースは、人間と人間以外の隣人が距離と関係なく引きこまれている「もつれあい」から生じている。こうしたもつれあいとイントラアクション(哲学者カレン・バラッドの概念)こそが、現在僕らが生きる地質学的な時代の中核を構成しているのだろう。

そう、これはつまり境界線をまたぐ行為であるワクチン接種の物語であり、それら諸境界線の不安定性や不確実性、多孔性がいかにしてこんにちの人間のエコロジカルな実在の条件を指し示すのか、それを追う物語である。デボラ・バード・ローズのいうように、物語のようなスロー・ライティングは、人新世の時代によりふさわしい思考と対話の方法として一種の”解毒剤”となりうる。「物語には、関係論的かつ偶発的で身体化された倫理学を理解し、その理解を促進させるという潜在能力が宿っている」。言いかえれば、これは「レスポンスを求めてきた巡り会い」の物語であり、互いに類似し密接に連関しあっている公衆衛生学的な危機とエコロジカルな危機の物語である。そのいわば呪われたランドスケープに棲みつく亡霊や怪物たち(アナ・ツィンへの言及)に耳を貸せば、忘却された諸歴史ーー人間的であるかどうかに関わらずーーを語ってくれるだろう。そして、この癒しと再統合という惑星的な共同任務の案内者ともなってくれるはずだ。



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