“わざわざ”の可笑しみ

時計と靴

こないだ後輩と『ごっつ』を観ていて、ゴレンジャイどの回が好きか討論になった。後輩はゆずの回が好きだと言うので二人で観ることに。ドクロ仮面に扮した浜田がYOUの家に押しかける毎度お約束の導入部。そこで浜田が「もう8:30や、そろそろ来るがな」と、この部屋でゴレンジャイと待ち合わせをしている旨が説明される。そのシーンで浜田が掛け時計を指差し見上げるカットの後に、掛け時計のインサートが入る。これに笑ってしまった。討論はお預けとなった。

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なぜだろう。
後輩も理解を示してくれ、二人して笑った。そのとき僕は「“わざわざ”入れてくるの面白いよな」という言葉でこの可笑しさを表現した。僕たちはこの導入部を何回か巻き戻して笑った。以前にもこれと同じことを感じた経験がある。
それは『bananaman live TURQUOISE MANIA』の特典映像として収録されている「日村は炭酸水を2秒で飲めるか?」という企画である。コップ一杯の炭酸水を2秒で体内にぶち込むギネスチャレンジのようなもの。この競技に人生を見出したような真剣そのものの日村は何度も何度も全力で挑む。タイムキーパーの設楽は、日村を上手に煽りながらもアドバイスをする。「Tシャツや靴は脱いだ方がやりやすいんじゃない?」と。

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ここだった。
この企画の見所は飲んだ炭酸水をマーライオンのように噴き出す日村なのだが、そこに辿り着く前になぜかここで笑ってしまう。“わざわざ”見せてくるのだ。引きのツーショットか日村のアップで構成される映像に突然『脱いだ靴を脇にどける』フォローショットが入る。たかがこんなアクション、マスターショットで事足りるのにも関わらずだ。寧ろ無くていい。Youtuber的カッティングならばこんな無駄なアクションは真っ先に摘まれる。いいや果たして無駄だろうか。何の効果もないだろうか。設楽の助言で服や靴を脱いで成功のため尽力するのだが、失敗することを知っている僕はその『脱ぎ捨てられた靴』が滑稽に見えて仕方がないのだ。わざわざ大写しにしてフォローまで“してくれる”労力にこの可笑しみの計算があるのかは分からないけれど、僕は複数回観て味わいの増す要素があることの重要性を改めて思い知った。

説明か伏線


インサート(insert)[名](スル)
1 差し込むこと。挿入。
2 映画・テレビで、場面と場面との間に手紙・書物などの1ページをクローズアップで挿入すること。テレビの対談番組の間に回想フィルムを入れたりするのはフィルムインサートという。
出典:小学館 デジタル大辞泉

わざわざ大写しにすることの意味について考えると、それは説明か伏線である。「もう8:30や」という浜田の台詞があるのになぜ8:30を示す時計を見せる必要があるのか。普通は要らない。真っ先に切っていい。現場で「時計のアップも撮っとこうか」とはならないしト書きにも書かない。映画を学び、省略の美学に魅せられてしまった僕はどうしても説明や無駄を排除したいと思う。見せなくていいものを大写しにして見せる必要はない。なぜなら僕たちには想像力があるからだ。それなのに、この無駄な(説明)カットに笑ってしまう。頭で理解していたことと真逆のことが身体に起こり、矛盾反応を起こしている。結局は伏線でも無ければ大した説明でも無いことに馬鹿馬鹿しさを覚えているのか。「なんで8:30に待ち合わせているのか」「8:30であることの必然性とは」という点に注視してしまうが結局何もなかったのかよという視聴者のツッコミをもって成立するエンターテインメントはコメディに限定した話か否か。

二回目以降の可笑しみ

初見ではこの可笑しさに気付けない筈だ。二回目以降、筋を知った上で観ると伏線も大した説明でも無いのに“わざわざ”見せてくる(採用する)そのセンスに笑けてくる。インサートを撮ったカメラマン。それを採用した編集マン。ありがとう。このセンスはずっと大事にしていきたいと思う。


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