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私は最も公正で公平な試験に敗北し、こうして学歴コンプを克服できなかった。

前書き

 どうも、モラトリアム葛藤です。
 今回は、私が歩んできた人生の話をします。今年、私の節目の年ということもあり自身の考えをまとめたいと考えまして、筆をとりました。支えてくれた人たちへ向けて懺悔の気持ちを込めて、そしてこの懺悔の気持ちを一生忘れないために、ここに記録します。

 ということで本記事では、私がいかにして学歴コンプレックスへと至り、そのコンプレックスを克服できなかったのか、自身の人生を振り返りながら書き記していきたいと思います。

 結構長いです。(4万字相当) 内容はかなり胸糞悪いと思います。一部、身バレ防止のために虚偽の情報を混ぜますが、97%ぐらいは私が歩んできたリアルを赤裸々に語りたいと思います。では、最後までお付き合いください。

※文章途中でAmazonやappのリンクが出てきますが、アフィリエイト広告ではないのでよろしくお願い致します。

幼少期編

 本題に入る前に私の個人情報や家庭環境についてざっと触れておきます。

 私は1995年~2000年あたりにとある都市で生まれました。家庭環境は、寡黙で大黒柱としての役割をしっかりとこなしてくれた父と優しく私が悩んでいるときはいつでも相談に乗ってくれる母、そして五歳離れた勉強・運動ともに優秀な文武両道の兄のもとで育ちました。

 家庭環境、生活ともに良好でした。
 不満は父が少しヒステリックなことぐらい、それが原因で母と喧嘩する程度。食事も毎日満足するぐらい取らせてくれましたし、幼いときはよく遊びに連れて行ってもらっていました。兄は基本的に意地悪でしたが、私が困っているときはいつも面倒を見てくれていました。母がいなくて泣いていたときは兄が本当に大切にしていた遊戯王のカードを見せてもらったり、頭をなでてもらったり、と何かと世話を焼かせた記憶があります。

 まぁ何が言いたいのかといえばとても良好な環境で育ったということです。今風の言葉で伝えるなら親ガチャSSRといったところでしょうか。感謝しても感謝しきれない、そんな環境のなかで私はすくすくと育ちました。

幼稚園編

 ちょうど保育園が足りないと言われていた時代でしたので、私は保育園をすっ飛ばし幼稚園から入園を果たしました。多分、人生でもっとも心が安定していて、わがままで、悩みもない幸せの絶頂の時期だったと思います。
 友達と朝から幼稚園の周りを駆け回り、遊具で遊び、時にお歌の練習をして、帰りは母に連れられ交通公園で友達と遊んでいました。時には母に幼稚園に行きたくないと駄々をこねたりと困らせていたと記憶しています。

 また、余談ですが幼稚園の年長のときに捻挫をしたのが原因でゲームに嵌り、インドアな性格になったと記憶しています。この歳からオタク文化にどっぷりと嵌まり込む才能があったのでしょう。ちなみに初ポケモンはゲームボーイのルビーだったと記憶しています。

 何はともあれ、勉強も大して必要なく遊んでいるだけでも褒められる、そんな競争のない平和の環境で日々を過ごしました。

小学生編

小学生低学年編

 ちょうど兄が高学年の時に私は近所の公立校に入学しました。
低学年のときは授業が増えた程度で幼稚園生のときと変わらない生活を送っていました。授業が終われば放課後は友達と遊び、帰ってくればゲームをしていました。一切授業の復習などせずに。
 さらにこの頃になるとインドア趣味に拍車がかかり、外にいる時間よりも家でゲーム画面やテレビを見ている時間が長くなっていたように思えます。おかげさまで運動能力がなだらかに落ちていき、体育の時間は本当に苦痛でした。

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 また、母に駄々をこねてズル休みをしたのも一回や二回じゃ留まらなかったと記憶しています。6年間で両手に数えられないほどにはずる休みをしました。授業料を払ってくれていたのに本当に申し訳ないな。

小学生中高学年編

 転機が訪れたのは中学年から高学年あたり。この頃から徐々に勉強についていけなくなりました。
 皆さんは小学生の頃、テストではどの程度の点数をとっていましたか。ノー勉でも100点、ケアレスミスを重ねても80点台という方が多かったのではないでしょうか。事実、私の周りではそうでした。

 では、私の点数はどうだったのか。ノー勉でよくて75点、ひどいときは60点台でした。多少、勉強すれば80点はとれましたが、低学年のときのように90点、100点をコンスタントに量産するのが厳しくなっていたと記憶しています。特に算数は壊滅的で母に教えてもらいながら、時には答えを見ながら、涙をぬぐいながら日々の宿題をこなしていました。

 そして、決定的だったのは小学4年生あたりで行われた都道府県テスト。47都道府県全ての場所を正しく記述するといった内容で一問でも間違えればやり直し、後日居残り再テストといった内容。

 そんなテストで皆が合格して抜けていくなか、私だけは最後まで合格できませんでした。どんなに勉強しても覚えられなかったのです。最終的には引き出しに地図帳を忍び込ませ、居残り担当の先生が所用で席を外しているうちにカンニング、無事に偽りの合格をもらいました。
 おかげさまで未だに和歌山県がどこにあるかもわかりませんし、頭のなかの東北の県配置はぐちゃぐちゃです。
 そして、この頃から両親にテストの結果を隠すようになりました。

 人間関係では、リセット癖を発症しました。リセット癖とは、今まで築いてきた人間関係を急に無に帰したくなるアレです。わかる人にはわかると思います。
 この頃から私は、友人関係の中で自分が本当にその人にとって必要な人間か思い悩むようになり……ドン引きだと思いますが、一緒に遊んでいたにもかかわらず無言で家に帰ったり、夏祭り中ははぐれたふりしたりして帰宅などを繰り返すようになりました。

 とはいっても、両親の教育の甲斐あって人間関係を円滑に、皆に頼られる優等生になれるように、努めていたこともあって特定の人と懇意にしない委員長ポジションに落ち着きました。(実際に4年生から6年生の間、学級委員長を務めていました。) 
 勉強も運動もできない優等生とはこれ如何に。

 何が言いたいかといえば、中学年あたりから徐々に私の人生に暗雲が立ち込めてきたのです。そんな状況のなかで焦燥感の募っていた私は……もちろん何もしませんでした。時間に身をゆだねて極めて楽観的に時間を浪費し続けました。

 当時の私は現状を改善する気もなくゲームの世界に逃げ込んだのです。

「別に義務教育だし勉強できなくても進学できるし……ま、いっか」

 そんな思考で自身の現状を一蹴しました。まさに臭い物に蓋をするってやつですね。

 ということで、そんな怠惰な私は義務教育の最後、私の人格に大きく影響を与えた中学生編に突入します。

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中学生編

中学1,2年編

 兄が高校受験に失敗して一年か二年経ったあたりで私は地元の公立校へと入学しました。中学時代を総評すると今まで何とかなっていたものが全て瓦解し、何もかも上手くいかなくなります。

 まずは勉強。中1初めで授業についていけなくなりました。
 一例になりますが、英語では、基本的な主語、動詞はおろかアルファベットすら覚えていません。中1初めにあったアルファベットの書き取りテストに合格できなかったのは学年で私だけです。
 (全ての授業に言えますが)授業はノリで切り抜けていましたしアルファベットすらわからないので主語と動詞が何を表すのかわからない。わかっているのは過去形にedをつけることぐらいですかね。三人称単数にedをつけたりしていました。馬鹿なのか?

 そんな背景もあって中学生になってからは定期テストに全く歯が立たなくなりました。
 数学は公式を丸暗記してやっと40~50点台、国語の点数は乱高下が激しく早々運ゲーだと切り捨てました。英語に至ってはなんと20点です。中学時代、なぜかリスニングだけは異様にできたのでリスニングに配点されていた20点で点数を稼ぎました。はい、その20点です。暗記科目の社会や理科だけはできたのでここがオアシスであり私の救いでした。

 そして、言わずもがなインドアが完全に極まったこの身体では体育もできません。特に連帯責任要素の強い野球の授業は本当に苦痛でした。外野で球がとれないと野球部キレてくるので……おかげさまで未だに野球部が嫌いです。はい、完全に私怨です。本当にありがとうございました。

 続いて人間関係。
 皆がスマホを持ち、パズドラ、LINEなどでキャッキャッしているなか私は未所持(言い訳)、リセット癖にも磨きがかかり、中学時代、クラス内の友達は冗談抜きでゼロです。
 ここまで聞くと虐められていたように思うかもしれませんが、そうではありません。両親の教育で培った処世術を活かし、中学でも優等生ポジションを無事に確立しました。まぁ勉強も運動もできないので正しくは劣等生にあたりますがね。

 しかし、一方で誤算がありました。中学は小学校の時のようにみんな仲良く、というよりは特定の人間と仲良く、といった傾向が強かったのです。グループの人間としか関わらない密な人間関係に変化したんですね。おかげさまで完全にクラス内で孤立しました。

 その結果が陰キャにも、オタクにもなれない虚無キャというやつです。陰キャグループにも、オタクグループにも所属できない、そんないてもいなくても変わらない人間に成り果てました。

 そのくせ、自身もサブカルチャーにどっぷり浸かっていたにもかかわらず、アニメはキモオタが見るものだと逆張りし、ニコニコ動画でアンダーグラウンドな世界の動画を視聴することで「お前らとは違う……」と悦に浸り、グループで楽しそうに談義している陰キャとオタクを心のなかで心底見下していました。恥を知れ。

 中でもニコニコ動画は、私自身のオタク観形成に大きく影響を与えました。
 自分だけが知っているアングラ感は筆舌に尽くしがたい高揚感と全能感を私に与え、時間を浪費させてきました。特に逆張りオタクとして東方にどっぷりと浸かったことは、あくまでアニメのみを消費するオタクどもと差別化を図ることができており、優越感に浸っていたのも理由の一つだと思います。時には陽キャラですら見下していました。
 それほどまでに、アングラで知る人ぞ知るニコニコ動画を視聴していることを自身のステータスとしていました。今考えると完全に黒歴史ですね。普通に書くか悩みました。


 まぁ何が言いたいかといえば私はまたしても臭い物に蓋をしたのです。
自身の欠点を克服しようとせず、俺はお前らとは異なる存在だと本気で自認し間違っているのは私ではなくお前らのほうだと外部の環境のせいにしたのです。そして、楽観的に物事を考え、現実から目を背けました。


 また、部活動は兄の背中を追ってバレーボール部に入部しました。
 幸い、部活動では人数が少なかったからか、小学校のときのようにみんな仲良くの傾向が強く、学校生活での唯一のオアシスでした。放課後が待ち遠しくて仕方なかったのを覚えています。

 そんなこんなで何もかも上手くいかなかった私は二回目になりますが、特にアクションも起こすことなく今回もゲーム、そしてニコニコ動画に現実逃避しました。自身の乱降下し続ける学力と両親から心配に蓋をして。

 ということで、次は中学3年生編に入ります。

中学3年生編

 先に人間関係の話をしておきます。
 高校デビューに向けて準備するようになりました。クラスで孤立している虚無キャラだったのは変わりありません。部活動以外で声を発した記憶がないな……。

 具体的にやっていたことは以下の記事の通り。

 内容が痛々しいですが、当時纏めていた高校デビューノートを参考に書いているので許してください。こういうのって中学生の思考をトレースしないと成功しないと思うんですよね。中学生のことは中学生の自分が一番わかっているはずなので。
 まぁ……何が言いたいかといえばそれほどまでに集団に属せず一言も声を発することなく一日が終わるのが辛かったということだけです。灰色の中学時代でした。以上。

 次に勉強関係。中3に近づくにつれさすがの私も現実を直視せざるを得なくなりました。
 だって、中2夏の期末テストの英語は20点台、国語は点数が安定しない、理科はできると思っていたら項目ごとに得手不得手があることがわかった。数学は応用問題が解けず、時間が経てば経つほど内容が難解になり基本問題すら危うい。そして、私を守ってくれていた義務教育はじきに終わる。もう時間がない。

 そんな私は……一発逆転の一手として塾へと通うことにしました。

 正直、それほどまでに焦燥感が募っていました。今まで逃げていたくせに何言ってんだ。

 「友達が塾に通ってて俺も行きたいんだけどさ……」と父に切り出したのを未だに覚えています。自己の意思がない、向上心のかけらもない切り出しでも父は二つ返事で了承してくれました。「お金のことは任せろ」とパソコンを見ながら強くいってくれたことを。
 そんな私はそのことに感謝しつつも当然のことだと思い、それを享受しました。当時、お金を出してもらえることは当然だと思っていたので。

 塾講師と面談をして第一志望校を偏差値55あたりの高校に設定。塾に通い、受験に特化した勉強を行うようになりました。

 塾では驚きの毎日でした。まず当たり前ですが、アルファベットを覚えさせられました。文字を覚えてないのに英単語を覚えられるわけがないし文章読む以前の問題だからね。他にも他動詞と自動詞の存在、ノリで切り抜けていた主語と動詞の概念など……ノリからなんとなく理解ぐらいまで自身を高めることができたと記憶しています。

 はい、塾にも通い、順風満帆です。ようやく私の人生の逆転劇が始ま……りませんでした

 何をしていたか、ゲームとニコニコ動画です。私は塾に通ってさえいれば兄のように頭がよくなると勘違いしていたのです。参考書買ってやった気になってるってやつですね。たまに自身の志望校が自分の価値だと勘違いしている受験生がいますがそれと同じです。

 そして、いつものずる休み癖も出てきます。塾に行ったふりをして行かなかったり、勝手に休む連絡を入れたり。片手で数えられる程度ですが、罪悪感もなく平然とやりました。当時の私は塾に通ってさえいれば学力が勝手に上がっていくものだと信じて疑わなかったのです。

 また、塾に入った頃に兄と自身を比較するようになります。
 上で兄は受験に失敗したと言いましたが、それでも進学先は偏差値を見れば70オーバーの進学校。やはり兄は私と違って優秀だと実感しました。そして、同時にできる兄とできない私で勝手に比較し劣等感に思考を苛まれるようになります。それがますます私をアングラな世界に浸からせました。お前は兄と違って何も努力しなかったくせに。

 そして、中3の春、初めての模試です。
 結果は案の定、偏差値40台。本当に勉強してないなら30台なんじゃないかと思うかもしれませんがこれにはからくりがあります。英語を含めた主要科目全て壊滅的でしたが、唯一社会だけは偏差値60を超えていたのです。
 まぁ何が言いたいのかといえば一点突破しているだけの仮初の偏差値40だとということ。現実から目を背けるようにまたしても家でゲームをする時間が増えました。

 中3夏、この頃になると母親にゲーム機を取り上げられます。
 さすがの優しい母でもまずいと思ったのでしょう。めちゃくちゃ反抗したのを覚えています。そして、比較もされてもないのに兄と違ってできない私を馬鹿にしているんだろうと当たり散らしました。そのことに対して両親が強く否定してきたのが記憶に残っています。
 後から聞きましたが、兄と私を比較することだけは絶対にやめようと両親間で決めていたようです。出来損ないの息子で本当にごめん。

 案の定、隠し場所を見つけてゲームとニコニコ動画を隠れてこそこそとプレイしました。ここまでくると本当に恐ろしい。もちろんこのままだと取り返しがつかなくなるといった考えもあったのですが、当時新しく塾に入ってきた生徒が私よりも偏差値が低く、少し安心したのもあります。下を見て安心するってやつですね。

「まぁ、どうにかなるだろう」

 こういった楽観的な思考に私は支配されていました。



 それでもこの頃は潜在的にさすがにまずいと思っていたのか、自発的に週3の頻度で塾の自習室に通っていました。「いや、もっと行けよ」と思うかもしれませんが、当時の私にしてはよく頑張っているほうです。もちろん家での勉強時間はゼロ。思い返せばできる社会ばかりやっていたな。偏差値は変わらず40台でした。
 また、志望校を偏差値50の高校に変更しました。そして、夏期講習のために父に金を無心しました。

 中3秋、新しく入塾してきた生徒に偏差値を抜かされました。
 半分冗談なノリでマウントをとられ、かなり頭に血が上りましたが何とか顔に出さないようにへらへらとした顔を無理にでも作ったのを覚えています。勉強してないくせに悔しくて仕方なかった。偏差値はちょっと上がって45程度。社会が極まりに極まったのが理由です。あとは理科の運がよかった。それだけ。

 中3冬、志望校の変更を余儀なくされました。
 大事をとって偏差値40前半の高校まで落としました。元から行きたい高校なんてものなかったので特に抵抗なく下げた記憶があります。ここまで下げれば大丈夫だと高を括りましたね。

「偏差値15も下げたんだ、落ちるわけがないだろう」

 そんな思考です。

 この頃になるとさすがの私でも家で教科書を開くようになります。毎日一時まで机に向かっていました。大半の時間はニコニコ動画とゲームの時間でしたけど。母が毎日作ってくれた夜食の味が記憶に残っています。

 受験直前期、偏差値は45。確か安全圏が志望校の+15くらいなので結構危なめ。まぁどうにかなりそう? そう思いながら当時にマイブームだったUNDERTALEの”SAVE the World” を聞いていました。クラスの担任からは30後半まで下げたほうがいいと言われましたが、私は聞きませんでしたね。15も下げたんだから受かるでしょ。


 迎えた受験当日
 確か机が一番後ろの席でした。模試と同じように解いて帰宅したのを覚えています。はい、ぶっちゃけるとあんまり覚えていません。可もなく不可もなく?みたいな感じで帰宅です。
 母に受験前日に「○○なら大丈夫! きっと合格できるよ!」と言われたこと、受験終了時に迎えてくれた母に「お疲れ様!」と満面の笑みで言われましたことだけが記憶に残っています。


 そして、合格発表当日。天気は曇り。
 合格発表を見るため志望校に自転車を走らせました。

 学校へと到着。いつもは制服なこともあって私服で学校に入る際、ちょっと新鮮だった記憶があります。

 受験票片手に合格発表掲示板前へと足を踏み入れました。そして、ざーっとみて自分の番号があるであろう列に目を通しました。




 …………ない。
 何度見返してもなかったのです。

 はい、普通に落ちていました。

 そんな結果に私は落ち込んだかと言われると……全く落ち込んでいません。まぁ確かに喪失感はありました。

 しかし、「まぁ、当たり前の結果だな……」と無駄に達観していたのを覚えています。こうなることが馬鹿なりに頭でわかっていたんでしょうね。

 母に結果を伝えるため、騒々しい会場に背を向けて自宅へと自転車を走らせました。

 手早く帰宅。玄関を開け、リビングのある二階に上がり、キッチンで作業している母に話しかけました。当時、私の好物だったサーモン丼を作ってくれる最中だったと記憶しています。いつも私に向けてくれる笑顔で、合格を信じて疑わない満面な笑みを浮かべていたと思います。まぁ偏差値15も落としたしね。

 その後、落ちてしまったことを伝えるとすぐに抱きしめられました。

 そして、「○○はよく頑張ったよ。大丈夫だからね……」と目尻に涙を溜めて何度何度も優しく頭を撫でられました。ここで母が泣いているのを生まれて初めて見たと思います。

 はじめ、なんで泣いているのか理解できませんでした。だって、母の受験でもないのに。しかし、瞬時に私が全力で受験に挑み、その結果落ちてしまったことを、私が泣くのを我慢しなくていいように泣いてくれているのだと、そう理解しました。

………

 このとき俺は母まで泣かせてここまでなにやってきたんだと酷く後悔しました。自業自得のくせに。母に明日塾に行くからと何度も何度もお弁当作らせ、夜食を作らせ、俺なんかのカスのために貴重な朝の時間を食いつぶしさせ、兄との劣等感で当たり散らしたときも優しく励ましてもらって何をやってきたんだと。

 父には莫大な投資を自分にさせました。リターンなんて戻ってくるはずもないのに。
 当時の私は親が子に投資することが当たり前のことだと信じて疑わず、金銭的な面で大きな負担をかけました。そのくせ、真面目に塾には通わず、クソほどどうでもいいサブカルチャー趣味に時間を浪費しました。結果なんて出るわけもないのに。
 落ちたことに父は何も言いませんでした。私立の学校でこれから莫大の金を支出させるのに、恨み言一つなくて。いつもの寡黙な父でした。

 兄と違ってできなくていいことに何も言われないことが本当につらかった。いっそ糾弾してほしいぐらいだった。それなのに出てくる言葉は私を責める言葉ではなくて励ましの言葉ばかりで。何もしてないのに、するつもりもなかったのに勘違いでお前はよく頑張ったと励まされるのがとんでもなく苦痛で。

"努力しなくてごめんない。兄と違って無能でごめんなさい。出来損ないの息子でごめんなさい"

 こんなどす黒い感情に私は今後、囚われるようになります。正直、今も悩まされています。私は、突発的な衝動と一時の快楽のために両親から用意してもらった環境を無下にして自らドブに捨てたのです。殺されても仕方がないことをやってしまったと理解しました。

 今でも私の代わりに泣いてくれている母の顔が目に焼きついて離れません。この時から両親に負い目を感じるようになりました。

 そんなこんなで高校編……の前に幕間として入学前の春休み編に突入します。まだまだ長いですがお付き合いください。

卒業・春休み編

 受験も終了し春休みです。
 上のようなことがあって自殺やら何やらと考えていた時期もあったのですが、「死よりも結果で償うべきだろう」、そう思い立ちました。

 では何で結果を出すか、そうです。日本人の誰もが挑戦することができ、”この国で最も公正で公平、そして平等に人を測る試験、大学受験”です。これで結果を出して両親に償うしかない、そう思い立ちました。

 何より今まで努力してこなかったこともあって自分もやればできることを証明したかったんですよね。兄のように優秀な人間にはなれないかもしれない。だって、私は努力すらできない無能だから。それでも3年間、全力で頑張りさえすれば人並みにはなれるんじゃないか、いやそれ以上になれるかもしれない、それが一念発起の理由です。

 不純な理由です。大学は未知への探求を目的で目指すべきところなのに私は”自身が首に掲げるメダルのために”大学を志したのです。全ては普通の人間として、尊敬する両親の息子として恥ずかしくないように。そして、あの時のことを胸を張って謝罪できるように。

 高校受験が終了し入学前ですが、さっそく志望校決めを開始しました。3年間努力するんだから目標は高いほうがいいと思いましたが………私が天才ではないことぐらいは自分が一番理解していました。まぁ中2までアルファベット書けてなかったし、都道府県ですら覚えていない(現在進行形)んだから当たり前ですよね。

 ということで、優秀な兄が通う大学よりもワンランク下の大学を目指すことにしました。高校受験に失敗していた兄ですが、大学受験は無事に第一志望に合格し国内屈指の私立大学へと進学しています。その大学よりワンランク下の私立大学ということですね。
 天才にはなれないかもしれないが努力しさえすれば無能から凡人になるぐらいはできるはずだ、と大学受験サイトを見ながら決意したのを覚えています。

 親孝行をするなら国立だとも思ったのですが、数学があまりにもできなさすぎて断念。あとは単純に国立に行けるのは一握りの天才だけだろうと決めつけていたのもあります。当時、私の国立のイメージといえば東大と京大、そしてそれぞれの県の名を冠するエリート大学しかないと思っていたので。
 まぁ国公立志望というだけですごいですけどね。五教科七科目やり遂げているんですからそれだけで褒められるべきです。

 そんなこんなで志望校決定。

 次に自身の敗因を分析。今思い返すともっとありますが、当時のバカな頭だと思い当たったのは3点でした。

①   単純に勉強量が少なすぎた。
②   基礎すら理解できていない。
③   復習の概念を知らなかった。

①単純に勉強量が少なすぎた。
 文字通り。単純に勉強していなかった。塾の自習室ではさすがにちゃんとやってはいたが家での勉強時間はゼロ。机に向かっていても傍らにニコニコ動画か、ゲームを開いていたことが多かった。というより開いていた。これでは成績が上がるわけがない。毎日図書館に行き勉強することを厳命。22:30以前のゲームを禁止した。

②基礎すら理解できていない。
 文字通り。現代文なら例の役割と接続詞の意味、数学なら公式、英語なら英単語・文法などこれら基本的なこと全てを私は理解していなかった。というより覚えるつもりがなかったというほうが正しい。これでは問題演習どころの話ではない。一年生のうちに基礎固めを終わらせることを厳命した。

③復習の概念を知らなかった。
 「?」と思う方もいるかもしれないので解説する。
 基本的なことだが学校の勉強とは、大きく分けると3つのプロセスに分けられるだろう。予習→授業→復習のプロセスである。
 そう、私はその中の3つ目にあたる復習といった概念を文字通り知らなかった。予習はしても授業を一回受けたら受けたっきり。インプットはしてもアウトプットは一切やったことがなかった。一度やった内容はできなくても放置、また教科書を一ページ目から開いて最後まで勉強するといった忘却曲線をガン無視する勉強方法をとっていた。エビングハウスもびっくりである。
 つまり、勉強の基本的なやり方すら当時の私は理解していなかったのだ。これでは成績が上がるはずがない。自分自身に復習を厳命した。

 といった形で馬鹿なりに敗因を分析しました。
 特に復習という概念を知ったときは目から鱗でしたね。こんな画期的な方法があるのかと。塾に行っていたのに知らなかったのかと思われるかもしれませんが、基本的なことすぎて誰も教えてくれませんでした。復習の重要性なんて小学生で理解するのが普通ですからね。

 以上で受験への方向性が明確に決まり勉強を開始しました。春休みは毎日、一日8時間(4時間×2セット)やっていたと思います。当時の全く勉強をしていなかった私にしては頑張っていたほうだと思いますね。

 次に人間関係。
 卒業式ですが、特に何もなく終了。卒業直前に買ってもらったスマホで部活動の人とLINEを交換しつつ解散。周りが泣いている中、そそくさと学校を出ました。帰宅後、午後のロードショーでエイリアンを見たのを覚えています。

 そして、上で述べたように自身が作成した高校デビューノートをもとに自分磨きを始めました。同時に受験の失敗を経て自身に価値観を改めます。
他人の好きを馬鹿にする人間よりも胸を張ってその好きに同意できる人間のほうがかっこよくないか、と。これは今でも私がリアルでもネットでも意識していることです。この時から他者のどんな考え方・趣味でも見下すことはなくなりましたね。まぁそれぐらいです。

 二度目にはなりますが、勉強にも運動にも人間関係にも全力を注がなかった灰色の中学時代でした。私の人生の汚点です。同時に私の落ちていくだけの人生を変えてくれた大切な失敗体験でもあります。

 ちなみに重い腰をあげて塾に結果を報告しにいきましたが私と同じ塾に通っていた塾生たちは中3の夏あたりに入ってきた人を含めて全員第一志望に合格していたみたいです。同時に大学受験で絶対に大成してやると心に誓いました。

 ということで、一段落。次は激動の高校生編です。まだまだ長いですが、お付き合いください。

高校生編

高校1年生編

 2000年代半ば、私は無事に都会の私立校に入学しました。
 まだ若いつもりなのでアレですが、人生で一番楽しく、一つのことをやり通したのが高校です。徒歩で行ける近場の高校は全て落ちたので初めての電車通学です。期待半分、不安半分といった具合で高校へと向かいました。

 本編に入る前に私の高校についてざっくりと触れておきます。
 当時の偏差値は40前半、立地悪めの私立校です。さっき調べたところ偏差値が30後半まで落ちていました。これも少子化の波なんですかね。できない人間の受け皿のような学校です。

 では、校風は荒れていたか。いいえ、真反対です。厳しい校則と授業時間中、木刀を持って徘徊する教師(※一部の教師)。体調不良による欠席・遅刻は体調管理不足として反省文A4 用紙3枚でした。今、平成だぞ?

 高校デビューのためにかなり入念に口コミをチェックし理解して入学したつもりでしたが、ここまで噂通りとは思わず衝撃を受けました。集団行動・連帯責任当たり前の軍隊のような学校です。その分、虐めもなく落ち着きすぎた校風だったのが印象深いです。半分、言論弾圧状態でしたが、虚無キャだった私には非常に都合がよかったです。

 また、底辺校ですが、赤点制度がありました。救済なしで即退学です。普通にやっていれば落ちませんけどね。一方で、公立に進んだ友人から「こっちでは補修さえ受ければ退学免れることができるよ~」と言われてひどく驚いた記憶があります。
 入学時、同学年は200名いましたが、最終的な卒業生は160名。いろいろ理由はあると思いますが……多くは勉強についていけなかった人たちでしょう。

 では、本編。

 まずは勉強。
 高1上半期、あんなに怠惰でどうしようもない私でしたが入学後は人が変わったように勉強し続けていました。正気に戻ったといったほうがいいかもしれません。
 平日は、部活動のある日は一日4時間、ない日は5時間30分。休日は部活動があってもなくても8時間を図書館が閉館する時間までコンスタントにこなしました。

 英語は、英単語と三人称単数を暗記することから始めました。Iが主語になり得る存在だとは理解していましたが、me と my の違いがどうしてもわからず四苦八苦した記憶があります。
 その他にも him と her の違い、語末に s をつけるときはどんなことか、edは語末のアルファベットによってはそのままつけてはならないこと、あやふやだった助動詞の意味など一つ一つ中学生から、下手すれば小学生まで遡って理解しました。それほどまでに私は英語ができなかった。
 英単語帳はターゲットを選択しました。私と3年間をともにする愛書です。通学の隙間時間、空き教室への移動時間などずっと開いていましたね。ターゲット1200からコツコツとやっていきました。

今は亡き総合英語Forest 7th Edition

 国語は、接続詞の意味、例示の役割、主張と対立の違いなど……基本的な日本語を構成する単語から一歩ずつ学んでいきました。常用漢字も危うかったので急遽読みの勉強も実施。

 たまに主張のために出した例示のみを切り取って大きく騒ぐ人間がいますが、当時の私がまさにそういった人間です。文章全体で主張を考えられない、行間が読めない、文章がわからないから読解ができない、なんなら漢字も読めない、もうなんというか役満ですね。

 まぁこちとらニコ動で義務教育を終えていますから。本なんて一冊も読んだことがありません。だから日本語から学ぶ必要があったんですね。


 続いて古典を勉強。
 こちらも英語並みにできなかったので単語から文法まで一歩ずつ潰していきました。日本史が好きなこともあって癒しの時間で英語とは対照的にぐんぐん成績が伸びていったのが印象的です。

 社会は、暫定で日本史を選択。
 というのも中学時代で最も点数が取れていたのは社会の中の日本史の項目です。こちらは参考書は買わずに教科書だけをひたすら読み込みました。急激に伸びていく点数を見て自分もやればできるんだと可能性を感じさせてくれる科目でした。この科目がなかったら折れていたかもしれません。今でも私の心の支えです。

詳説日本史B 改訂版
墨塗りの教科書


 以上の科目を中心に勉強を始めました。

 そして、第一の目標として定期テストを攻略する目標を立てました。
 目指すは学年一位。

「定期テストすらできない人間が大学受験で合格できるわけないだろ!」

 当時の心境は上記の通り。馬鹿だったのでこういうところでも遠回りしました。本命は大学受験なので定期テスト向けの勉強しても仕方ないんですけどね。

 初回の中間テストでは70/200位。(自分含めて)底辺しかいないこの学校でひどすぎる。これを受けてさらに勉強時間を増やしました。期末には50/200位まで伸ばします。順位が上がった分だけ達成感があり、モチベに繋がりました。

 続いて人間関係。
 結論からいうと高校デビューは……無事に成功しました。
 サッカーとかプロレスとか野球とか有名な漫画とか、興味もないことでも会話を続けられるように勉強をしたこと、そしてお得意の処世術で懐に潜り込みました。正直、キョロ充(死語)ですね。

 そんな高校デビューした私ですが、クラスの中心人物間の会話は思っていた以上にどす黒く……上記の話以外に他クラスのゴシップネタや恋愛話、浮いている人間の陰口などが多く飛び交い、陽キャへのきらきらしたイメージが崩れ落ち、衝撃を受けます。
 むしろ弱者を虐げることができる分、内心で同族嫌悪しているだけの陰キャラよりも質が悪いように感じましたね。まぁ、それでもなんだかんだで楽しくやっていました。サブカルの話ができなかったので居心地は悪かったですがね……。

 また、部活動にも加入しました。
 高校のくせに強制加入だったのもありますが中学時代、文化系部活動への差別は嫌というほど目の当たりしてきました。それを受け、自身の地位維持・向上を目的にとある体育会系の部活動に加入しました。とても珍しい部活動なので内容は伏せますが、かなり恩恵を受けたとだけ言っておきましょう。

 そこでサブカル方面に詳しい人たちと友人関係を結びます。

 何をきっかけに結んだか、……そう、ニコニコ動画の“例のアレ”です。

 お恥ずかしい限りですが、私は淫夢で友達を作ったのです。この時も重度なニコ厨だった私が当時勢いのある例のアレを履修していないわけがありません。
 部活動初日から語録でかっ飛ばしている初対面の人間に吹き出してしまい、淫夢厨だということが無事に露呈しました。そこからなんやかんやあって交友関係を結ぶんですね。まぁ同期の1/4以上が淫夢厨だったのも救いでしょう。単純に運がよかった。中学時代同様、自分を出せるオアシスをここで確保したのです。

 淫夢は人を結ぶ。はっきりわかんだね。


 また、部活動での交友関係の影響によりFPS沼にも嵌りました。その日の勉強が終わるといつも据え置き機を起動していた記憶があります。もうパーティーゲームできないねえ。

高校1年生下半期
 高1の夏休み。ついにTwitterを始めます。
 初めてTwitterに触ったときは世界が広がったように思えました。私と同じようなことに悩んでいる人間から遥か遠くに上に位置している人間、下の人間に思えるような人まで多くの人間が毎日発信を行っていました。さながらインターネットガンジス川。

 ある程度ROMった後、複数の界隈が入り混じっている界隈(?)に目を付けます。ある程度成熟し精神的に安定してそうなアニメアイコンの学生や社会人がいるオタク界隈、受験に精を出す浪人生や学生がいる受験界隈、底辺芸寄りのネタツイを繰り返す人間が数多く属するネタツイ界隈などなど……多くの社会不適合者が犇めき合い、重なり合う界隈に身を寄せました。

 こういう界隈のことなんていうんですかね。異常独身界隈ですか?

 最初のハンドルネームは“モラトリアム葛藤”にした記憶があります。当時、横文字(カタカナ)+ 漢字のハンドルネームは流行っていたので。私と同じようなことで悩む方々が多い界隈の雰囲気は非常に居心地がよくどっぷりと浸かったのを覚えています。勉強しろ。

 次に勉強。
 夏休みは部活動がある日でもない日でも9時間勉強しました。

「まずはやってこなかった分、確実に量をこなすこと。お前は9年間、勉強しなかった分、確実に遅れている。」

 これを合言葉に全力を尽くしました。大半の時間は英語に時間を費やしていたと記憶しています。今思えばもう少し計画的に勉強すべきだったとも感じますね。当日、やる科目と内容を決める行き当たりばったりな学習の仕方をしていたので……。

 向かえた夏休み明けの中間テスト。大きく順位を伸ばして20/200位をとり上位陣に食い込みます。これ以降、三年生の中間テストまで20番台をキープし続けました。受験で使わない副教科が邪魔で邪魔で仕方ありませんでしたが、そこは全て主要科目でねじ伏せました。
 気持ちはさながらお山の大将です。勉強関係で初めて母から褒められ、部屋に戻って嬉し涙を流したことが記憶に残っています。

 そして、調子に乗った私はこの頃になると「俺は○○大学に必ず行ってみせる」とクラス内で喧伝し始めます。理由はもちろん自分自身の退路をなくすため。より一層力を入れて勉強に取り組みました。

 人間関係は特にありません。こんな高校に入ったお前が合格するわけないと何度も冗談半分でからかわれましたがいつもの処世術で笑って流していました。時には自虐芸として利用してクラス内の地位の維持を図ったのを覚えています。
 が、内心、心穏やかではありません。なんとしてでも見返してやる、そういった強い反骨精神で心を燃やしました。

高校2年生編

 高2の上半期。
 期末テストもパスして無事に進級。春休みも勉強に注ぎます。ターゲット1400に乗り換え、ターゲット1000(英熟語帳)も同時に開始しました。毎日100単語ずつ、努力が報われると信じて。

”典型的”な英単語ターゲット1400、1900
英熟語ターゲット1000

 一学期も勉強、勉強、勉強。

 この頃になると勉強が楽しくなってきます。理解できる楽しさ、勉強する楽しさというものを生まれて初めて知りました。

 また、昼休みの無駄な時間を削るために母に片手間で食べられるおにぎりをお願いするようになります。中身は決まってからあげ入りのおにぎりとたらこ入りのおにぎりでした。母の作ったおにぎりを食べるときは決まってあの時泣かせてしまった母の顔を思い出しました。

高2の下半期
 まずは夏休み。
 あれだけ勉強勉強勉強と思考を支配されていた私でしたが…ここにきて完全に中だるみしました。勉強時間は本来10時間やる予定を大きく落として8時間。高1と同じ時間ではあるものの、高1よりも明らかに身が入っていなかった。

 では、代わりに何やっていたのか。

 Twitterです。ネタツイ作ってました。

 夏休み前に万バスした快感が忘れられなかったんでしょうね。他人のツイートを見ながらTwitterで使われる構文をひたすら頭に叩き込み、伸びるツイートとは何かを探求していました。勉強中も考えては下書きに保存していたと思います。

 また、界隈の思考に毒され、推薦を目の敵にするようになります。

 中でも指定校推薦は許せなかった。

「校内の“あんな簡単なテスト”で点数も取れない偏差値40以下の馬鹿が無条件で偏差値50、60の大学に行ける? あまり受験を舐めるなよ……ッ」

 そういった思考に毒されるようになります。底辺校で定期テストが異様に緩かったのもこの思考に拍車をかけました。当時、義憤に燃えたのを覚えています。何の義憤だよ。

 そして迎えた夏休み明け。
 夏前に高校で受けた模試(国語、英語、数学の三教科模試)が戻ってきて衝撃を受けます。いくら何でも伸びが遅すぎるのではないかと。

 当初はこの模試自体どうでもよいものでした。
 数学は受験で使わないものだし照準を合わせているのは2年秋の河合模試。まぁ学校全体で受けるものだし軽い腕試しなればよい、あわよくば偏差値50後半が出てほしい、そんな気持ちで臨んだ模試だったのです。

 結果として蓋を開けてみれば国語も英語(リスニング除く)も偏差値50中盤。本当に偏差値40あったか怪しい中学時代に比べればよく頑張っているほうでしょう。ただ、それを踏まえてもやはり成績の伸びが遅すぎる。1年半頑張ってこれか……と明確な危機感を覚えたのを記憶しています。

 ここで中だるみを矯正し河合模試に向けて猛勉強することになります。全ては両親の横に立っても恥ずかしくない、そんな人間になれるように。

 また、高2後半になると人間関係に疲れてきます。

「なんで他人に気を遣わって勉強時間取られなきゃなんねぇんだ?」

 こういった思考に支配されるようになります。
 根が陰なこともあって感性があってないんでしょうね。常に気を遣っている状態で精神を張り詰めている状態なんですよ。しかも話題はプロレスとか野球、人の陰口。クソほど興味もない。こんなことやってられるか。

 そんな私は何をしたか、人間関係を切りました。

 大学受験に友人は必要ありません。みんなで手をつないで仲良くゴールなんてできるわけない。だって、受験は団体戦ではなく個人戦だから。助け合い? 敵同士で何ができるんだよ。

 俺はお前らと違ってしかる日のために時間をかけて、一歩ずつ理解して、血のにじむような努力をして、結果を出して、何が何でも競争相手を蹴落とさなきゃならないから。目の前でへらへらして青春(笑)しているやつに席を奪われるわけにはいけないから。そのために人間関係が邪魔だった。
 俺はなんとしてでも結果出さなければならない。空いた時間はひたすら勉強あるのみ。空いた時間がないなら無理にでも作ればいい。

 所構わず単語帳を開くようになります。内職をするようになります。例え体育祭の練習、文化祭の準備期間の時間だったとしても。それが正解だと私は信じて疑いませんでした。

 そして、父に頭を下げてまたしても塾に通わせてもらいました。河合とか駿台とかではない中堅予備校です。父が金のことは心配しなくていいと強くいってくれたのを覚えています。

高校3年生編

高3春
 勝負の年になりました。決意を胸に抱きます。
 春の時点で偏差値は55程度。第一志望の学部学科の判定はC判定です。本来の予定ならここでA判定をとって貯金を作ったうえで受験戦争に臨むつもりでした。ばかで無能なことは私が一番わかっていたので。
 まぁ取れなかったものは仕方ない。前進あるのみと考え、机に向かいました。

 春も勉強、勉強、勉強。
 確か五月に模試があったのを覚えています。結果はまたしてもC判定。勉強を続けました。学校生活では、クラス区分が通常の進学コースから受験特化コースに移動しました。高2では切りきれなかった人間関係を刷新されたクラスで完全に切りにかかりました。

 また、高3になると指定校推薦狙いの人間が定期テストでの追い上げを始め、順位を40位まで落としました。この頃は推薦嫌いが最高潮に達していたと記憶しています。

 そんな私は平均点が上がればそれだけ推薦狙いの人間が評定を取りにくくなる評定システムを利用し、定期テスト向けの勉強はせずとも試験自体は一切手を抜きませんでした。定期テストで点を取ることで平均点を上げ、推薦狙いの妨害を図ろうとしていたんですね。今考えると私怨が強すぎてドン引きですが……。

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高3夏
 受験の天王山、夏休みです。
 熟の自習室が夜遅くまで空いていたので自習室で10時間程度、家に帰って一日の復習2、3時間程度を身を入れて勉強していました。恐らく人生で一番努力して苛烈な想いを抱いて勉強している時期です。受験に失敗したら冗談抜きで自殺するつもりでした。

受験時代使っていた特級呪物

 私はどうしても成功体験を得たかったのです。そして、合格した先の一般人の景色を知りたかった。凡人でもちゃんと勉強すれば何者かになれると、今まで馬鹿にしてきた人間を見返してみせると、そう考えて私は合格後の景色を追い求めたのです。

 迎えた八月模試。
 自己採点の結果、点数は上がっていたものの微量レベル。帰ってきた成績表は案の定C判定でした。自己採点中に自習室で泣きそうになったのを覚えています。

 ”冬模試でB判定以上を取れないなら第一志望を諦めよう” 、そう心に決めて机に向かいました。

 また、この頃からネット上にある逆転物の合格体験記を読み漁るようになります。予備校が公開しているものから2chに掲載されているものまで読み漁り、自分にまだ可能性があると自身に信じ込ませました。

高3秋
 変わらず勉強。勉強。勉強。
 この時期になると受験特化コースのくせに推薦狙いの人間がクラスに現れ始めます。最終的にクラスの半数以上が推薦で行きましたが、内心憤怒に燃えてましたね。ここ受験特化コースだぞ?

 学校行事では、体育祭、文化祭と主要行事が続きましたが、練習・準備期間中でも所かまわず参考書を開いて勉強していました。文化祭中、名前も知らない他クラス我ながらこの頃は本当に狂っていると思います。勉強以外の言葉が頭にありませんでした。

 また、片手間で英検2級を取得しました。余談ですが、中学時代、英検3級の二次試験で三回落ちている身としては一度目で合格できるとは思わず内心驚いたのを覚えています。

高3冬
 ここでも勉強して、勉強して、勉強して。
 まだ諦めたくなかったのです。頑張れば結果を出せると、意味のない努力なんてあるはずがないと、報われない努力なんてあるわけないと、そう考えて勉強し続けました。

 そして、12月、迎えた冬の河合模試。
 場所は某大学で、教室の左側前方で前から二番目の席だったと記憶しています。とにかく空調が悪かった。前日には信頼をおいている塾講師にここで志望校が決定するから全力でいけと背中を押されたのが記憶に残っています。

 特段語ることはありませんが、いつもの出来だったと記憶しています。可もなく不可もなく。そう、いつもの出来でした。

 帰り道、その足で塾に向かう途中で嫌な予感がして急遽駅のホームで自己採点をすることにしました。B判定を越えそうなら塾に行って結果がよかったことを報告しよう、そうじゃなければ……なんてことを考えて塾の最寄り駅で自己採点をしました。


 結果は端的にいうと夏と殆ど変わりませんでした。現状維持ってやつです。なんなら古典の調子が悪かったこともあり三教科合計で10点近く落ちていました。周りは追い上げてきている、間違いなく成績表はD判定で帰ってくる、そんな予感で頭がいっぱいになりました。

 “あれだけ勉強して偏差値1すら上がらないなんて認めたくなかった“

 この一言に尽きます。

 駅のホームで一時間程度放心してから、どうしても塾に向かえず駅のトイレで二時間程度、涙を流したのが記憶に残っています。

某都内トイレ

 塾にはどう伝えよう、両親に顔向けできない、3か月で偏差値1すら上げられなかった私は大学すらいけないではないか、そんな思考で頭がぐちゃぐちゃになったのを覚えています。

 そして、ここで明確に心が折れました。まだ受験が始まってすらいませんが折れてしまったのです。はい、この時点で私は第一志望を諦めました。そして開き直ったのです。

“馬鹿は馬鹿なりに地に足のついた勉強をしよう”

 そう考えてその日から勉強を開始しました。

高3、1月。センター試験直前期
 特に変わらず勉強していました。
 勉強中、放心状態が増えたことぐらいです。12月の記憶はほとんどありません。

 ただ、私は往生際が悪かった。このままだとモチベーションが続かないと考えた私は自信をつけるためとある模試に目を付けます。はい、一月の頭にあった東進模試です。普通の人はセンター試験の最終調整に入るので受けないやつですね。博打覚悟でした。

 手早く模試を済ませ、数日後結果を受け取ると……なんとB判定でした。まぁ頭がいい人が受けてないので当たり前なのですが……。私はそれでも結果を手に入れたのです。仮初のB判定を得て、私は折れながらも少しの希望を持ち努力を続けました。
 結果が例え、仮初のものだったとしても私はどうしても第一志望を諦めきれなかったのです。3年間片思いし続けている大学ですからね。

 そうして私は第一の試験、センター試験のために机に向かいました。

迎えたセンター試験当日
 場所は東京学芸大学。教育学部があるところですね。若干の雨だったと記憶しています。

 それなりに緊張していましたが、押しつぶされそうな過度な緊張はしていませんでした。判定で間に合わないことが分かっている以上、目標とするのは二月にある一般試験です。

 何より私、中学時代できたはずのリスニングが致命的にできなかったんですよね。毎回50点満点中16点とかでした。(初めから一般試験を照準を合わせていたためさほど気にしていなかった。)

 ということで、リスニングなしでも受けられる大学を中心に出願していたため、あくまでセンター試験は滑り止め試験ってわけです。当然、第一志望には出願していません。

 まぁ当時の心境としては一言で十分でしょう。

「俺がこの中で最強だと証明する……っ」

 そんなことを考えながらリスニングすらできない人間が試験に臨みました。

 はい、所感としては手ごたえありでした。
 特に運ゲーだと思っていた現代文。センター試験の現代文としては簡単で自信がついたのを覚えています。センター試験の国語って普通に一般試験よりも何倍も難しいんですよね。(主観かもしれませんが…。)

 その後、友人と合流しすき家で答え合わせ。そして、22時過ぎまで塾で待機後、解答速報で自己採点をしました。

 結果はリスニングを抜いて7.8割。
 日本史が95点と補った形にはなりますが7.8割は7.8割です。何とかここで滑り止めを確保して、初めて努力が少しでも報われたような気がして、かなり強めのガッツポーズをしたのを覚えています。

 だからこそでしょう。
 一度は折れましたが、それでも私は第一志望を諦めきれなかった。
 自分には無理だと開き直りながらも、それでも第一志望まで絶え間なく残り少しだけでもいいから努力して見せると心に誓いました。

高3、1月下半期。
 勉強して。勉強して。勉強して。

 凡人な私でもまだ何か成せると信じて。

 この時期から過去問演習を本格化しました。結果は合格最低点をぎりぎり越えないか程度。まぁそれでもよかったのです。やれるところまで努力してみようと心に誓ったのですから。

 また、早い大学だと入試が始まる時期です。私自身も偏差値40程度の滑り止め校を受験しました。

あさきゆめみし全巻

高3、2月上半期。
 受験も中盤戦です。
 いろんな大学に赴き、自分は最強だと言い聞かせて受験に臨んだのを覚えています。

 そして、第一志望受験の三日前のことです。過去問演習で初めて合格最低点を越えました。

 だからこそ、私は諦めきれなかった。まだ私は戦えると決意を胸に勉強して、勉強して、勉強して。出来損ないでどうしようもない自分でもできないことなどないと頭にリフレインさせて、机に向かったのです。

 そうまでして私は知りたかった。合格した先の一般人の景色を。凡人でもちゃんと勉強すれば何者かになれると、今まで馬鹿にしてきた人間を見返してみせると、兄のような優秀な人間になれなくてもいい、少しでも親に顔向けできる人間になると、そうして私は合格後の景色を追い求めました。

迎えた受験当日

 天気は晴れ。
 母からはきっと上手くいくと背中を押されたのが記憶に残っています。いつものようにおにぎりを二つ作ってもらい、受験校に向かいました。

 席は教室の左後方。教科は英語→国語→日本史の順でした。席間隔がとにかく狭かった。

 人生で一番緊張していたと思います。LINEで父から頑張れと一言だけメッセージが届いているのを見て自分はできるやつだと奮い立たせたのをよく覚えています。

 まずは英語。
 結果から言えば時間配分に失敗しました。言い訳ですが、過去問で比較的簡単だった大問が難しかったのです。変に粘ったところ後半は殆ど読めずに塗り絵しました。終了時、どうしようもなく心臓の鼓動がうるさかったのが記憶に残っています。

………

 初っ端から失敗しましたが、すぐに次の二教科で取り戻せばよいと考えを切り替えました。

 次に国語。
 手ごたえはありませんでした。ただ、難しいと思わなかっただけ国語は明白に易化していると、そういった印象を受けました。というのも国語が異様に難しい学部だったのです。いつもなら難しいと思うのにずいぶんレベルを下げたなと、そう思いました。
 しかし、英語の点数を取り返せたようにも思えません。心臓の音がうるさくて仕方なくて、大丈夫だから日本史ですべてを取り返そうと考えて愛用していた山川の教科書を開きました。

 昼休憩を挟み、最後に日本史。
 まぁいつも通り70点は越えてるなといった印象。こちらは可もなく不可もなく、といった具合でした。はい、可もなく不可もなくでした。心臓の音がうるさくて全部終わったことだけはわかりました。

 帰りに友人と合流して軽い答え合わせを電車の中でしました。
 共通認識として国語は易化しているなといった印象。英語と選択科目はどちらも平年並みの印象を受けました。特に国語の見立ては間違っていなかったと確信しました。もう少し点数取れればよかったな。

 友人と乗換駅で別れて日本史の問題をGoogle検索で調べました。絶対に合っていると思っていた問題でもポロポロ落としていて過去問のときのように80点越えはないなと結論付けました。

 最寄り駅で電車から降りて駐輪場でその日はなぜかゆっくりと帰りたいなと思って自転車を押して本当にゆっくりと帰りました。途中で幼稚園児のときによく遊んでいた公園を見かけて、なんかどうしようもなく疲れてしまってどうせだから少し休んでいくかとそう考えて公園に入りました。

……



 ベンチに座った瞬間、涙が止まりませんでした。
 英語の時からわかっていたんです。もう挽回は不可能だと。帰り道、友人の前でも取り繕うのに必死でした。できるだけ英語に失敗した事実から目を背けて話していました。

 不合格を確信した瞬間、涙が止まらなくて今まで大事にしていた考えが、努力が、全部ガラスのように粉々に砕け散るような感覚を覚えました。
 母には中学同様、家事の面でかなりの負担をかけていました。受験代のために共働きを母に間接的に強要しました。父にも塾代を無心し結果も出るはずもない馬鹿のためにまたしても意味のない投資をさせました。全て無駄な努力のために苦労を掛けました。

 環境を整えてもらっておいて、普通の人間なら当然のように結果を出せる環境で、当然のように私は失敗しました。3年間片思いし続けた大学でした。それがたった60分×3回の試験で全部無駄になりました。

 全力を尽くしたつもりでした。はい、頑張ったつもりでした。それでも、結局3年間頑張っても馬鹿は馬鹿のままだった。何も変われませんでした。結果を出せなくてごめんなさい。どうしようもない出来損ないでごめんなさい。兄のように優秀な人間じゃなくてごめんなさい。この顔をどうしても見せたくなくて完全に涙が枯れるまで公園のベンチで泣き続けました。

 そして、私はその日から自身をどうしようもない馬鹿で、努力の方向性すら間違い、環境を与えられても、時間を湯水のように費やしても、全力で努力しても、結果すら出せない脳に欠陥のある無能だとそう自身にレッテルを貼りました。今でも私はこのレッテルを貼って生きています。


 ということで高校生編終了。幕間を挟んで最後の大学生編です。

幕間(卒業式と余談)

 まず卒業式。
 高校の卒業式では、学校から学術奨励賞(?)と評して十数万ほどいただきました。まぁ普通に死体蹴りをされた気分でしたね。あれだけあの大学に行くと喧伝したくせして落ちているやつが壇上で表彰されているんですから笑いものもいいところでしょう。
 卒業式後、手早く部活動の友人と挨拶を済ませて学校を後にしました。まぁ中学時代よりは何百倍も充実した日々を送ったと思います。悔いはありません。

 浪人しなかったのかと思うかもしれませんが、3年間全力を尽くして無理ならもう一年しても無理だろう、そう考えていたので進学を決めました。それにこのときはまだ自殺するつもりだったので正直どうでもよかったのです。完全に燃え尽きていました、

続いて余談。
 受験後から二つのことができなくなったので共有しておきます。

 一つ目は母の作ったおにぎりを食べられなくなりました。
 はい、文章の途中にも出てきていたからあげとたらこ入りのおにぎりのことです。受験時代、毎日食べていたものなんですが、母の作ったおにぎりだけは何故か食べられなくなりました。コンビニのだと大丈夫なんですけどね。食べても口に入れた瞬間吐き出してしまう体質になりましたね。

二つ目
 高校時代に鬼のように聴いていた曲が軒並み聴けなくなりました。以下の曲です。

 他にもあるのですが、一例はこんな感じ。
 これらの曲は無理に聴こうと思えば聴けますが、聴くと勇気が出る曲から動悸が止まらなくなる曲へと変わりました。別にこれらの曲が悪いと言っているわけではありません。紛れもなく素晴らしい名曲たちであり、私の青春時代を象徴する曲です。

 まぁ何が言いたいかといえばトラウマといったものは実際に実在するということです。それだけです。

 以上。

 あとは本気で頑張ったことには涙が出るんだなと妙に感心した記憶があります。今まで努力したことなかったので。一般人が小学生の時期に当たり前のように学ぶことを高校時代の最後に学びました。

 ということで私は受験に落ちました。
 皆様、いかがだったでしょうか。因果応報、この言葉が私には似合うかもしれませんね。一応、これで前半タイトルの“最も公正で公平な試験で敗北し、”のタイトルを回収したことになります。続いて後半部分を大学生編で回収します。
 不合格体験記で読みに来た方はお疲れさまでした。お読みいただきありがとうございます。最後まで読み進める方はあともう少しだけお付き合いください。

大学生編

大学1年生編

 2000年代~2010年代半ば、私は無事に第一志望としていた大学と同ランク(予備校で設定されている大学群)の大学に進学しました。同ランクといえど私が片思いし続けた大学ではありませんので劣等感がひどく毎日死ぬことばかり考えていたと記憶しています。
 正直、私からすれば第一志望以外全てFランク大学扱いです。私の基準で当てはめると東大ですらFランですのでご理解していただいきたいですね。

 それでは、まず自殺から。
 端的にいうとできませんでした。まぁこの記事が投稿されている時点でわかると思いますが生きてます。

 縄まで買ったのはよかったんですが、どうしてもその先ができませんでした。首に縄をかけたことがある人ならわかると思うんですが、椅子の上に乗ってロープを首にかけた段階で冷や汗が止まらなくなるんですよね。

 ”あっ俺、今から本当に死ぬんだって”

 そう自覚するとどうしても椅子を蹴飛ばすことができなくて過呼吸のまま断念。スマホを弄って不貞寝しました。

 大体それを両手で数えられる程度繰り返した後、俺は自殺もできないカスで本当に死ぬ気で受験すらできていなかった無能だとレッテルを貼って朝一でロープを捨てました。この経験で自身の大切にしていた文字通り死ぬ気で勉強したという証さえも否定することになってしました。

 あとは自殺決行期間中も何食わぬ顔でツイートしていましたが、Twitterでの交友関係を捨てるのは惜しいと思ったこと、読みたかったweb小説、ニコニコ動画で追っていた動画の最終回更新が未定だったことなどから自殺を取りやめました。
 ここで私の呪いとなっていたサブカルチャーに命を救われたのです。ある意味、自己を正当化しただけかもしれませんが。

(これらは私が生きている間に終わるんでしょうか……?)

 あとは首に縄をかけた時点で反射的に喉に力が入って気道を確保しようとするのも敗因の一つですね。本当に自殺しようと思う方がいたら力を抜いている状況で一思いにやらなきゃだめということだけ言っておきます。

 以上。

 次に人間関係。
 入学後、手早く卒業式・オリエンテーションを済ませ、持ち前の処世術と高校デビューで培ったキョロ充スキルを駆使し、無事に関係性の薄い友人、所謂よっ友を量産しました。

 ただ、私はここで思い悩みます。

 ”本当に高校時代のように友人を作ってよいのか”、と。

 というのも高校時代、人間の悪意といったものに嫌というほどに触れて人間関係に疲弊していたのもありましたし、根本的に人間関係を構築して周りに合わせて行動するのが苦手な人間だって学んでいたんですよね。

 そんなモラトリアム特有の葛藤もあり、私は大学ではその気になれば一切友人など作らなくてもどうにかなること(父親談)を鑑み、大学では積極的に人と関わるのをやめました。おかげで大学の友人は冗談抜きで0人です。本当にありがとうございました。

 とはいえ、一人でいることが本当に心地よく何より気楽で楽しく過ごすことが出来たので選択は間違っていなかったと思います。根から虚無キャなんでしょうね。大学4年間、間違いなく充実した日々だったとだけいっておきましょう。

 他大学への転入も考えましたが、第二外国語の単位要件を満たすことできず断念。何も考えずに履修したことがここになって響いてくるとは……。

 ということで私は大学へは毎日希死念慮を抱えながら通い、誰ともかかわらずに独力で単位を取得。一年次はその記憶以外ありません。
 あとは自殺願望を鎮めるために大学近くのラーメン屋を巡ったりしてました。なんだかんだで私は生きたかった。

 それはそれとして美味しかったです。(小並感)

大学2年生編

 大学二年生上半期
大学二年次のトレンドは奨学金返済のためにバイトを始めたことです。厳密には大学一年後期から。
 大学一年次のときは社会の状況とか精神状態がそれどころじゃなかったので奨学金で賄っていましたが、さすがに社会に出て奨学金という名の借金を数百万抱えるのはきついなと考え、アルバイトを始めることにしました。
 あとは娯楽費確保目的ですね。とはいっても私、趣味がインターネットで完結しているので1か月5000円も使わないんですけど。

 アルバイトの一つ目は、カラオケバイトにしました。しかし、初日から何の説明なくワンオペやらされてやばそうだったので翌日辞める旨を伝えました。社会不適合者にもほどがあるな。
 結局、二つ目に決まったレジ打って笑顔振り蒔くタイプのサービス業に落ち着きました。正直、サービス業の辛さを身に染みて理解しましたね。サービス業を経験したおかげで今日も今日とて窓口の人間に優しくできます。サービス業は義務教育に組み込んだほうがよいとも思ったくらいです。


 そんな適度に労働をして生きる屍のように過ごしていた私ですが、大学でなあなあに日常を過ごしているとある広告が目に入ります。

街中に貼ってあったTACの広告

 はい、公務員採用試験のチラシです。


 ……思えば私は20年近く生きてきて一度も成功体験を手にしたことがありませんでした。
 優秀な兄に勝手に劣等感を抱き、自身の能力不足を嘆き、大学受験では自身が凡人でもない本物の無能ということまで突きつけられています。既に私の自己肯定感はボロボロで何をやっても駄目でどうしようもない無能だと、そう自身を定義づけていました。

 それでも、心の底ではどこからでもいいから自分自身の努力を客観的に世間から認められたかったのです。そして、自分で自分のことを凄いと誇れるような、そんな成功体験がほしくてたまりませんでした。

 何より私は両親に謝りたかった。中学時代のあの醜態を。よくやっていたと勘違いされたまま進むことなどできないと思ったのです。そして、安心してもらいたかった。自分みたいな無能でも何とか生きていけることを。

 まぁつまり何が言いたいかといえば、私は“合格”と“成功”、この二文字がどうしようもなく欲しかったのです。

 ということでまたしても受かるかもわからない、成功するかもわからない終わらない努力へと歩みを始めました。これが最後のチャンスだと信じて。

 それでは、一度公務員採用試験の簡単な概要と需要のない敗因分析を挟みます。

幕間(概要と大学受験の敗因分析)

 この項では公務員採用試験のざっとした概要を説明します。わかる方や興味のない方は読み飛ばしてもらっても構いません。

 さて、そもそも論、公務員採用試験って何をするのか分かってない方々も多いと思います。ここでは、事務職を例に、公務員採用試験の概要を話したいと思います。

 公務員採用試験とは、文字通り公務員を採用するために実施する選抜試験のことです。大きく分けると一次試験(筆記)と二次試験(面接と論述)、官庁訪問(最終合格者面接)の3つに区分されます。

 一次試験は筆記で専門科目と教養科目、そして同日程に実施される論文に区分されます。
 所謂、足切りってやつですね。ボーダーは毎年60%~70%くらいです。50%~のところもあります。(その代わり、二次試験の比重がかなり大きい)

 まともに全科目勉強しようとすると専門と教養、論文合わせて30科目以上勉強することになります。それぞれの科目の内容は、以下の通りです。

教養
文章理解(現代文・英文)、数的処理(数的推理・判断推理・図形、空間把握・資料読解)、社会科学(法律・政治・経済・社会)、人文科学(日本史・世界史・地理・思想・芸術)、時事、自然科学(物理・生物・化学・地学)etc.

専門
憲法、民法Ⅰ、民法Ⅱ、行政法、労働法、刑法、商法、ミクロ経済学、マクロ経済学、政治学、行政学、社会学、経営学、教育学、心理学、国際関係学etc.

論述
教養論文(当日指定されたテーマで論述。1000字程度)、専門記述(専門科目の論述版。800字程度)

 ……科挙かな?

 ただし、ここに書いた科目全てを勉強する訳ではありません。

 というのも、公務員採用試験の多くは科目選択式が取られているからです。数ある科目の中から40問分科目を選択して答えてね、といった感じです。
 実際に解答するのは専門、教養合わせて13科目程度。勉強するのは15~20科目程度だと思ってもらって構いません。

 それでは、これに沿って考えてみると……

教養
文章理解(現代文・英文)、数的処理(数的推理・判断推理・図形、空間把握・資料読解)、社会科学(法律・政治・経済・社会)、人文科学(日本史・世界史・地理・思想・芸術)、時事、自然科学(物理・生物・化学・地学)

専門
憲法、民法Ⅰ、民法Ⅱ、行政法、労働法、刑法、商法、ミクロ経済学、マクロ経済学、政治学、行政学、社会学、経営学、財政学、教育学心理学国際関係学

論述
教養論文(当日指定されたテーマで論述。1000字程度)、専門記述(専門科目の論述。800字相当)

 はい、ずいぶんと少なくなりました。
 こんな形で私も見かけ上ですが、17科目+論述2科目を選択して勉強しました。正直、20科目以上勉強している気分でしたけどね。

 二次試験は、面接です。
 一次試験合格者を対象に選考されます。面接官3人、受験生1人で学歴は見られず行われます。待機時間、脅威の7時間とかもあります。私は一回の面接のために6時間待ったことがありますね。

 そして、最後に、一次試験(筆記)の結果と二次試験(面接+論述)の結果を合わせて点数化したものが自身の持ち点となります。この持ち点が合格最低点を越えていた場合、晴れて最終合格となります。やったね。

 まぁ最終合格は名ばかりで、官僚となる資格を得られただけであったり、最終合格前に事実上の内々定を出す官庁訪問に行かなければならなかったり、色々と例外があって面倒なのですがその辺は自分で調べてください。

 確かにいえるのは内定が出るまでが公務員“採用”試験ということです。

 以上。これが公務員採用試験のざっとした概要です。

 次に大学受験の敗因を分析。

①遠回りが多かった
②努力の方向性が間違っていた
③合格体験記を妄信するのではなく自分の勉強法を確立すべきだった

①遠回りが多かった
 高校時代初め、学校の定期テストの勉強をしたり頻出を考えず闇雲に勉強したのが敗因だと考えられた。実際に大学受験向けの勉強をし始めたのは塾に入ってからの可能性も否定できない。つまり、わざわざ遠回りをして、無駄なことに時間をかけていたのだ。これでは大学受験に受かるわけがない。勉強内容を取捨選択することを厳命した。

②努力の方向性が間違っていた
 高校時代初め、勉強の方法がわからず闇雲に勉強をしていたが、もしかすると高校3年間、間違った方法で勉強を行っていた可能性がある。というより、そうとしか言いようがない。復習すら知らなかった人間ではあるものの、努力ではなく結果が評価される大学受験でこれは致命的である。手段のフィードバックを行うことを厳命した。

③合格体験記を妄信するのではなく自分の勉強法を確立すべきだった
 勉強がわからなかったなりに頼っていたのが合格者たちの体験記である。確かに合格体験記は有益であるが、その合格者たちと自分の能力には大きな乖離があったことを留意すべきであった。なぜなら、小学校から中学校の9年間、全く勉強せずに偏差値30代の高校に進んだ自分ビリギャルのように努力をして曲がりなりにも進学校に通っている合格者とは初期ステータスが全く異なっていたのだから。これでは第一志望に合格できるわけがない。自分の能力・状況に見合った方法を自分なりに考えて勉強することを厳命した。

 以上。ざっとした備忘録を挟んだところで大学2年下半期に入ります。

大学2年下半期
 公務員採用試験を受験するにあたり、自身が生粋の馬鹿だとわかっていたこともあるので3年生から始まる学内講座を取ることにしました。大学と予備校が提携して安く受けられる講座のことですね。

 はい、当たり前ですが、金銭的な問題が出てきます。
 今までは学費を払えさえすればよかったので緩くアルバイトをしていました。しかし、こうなると大学の学費と講座の予備校費、三年から四年にかけての生活費が必要になってきます。勉強時間も必要ですからね。
 それもあって滅茶苦茶アルバイトを入れたのを覚えています。入れる時間全て入りました。バ畜ってやつですね。講義後にその足で閉店ぎりぎりまでアルバイトしていたのが記憶に残っています。特に試験前は時給が高くなったりして割がいいなとか思ってました。勉強しろ。

 また、公務員採用試験に向けて主要専門科目(憲法・民法ⅠⅡ・行政法、マクロ経済学・ミクロ経済学)と主要教養科目(数的処理)の参考書を買って勉強しました。

公務員試験 過去問攻略Vテキスト

 印象としては、専門は結構面白いなと思った印象。暗記ですから日本史大好きな自分と相性が良かったのでしょう。大学生として学問的な探究心も刺激されました。
 一方で、教養の数的処理は高校時代、まるっきり数学を捨てていたこともあったので初め何が書いてあるか全く理解できませんでした。下手すると、中学時代もまともに数学やってないので最後に算数を勉強したのは小学生ぶりだったかもしれません。
 冗談抜きで小学生向けのテキストを購入し一から勉強しました。正直、屈辱でしたが、何をやるにも遅すぎることはないと自分に言い聞かせて参考書を開いたのが記憶に残っています。

大学3年生編

 大学3年前期
 アルバイトを3月で辞め、遂に公務員採用試験講座が始まりました。 
 内容はまぁ思っていた通りでしたね。同時に受ける価値のある講座だと思いました。有能な方は独学でもいいんでしょうが、私みたいな無能には十分に必要な内容だったと感じます。

 また、講座が始まるにあたり目標設定を行ったのを覚えています。公務員にも国家公務員であったり地方公務員であったりいろいろありますからね。なりたい公務員を決めておくべきだと、そう思ったんです。

 そこで、私は第一志望を国家総合職(旧国家I種区分)に、目標を“一次試験に合格しできるだけ多くの人を蹴落とすこと”にしました。

 第一志望が国家総合職というのは客観的に見て世間で一番評価されるのは国家総合職だと考えたから。大学受験でいうところの東大枠かなと、そんな安直で不純な理由です。
 正直、大学受験と違ってなりたい公務員がなかったんですね。なので、世間から見ても一番難しいと思われている国家総合職にしました。(余談ですが、実際は国立国会図書館採用が一番難関だと言われています)

 続いて目標の説明。
 一次試験のみというのがミソで無能が頑張れば、”それなりに青春して当たり前のように進路を決定しようとする凡人たちの足元を掬える”と考えたから。
 私はとにかく一人でも多くの受験生を蹴落として私と同じ気持ち味合わせたかったんです。極めて醜悪で他者を蹴落とすことしか能のない目標だったと今でもそう思います。
 二次試験(面接)は正直どうでもよかった。こんな目標を立てるような人間がお国のために頑張れるわけないでしょう? 面接した瞬間、考えを見透かされて落ちるのが目に見えています。

 はい、当時の私は公務員採用試験のことを自身の実力を証明してくれる手段としてしか見てなかったんです。つまり、私は大学受験と同じように“自身が首に掲げるメダルのために”公務員を志しました。

 というか当時の心境的に国家総合職に限らずどの公務員採用試験にも受かるわけがないと思ってたんですね。国家総合職の筆記は確かに別格の難しさですが、それ以外の公務員採用試験も普通に難しい、解ける気がしなかったんです。自己肯定感がボロボロすぎてどうせ落ちるなら他者の足を引っ張って落ちよう、そういった考えしかありませんでした。

 ということで、就活に本腰をいれるのは4年の秋、民間就活にするつもりでした。受かるわけがないので。無能でも凡人の足元を掬えるように何とかして他者を蹴落とすこと。あわよくば合格しコンプレックスを解消、成功体験を作ること。そして何より、両親に謝罪できるぐらいの客観的に認められる結果を出すこと。

 これらを踏まえて上記の内容を目標に据えました。まぁそれでよかったんです。無能なりにやれるとこまでやってタダでは死なずに散ろうと、そんな想いが込められた目標でした。

 勉強については、大学生特有の有り余る時間を活かして全休の日は9時から23時まで勉強していました。昼と意図時に設定していた睡眠時間を抜くと大体一日13時間程度。無能なことはわかっているので質の良い勉強など考えませんでした。というより考えられなかったのが正しいですね。とにかく量と馬鹿な自分でも考えられる方法(質)で勝負しよう、それだけを考えて行動していました。

実際に使用したタイムロッキングコンテナ

 とはいえ、机に向かってはしていましたが、大学受験時代と比べると心あらずで勉強していたとも感じます。高3冬の河合模試の後、心が折れたと書きましたが、本当にメンタルが折れてしまったんです。常に心あらずでふわふわとしていました。わかる人にはわかると思いますが、急激にストレスがかかるとなるあのふわふわ感です。

 それでも、私には勉強しか残ってないのでやらない理由にはなりませんでしたがね。


 電車での移動時間と寝る前の数時間だけが私の娯楽の時間でした。23時以降にラーメン巡りをしたりしたんですが実に大学生らしかったなと、ある種感動を覚えていましたね。ベクトルが違うと思うんですけど(名推理)


 次に人間関係。
 3年生といえば入らなければ卒業できないものがあります。そうです、ゼミナールです。
 大学1、2年とお客様に笑顔を振りまく以外はカオナシだった私が数年ぶりに人間関係構築のために奮闘しました。
 ……はい、ゼミナールの時間はいつも憂鬱だったとだけいっておきます。

大学3年夏休み
 変わらず勉強に熱中していました。
 2年のうちでやっていた主要科目に加えて、専門は行政学・社会学・政治学など。教養はあまりに数的処理ができなさすぎて人文・社会科学に手がつかず死にそうになりながら計算問題を解いていました。たった20問理解するのに4時間とかざらにかけてましたね。時間があるからこそできるパワー系ソリューションだったと思います。

remin DO

 講座中、全体講義で数的処理の講師と一緒に問題を解くのですが

「これは簡単。解けてほしいね~」
「数的処理は小学生でも解ける!」

 とか講師の方が発言するたび頭に血が昇ってシャーペン折りそうになっていました。自身の今まで歩んできた情けない人生を指摘されているようで。

 そんな自身への反発心をバネに反骨精神を胸に抱いて私は努力し続けました。全ては私の不甲斐ない人生に投機させ、そんな私でも支えてくれた両親に謝罪するために。


 また、企業のインターンシップにも参加していました。
 ゼミの人間に「えぇ!? 葛藤君、インターン参加しないの~!?」と煽られたのが原因です。(被害妄想)
 参加した感想としては、参加者の大半が上澄みの大学ばかりでなんで私みたいなカスが参加できているんだ……?そんな気持ちになりながら参加していました。周りが優秀な人ばかりでレベルが違う印象を受けましたね。こんな中で俺は本当に就職できるのかとも思いました。

大学3年後期
 後期も勉強して、勉強して、勉強して、
 後期にもなると単位をほぼ取り終えていたので入っている授業は3コマのみ。それ以外はほぼ勉強の時間に充てていました。本当なら大学はサブスクリプション式なのでとれるだけ授業取ったほうがいいんですけどね。

 そんな考えを押し切ってでも、私は一般人が中高で当たり前のように努力して獲得する成功体験を、そして付ける自信を、どうしても今この時ほしかったのです。

 続いてゼミナール。
 ゼミナールの人間関係も熟してきて陰口の絶えないゼミになっていたのが記憶に残っています。
 特に女性陣は表面上、仲が良く見えても裏では陰口のオンパレードでとても怖かったのが印象的でしたね。ゼミナールでの一番の学びは、女性の態度は一切信用できないことです。
 そして、高校が特有ではなく陰口はどこにいってもあるものでそれは社会人になっても逃れることができないものだろうな、と自分に確信づけました。何故、同じ人間なのに他者を軽蔑し罵ることができるのか、そんな哲学的なことを考えていた記憶があります。

 そんなときはいつも図書館に行って本を借り、行き帰りの電車の中で没頭しました。あれ? 結構大学生っぽいかもと自分に酔っていたのを思い出します。大学生なんだけどな……。


 また、ゼミの教授が就活に向けて1on1で面談をやるということで参加しました。そして、なぜかその場の雰囲気に流されて"全て"を話しました。中学時代のことも、学歴コンプレックスに悩み公務員採用試験に挑んでいることも、全て。正直、ドン引きだったと思います。弊学のことを目尻に涙を溜めながらFラン呼ばわりしましたからね。

 そこで教授から言われたことが、

「君のコンプレックスは学歴コンプレックスではなく成功コンプレックスではないのか」

 ということでした。

 考えたこともありませんでした。私の心のもやもや感は大学受験の失敗によりもたらされたコンプレックスが原因だと思っていたのですから。
 今まで学歴コンプレックスだと思っていたものがそうではないかもしれない。まさしく晴天の霹靂でした。
 同時に一次試験にさえ通ればこの折れてしまった心も、両親への負い目も、兄への劣等感も、何よりこの思考を歪めている強いコンプレックス意識も全て消えて解決するのではないか、そう思うようになります。

 ということでFラン呼ばわりしたことを教授に謝罪をして教授室を後にしました。本当に申し訳ございません。この場を借りてお詫び申し上げます。

大学3年,秋
 一回目の試験である国家総合職試験教養区分を受験しました。
 国家総合職試験には、教養試験のみで受けられる教養区分と専門・教養で受けられる試験区分があり、この試験はこのうちの前者となります。

 まぁ受験慣れってやつですね。照準は春に実施される採用数も多い後者の試験で、合格するつもりもなく一応、申し込んだ程度です。正直、周りは寝ている人も多く、緊張感は殆どありませんでした。参加しなくてよかったぐらい。

 とはいえ、問題はとてつもなく難しかったです。問題文に音楽の問題とか出てましたからね。確かに教養だけどさ……、と思いました。過去問見ずに受験した自分にも問題がありますが、初見で国家総合職はやはりレベルが違うなと実感した瞬間でもありました。

 結果はもちろん不合格。気合を入れなおしました。

 大学3年冬休み
 冬休みも勉強して、勉強して、勉強して、
 辛いときは目に焼け付いて離れない、泣かせてしまった母の顔を思い出しました。そして、高校時代、死力を尽くしていた自身の幻影を追いかけ続けました。受験時代の私が幻影となって常に一歩前に進むのを何とかして追い付こうと、そして追い抜こうと努力しました。


 そして、そんな私は遂に数的処理が解けるようになり……ませんでした。
 確かに速さや割合の計算、原価を求める計算すらできなかった私にしては頑張ったほうだと思います。日常生活でそれらを応用できるようになっていたんですから。
 それでも正答率が上がりませんでした。私はちょっと捻られるとわからなくなってしまう典型的なマニュアル人間だったのです。公式以上のことが全くできなかったんですね。
 そして、今までやってこなかった人文・社会科学のツケを支払わせられました。特に日本史ガン振り人間だったので世界史とか地理は本当に辛く……誰もいない自習室でヒーヒー言いながら演習を積んだのを覚えています。

 また、この時期になる迷走し始めます。
 取り敢えず秋採用まで放置しておくつもりであった民間の就活を急遽やり始めたのです。公務員採用試験に格好をつけて無職になるのが怖かったんですね。落ちたらちょっと教養あるだけの資格なしニートですから。
 ということで、オンライン説明会聞きまくり、自己分析をやりまくり、自己PRを作りまくり、謎に民間に備えました。(?) 

 正直、説明会見ているとどこも実力主義とかで気分が悪かったですけどね。

 ”実力主義! 裁量アリ! 若いうちから成長・活躍!”

 無能な私がそんな環境でついていけるわけないだろ!

 内心、全ギレしながら視聴していました。

 大学3年、1月
 はい、勉強していました。
 時事の問題と財政学の時事の問題、論文の暗記を泣きながらやっていました。特に論文、800字も本番自分の脳内の記憶だけでかけるわけがないと考えていました。
 正直、後悔していましたね。軽い気持ちで、自身のコンプレックス解消のために、お国のために尽くすという高尚な考えもないのに公務員採用試験に臨むなんて、考えないほうがよかった。

 落ちれば恐らく無職でしょう。あんなカスみたいな目標立てておいて官庁も民間も面接が通るはずないんですから。私は精神的にも社会的にも死んで最後、身体的に自殺するんだとも考えていました。


 とはいえ、折れた心で折れるものなんてもうありませんでした。
 つまり、何が言いたいか。大学生という身分に守られ、仮にも一度3年分の努力を失い、完全に折れ切った心を持つ私はもう無敵の人間でした。

「何としてでも俺より下の受験生を道ずれにする……っ」

 もうそのことしか考えてなかったと記憶しています。

 同時に

「私立の3教科軽量入試の人間が15科目以上も勉強できるわけねえだろうが!」

 とブチぎれながらも勉強していました。

大学3年、2月
 講座の指導で本格的な面接対策が始まりました。割と冬休みで自己分析をやったつもりでしたがそれでも大忙しだったと記憶しています。面接カード(民間でいうESのこと)一枚仕上げるのに何日も費やしましたね。一次と二次の期間が殆どないとはいえ、何故受かってもないのに面接カードを作らなければならないのか、虚無でしたねもう。
 多い時には講座と就職課、労働局、そしてしごとセンターを梯子して面接対策したのを覚えています。毎日一回は就職課に行ってたので就活が終わるまで最低150回以上は模擬面接を積みました。

 自己分析では、素直に人生で頑張ったことを大学受験と書いたところお前の大学では無理と赤字で返されたりしました。講座と就職課、労働局全てにおいて大学受験エピソードは否定されたのでよっぽど就活という嘘つき大会は建前と学歴コンプではない人間を求めているんだと思います。

 そんな虚無のなか、直前期まともに勉強時間をとれると思わないほうがいいといっていたと死んだ顔で先輩の顔を思い出していました。数的処理まだ解けないんだが……。


 また、民間で初面接に挑みます。
 正直、オンライン説明会では就職したいと思う企業が殆どなかったため、逆求人アプリを利用しました。逆求人アプリとは、強みやガクチカをプロフィールに記載しておくと企業側から“面接したいです“ってオファーしてくれるアプリですね。煩わしいES選考もないので気が楽でした。

 SPIはありましたが数的処理の何倍も簡単だったので問題なく通過。こればかりは割合の計算すらできなかった自分の成長を実感しました。

お祈りしてきやがった企業の実際のメール

 はい、結果というとお祈り。

 まぁ喪失感が半端ないですね。お前がオファーしてこなければ何問解けたと思ってんだよ……。

 就職課の人間と敗因分析をしたのですが、面接中にESのことを面接カードといったからではないのかと指摘されました。どうやら面接カードは公務員採用試験特有の言い方らしく、民間の面接で口に出すのはタブーと言われていると詰められました。内定時期も異常に遅ければ企業からも敬遠される、それが公務員受験生らしい。

 また、この時になると自身の高校時代を象徴する曲をまた聴き始めます。
 はい、上で挙げた例の動悸のする曲です。狂ってると思うかもしれませんが、それでも私は自身にかけた”呪い”を乗り越えなければなかった。

 もう解放されたかった、それだけ言っておきます。

大学3年、3月
 相も変わらず勉強して、勉強して、勉強して。たまに面接対策をしてまた勉強に戻って……。その繰り返しだったと記憶しています。受ける予定の官庁の申し込みを終えて決意を胸に勉強していました。

 そして、ここで賭けに出ます。数的処理が上手くいかないことを鑑み、数的推理、判断推理諸々すべて捨てることに、代わりに人文・社会科学に全振りすることにしました。
 我ながら狂ってたと思いますね。というのも教養試験において、数的処理は必答でかつ総問題数のうち約40%を占めます。もはや博打でした。

 それでも後にはひけなくなっていました。もうやるしかないなと。

 私はどうしても知りたかった。合格した先の一般人の景色を。無能でもちゃんと勉強して絶え間なく勉強すればせめて凡人にはなれるはずだということを、合格しさえすれば全て解決するはずだ、兄のような優秀な人間になれなくてもいい、少しでも親を安心させられるような人間になってみせると、そう考えて、私は数年前と変わらず合格後の景色を追い求めました。



 一方で、この辺でとある病にかかります。はい、お気づきかもしれませんが某流行病です。そして、症状が収まってきた頃、外食をした後日、とある病気にかかります。はい、ウイルス胃腸炎です。

……

 悔しくて仕方がありませんでした。仮にも第一志望の十数日前に療養を要求されたのです。ちゃんと対策を打っていたつもりでした。それでもだめでした。こんなところでまた夢が潰えるのかと悔し涙を流したのを覚えています。

 ただ、言い訳もいいところなので間接痛を引きずりながら無理にでも机に向かって勉強のを覚えています。この時は自分を物語の主人公だとも思って酔ってもいましたね。お恥ずかしい限りです。

 ただ、それでもよかった。
 私は何としてでも“合格”と“成功”、この二文字が欲しかっただけなのです。


大学4年生編

大学4年次、春某日。国家総合職試験当日。
 場所は某大学。朝方なので若干寒かった。あと駅から大学までの距離が遠く、試験会場に着いたときにはもう疲れていました。座って勉強ばっかしてるからですね。
 試験直前まで大した緊張はしていなかったと記憶しています。無能なりにそれなりにやってそれなりに結果を出すと、そう考えていたからかもしれません。

 まぁ受験当日の心境としては一言で十分でしょう。

 「俺がこの中で最強だと証明する……っ」

 そんなことを考えながら数的処理すらできない人間が試験に臨みました。


 はい、所感としては全体としては手ごたえありでした。
 確か専門は3時間30分、教養は3時間。専門はまだしも教養は時間があまり余りましたね。だって40%分まともに解けていませんから。40問×2に6時間と少し、本当にまともに問題を導き出せる人間は足りなくなるのかもしれません。私みたいな無能は消去法で無理やり答えを導き出すことが殆どでしたので。

 閑話休題。

 何はともあれ全て終わりました。翌日には人事院より公表される解答で自己採点もできたのですが、しませんでした。国家総合職一次試験が終わったところでまた次の公務員採用試験があるのですから。


大学4年同月某日
 遂に合否発表の日になりました。パーソナルレコードという個人ページでも合否を確認できるのですが、サーバーがダウンしていたこともあってPDFで公表された番号で合否をチェックしたのを覚えています。

 自身の区分、受験地を選んで開いて、少しずつ手で隠しながら自身の番号に近づけたのを覚えています。
 少しずつ少しずつ動かして……途中自身の番号がなくげんなりしたけど下二桁が違う場所で。もう一回正しい場所で同じことをして少しずつ少しずつ動かして……。


 そして、あった。あったんです。私の番号が。


 嬉しかった。ガッツポーズもしました。LINEで真っ先に両親にも報告しました。私の努力は全て報われたんです。努力は意味のあることで高尚なものだ、そう思いました。


………


 はい、あったんです。それだけでした。


 “あれ、なんか思ってたのと違うな”

 あれほど欲しかった合格が、あれほど追い求めていた成功が思っていたものと違ったんです。合格すればもっと晴れやかな気分になるはずで……全部解決するはずで……。
 いや、こんなはずはない。最終合格をもらっていないからか? 内定をもらっていないからか? わからない。でも、試す価値はあるだろう。だって、私は何千人モノ人間を蹴落として合格を掴み取っているのだから。そう考えて二次試験の対策テキストを開きました。

大学4年5月某日
 国家総合職の二次試験の一回目が実施されました。内容は論文試験。
 国家総合職の論文試験は筆記と同日に行うことができない都合上、別日程で論文試験が行われます。というのも筆記の時間が長すぎるのが原因です。論文も同じくらい長いので下手すると10時間ぶっ続けで試験することになっちゃいますからね。さすがにそれは許容できないのでしょう。

 さて内容は、政策論文と専門記述。
 政策論文は2時間。手書きで1500字程度。
 英文を含む資料3つを駆使して論述させられます。

 専門記述は3時間30分(?)。3題を手書きで一題1000~1200字×3ぐらい、合計約3000字。(?)
 受験後に一日で手書き5500字書かされたとかいっているツイートが残っているので多分それぐらいのはずです。

 試験区分ごとに指定された3題の専門テーマの内容について記述。これは憲法とか民法、あとは国家総合職試験特有のでいうと公共政策とかですね。政策のセオリーさえ理解すれば得点源としては公共政策が一番美味しい。

 政策のライフサイクルを理解していれば多分書けます。

 国家総合職の論述試験は異様にインターネット上での情報が少なく、その殆どがあてになりません。情報社会を生きてきてインターネットも全く当てにならないときがあるんだなと思いました。こればっかりは予備校の力が必要だと感じます。

 この記事を読んでいる方で論文試験に挑もうと情報収集している方がいたら一点伝えておきますが、恐らく国は高尚な政策の提示でも、若者らしい奇抜な発想を求めているわけでもないと思います。論文試験で測ろうとしていることは一つ、文章を順序だって書く力があるか、この一点に尽きると思いますね。参考にしてみてください。

 まぁ所感としては可もなく不可もなく。
 一日に5時間30分ぶっ続けで手書き5500字はまぁ辛かった記憶しかありません。手書きを1000字以上の文なんて高校で反省文書かされたのが最後ですし。しかも何故か制限時間あるし。心の中でDX化を推進しろと叫びました。多分、生きている間に試験がデジタル化されることはないと思いますが……。

 ということで論文はブラックボックス、答え合わせしようにもしようがないので次の試験に向けて行動しました。

 続いて、大学4年同月某日
 国家総合職二次試験の2回目が実施されました。内容は人物試験。面接です。
 面接官3人 on 受験生1人、15分で行われる人事院面接です。試験会場に到着すると職員に案内され、指定された番号席に誘導されます。待合室はスマホ禁止、私語厳禁とかなり厳格な雰囲気だったことを覚えていますね。
 下手すると5時間近くは面接カード見て過ごすことになるので注意。本でも持っていきましょう。私は虚無になりながらパンフレット捲っていました。(1敗)

 職員に案内されて、面接に近づくにつれて、私は色んなことを考えていました。
 十中八九薄汚い考えが見透かされているだろうなとか、ここで成功すれば精神を蝕むコンプレックスも、気持ち悪い考え方も全部よくなるはずだとか、……もしかしたら合格しただけでは何も得られないのではないか、とか。

 ……まぁ結局それでもここまで来たのでやるしかないかと思ったんです。

 そう考えて面接室に足を踏み入れました。

 所感としては可もなく不可もなく。
 人事院面接は15分なので殆ど深掘りもありません。ひたすら面接カードに沿って会話して終了。致命的なミスはしてないなとは思うが……邪悪な考えを読みとられている可能性もあるかもなど考えていました。考えより受け答えできるかを見られていたように感じます。その日は行きつけのラーメン屋に寄って家帰って不貞寝しました。


 そして、時は過ぎ最終合格発表日。
 寝過ごしていたこともあってパーソナルレコードという個人ページで合否を見ました。布団に包まりながらページを開いたのを覚えています。


 結果はなんと合格。
 正直、滅茶苦茶驚きました。何だかんだいって嬉しかった。自分の努力が報われたようで。追い求めていた第一志望に最終合格。目標もクリア。世間から認められる断然たる結果。

「俺はやればできる凄いやつなんだ! はーーっはっはっはっ!!!!」


 ……はい、それだけでした。

 最終合格で何も変わらないなら内々定を貰えば変わるはず。絶対変わるはずだ。あぁそうだ、俺は何千人も蹴落としてここに立っているんだから。世間の人間とはレベルが違うんだよ。内々定貰ってこの考えを確固たるものにしてみせる。そう自分に言い聞かせて。


 最終合格よりも官庁訪問(内々定のための面接)のほうが鬼門ということが分かっていたのですぐさま面接対策に移ったことを覚えています。最終合格の意味は官僚の資質があると認められたということ。「省庁独自の採用面接に来ていいよ」の資格です。

 つまり、最終合格≠採用。この辺、世間と乖離があるんですけど。

 論文、面接評価は明かしませんが、どちらも人並みのことをすれば十分上振れの点数を貰うことができるとだけ言っておきます。特に面接評価は多くの受験生が面接対策まで手が回らないからか評価がかなり緩い、自称コミュ障・人見知りでも十分戦えると思います。


迎えた官庁訪問当日。
 ざっと説明しますが官庁訪問とは、省庁が実施する“採用”面接のことを指します。
 昔は業務説明会の意味合いが強く、官庁訪問終了時に「どうする? 面接受けてく?」みたいな軽いノリが時代が進むにつれて採用面接に転じたものだと予備校講師が言っていました。真偽不明。

 官庁訪問用語として、面接期間が第一クールだとか、面接区分が秘書課面接と原課面談(事実上の面接)に分けられるだとか色々あるんですが割愛。この辺、かなり複雑で自分でも完全に理解できていません。

 理解してほしいのは一点のみ。
 官庁訪問は、志望官庁に丸一日拘束されて行われる採用面接ということだけです。省庁によっては終電まで続く“受験生vs 受験生 vs 官僚”の面接会、回数を経るごとに隣の人が呼び出され消えていく“デスゲーム”だと思ってもらえば問題ありません。

 ということで私も某省庁の官庁訪問に参加しました。最終合格から時間がなく頭に志望官庁の政策と白書を叩き込んだのを覚えています。

 まぁ参加する気持ちとしてはいつもの一言で十分でしょう。

「俺がこの中で最強だと証明する……っ」

 そんな醜悪でどうしようもない人間が“デスゲーム”に挑みました。


 全て語ると量が膨大になるので私からは一つだけ印象的だったエピソードをお話します。

某省庁,第一クール△日目
 時刻は夕暮れ過ぎ。面接〇回目終了。
 日程を重ねていくと顔見知りも多くなることから待合室は和気藹々としていたのを覚えています。人事院面接と違って私語厳禁ではなかったので情報交換とか未来への展望とか、そんな話をした記憶がありますね。特に皆さん、総合職志望するだけあって高尚な考えを持っていたと思います。国のために全力を尽くすといったそんな感じのやつ。(小並感) 私も媚びへつらった高尚な考え(笑)を披露して牽制しました。


 最後の面接から2時間くらい経過していたときでした。そんな和やかな雰囲気の中、待合室担当の職員が前に立って口を開きました。

「はい、今から名前を呼ぶ方は荷物をすべて持ってお越しください」

 ”荷物をすべて持ってお越しください”

 官庁訪問において事実上の不採用通知の意味で用いられる定型文です。別名、エレベータ―送り。(エレオク) 
 民間就活でもエレオクが話題になったりしますが、元ネタは官庁訪問です。エレオクされた場合、十中八九不採用だと言われています。だって、他の人がまだ面接しているなか自分たちだけ棺桶に送られるんですよ? つまりは“そういう”ことです。

「~さん、~さん、~さん………」

 室内は先ほどと打って変わって異様な静かさ。心臓の音がうるさくて仕方ありませんでした。

「最後……、モラトリアム葛藤さん。以上です。今呼ばれた方々はこちらにお越しください。」

………。

 エレベーター前で「今日の官庁訪問は終了です。また何かあったら連絡します(連絡しない)」の社交辞令を告げられ解散となりました。エレベーター内はさながら棺桶のようで皆さん顔が死んでいたことをここに記録しておきます。

 まだ電気がついている合同庁舎を見ながら考えていました。あぁ全て終わったなと。
 正直、人事担当者は見る目があると思いました。脳内、他人を蹴落として悦に浸ることしか能のない醜悪な人間を切ったのですから表彰されるべきでしょう。現実的に考えて国の中枢に入ったら大問題です。

 別に涙は出ませんでした。喪失感はありましたけどね。なんだかんだで尽くしてもいいと思っていた官庁だったので。


 同時に、官庁訪問が終わるまで無理にでも蓋をしていた感情に向き合いました。

 国家総合職一次試験に合格したときからわかっていました。
 合格すれば、成功しさえすれば、この胸のつっかえも取れて自己肯定感も全て改善されて、兄への劣等感も、自身の能力の低さの不甲斐なさも全部が全部全て改善されて良い未来へと繋がるなんて、全て私の希望的観測にすぎなかったことぐらい、わかっていたんです。

 合格後の景色なんて存在しなかったのです。
 私は成功コンプレックスではなく“純然な学歴コンプレックス”で、兄に対して異常な劣等感を持ち、両親の期待と想いを踏みにじった無能であることは変えることができない事実だなと実感しました。試験に受かった程度で簡単に捻じ曲がった考えと犯してしまった後悔は簡単に翻ることはないと、そう思いました。

 はっきりいいましょう。

 ”大学受験で作ったコンプレックスを公務員採用試験という全く別物の試験で克服できるはずがありませんでした。”

 根本から間違っていました。私は学歴コンプレックスを克服するために努力していたのに全く別の方向に向かって努力していたのです。ここでも私はまた大きな遠回りをしたのです。

 そして学びました。コンプレックスを解消するためにはコンプレックスを作った原因と全く同様の方法で打ち勝つしかないのだと。

……。

 無事に本物の有能に蹴落とされた私は憂鬱になりながら帰宅したのを覚えています。そんなことを学び取ったところで私に内定はないのは純然たる事実だったので……。

 ということで本編は以上となります。あとがきで終わりです。

あとがき

 はい、以上がモラトリアム葛藤こと私の20年と少しの人生史です。
 こうして私は“最も公正で公平な試験に敗北し、学歴コンプレックスを克服できなかった”のです。

 この記事を通じて私がどうしても伝えたいことがあります。

 コンプレックスはコンプレックスを作った原因とは異なる、別の手段・方法では克服できない、ということです。
 私が大学受験で作った学歴コンプレックスを公務員採用試験で何とか克服しようとした例がまさにそうです。身をもって体感しました。今、大学受験のリベンジだと公務員採用試験を考えている方には強く伝えたい。その先は地獄だぞ。

 まぁだからといって、私は大学受験と公務員採用試験に対して全力を尽くしたことに後悔はしていません。ここで作った失敗体験と成功体験はどうしようもない無能でも時間をかけて努力しさえすれば凡人くらいにはなれると、そう私に教えてくださいました。
 何より、両親に謝罪する機会をくれたのも大学受験と公務員採用試験です。全てが終わった後、成人してるくせして両親の前で大泣きしながら謝罪しました。普段、寡黙な父の慌てる様子が物珍しさを感じましたね。中学時代にできなかった謝罪の機会をこれらの試験はくれたのです。

 そして、同じく学歴コンプレックスに悩んでいる方、世間の風当たりが強いと思います。実際、今年のセンター試験(死語)の前日でも”30代にもなって学歴の話をする人は恥ずかしいことなんだよ……”と同調圧力の塊のようなツイートが私のタイムラインにも回ってきました。

 はっきりいいましょう。

 確かに恥ずかしいです。

 一方で、こうも思いませんか?  
 何で世間の一存で、学生時代、全力で頑張ったことを、全力で奮闘した想いを、無理にでも蓋をさせられなきゃなんねえんだ? というかお前らに俺の人生の何がわかるんだ?、と。

 勝手に学歴コンプレックスを穢らわしいと決めつけ、身勝手に糾弾しているのは世間のほうです。人の考え方に勝手に線引きをして”高尚な考え方”と”低俗な考え方”に分け、差別を生み出しているのは世間の人間です。

 えぇ、そうです! 間違っているのは社会のほうだ……!

 私は30代になっても、40代になっても、50代になっても大学受験の話がしたい……ッ!

 30代になっても高校時代3年間、死力を尽くした話をするでしょう! 40代になっても第一志望に落ちた経験をTLに流すでしょう! 50代になってもセンター試験の日本史の点数が95点だった話をするでしょう!

……はい、話す勇気があればするでしょう・・・。

 ……まぁ残念ながらこの国は民主主義なんですよね。マイノリティが全てです。抑圧されることは致しかないこと。正直、気持ち悪いと一蹴されるのが目に見えています。

 それでも、だからこそ、私は学歴コンプレックスに悩んでいる皆さんにこの言葉を伝えたい。

 ”学歴コンプレックスを持っていることは何ら恥ずべきことではありません”

 これからの人生、私たちは学歴コンプと上手く付き合っていかなければならないでしょう。そして、人生の過程で世間が気持ち悪いと糾弾してくるかもしれません。

 しかし、そのコンプレックスは貴方が紛れもなく全力で頑張った証です。全力で頑張ったことはどんなに時間が経とうと讃えられるべき、そして称賛されるべきです。

 だから、別に誇っていい。

 世間がどれだけあなたを否定しても私だけは絶対にあなたの味方です。記事の内容は忘れていいですが、そのことだけは覚えて帰ってください。

 以上。

 ということで、本当にここまで読んでくれてありがとうございました。かなり読みにくかったと思います。何せ自叙伝(笑)なんて書くなんて初だったので…かなり四苦八苦しました。
 小説なら簡単に1万字、4万字とかすぐ書けるんですが……この記事に関しては書き上げるのに実働時間で3週間程度かかりました。意外と何かを思い出して、自分の感情を伝えるって難しいですね。

 また、冒頭の宣言通り、一部脱色も混ぜてました。3%ぐらい。
 本当に当時このゲームに嵌っていたのか、受験地は本当に東京だったのか、など細かいところに散りばめられてます。よくよく読めば矛盾点があるかもしれませんが、そこんとこはご容赦ください。
 それでも主要なエピソード全てに嘘はないと明言しておきます。97%リアルな私の人生です。

 さて、今後の人生、どうなるかはわかりませんが、合否に関わることはもう勘弁願いたいですね。正直、もうお腹いっぱいです。これからは失われた20年を取り戻すべく自分に向き合いたいと思います。

 それでは、改めましてありがとうございました。また記事を投稿する機会があればよろしくお願い致します。

 以上。モラトリアム葛藤でした。


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