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「鎖と奴隷制を代償にして買えるほど、命は尊いのか。平和は甘美なのか」

前回の続き。前回の話はこちらから↓↓

人が人を奴隷にすることは、世界中さまざまな形で発生してきた。しかし、大西洋奴隷貿易は、その規模と世界に与えた影響の大きさから、“特別” と言っていいと思われる。「人が人を奴隷にすること」と「奴隷貿易」の違い。


前回の追記になるが

スペイン両王フェルディナンドとイサベルは、キリスト教徒だった。実は、当初2人は、奴隷を増やすことに乗り気ではなかった。コロンブスが、半ば強引に、西インド諸島の先住民(500人以上)をスペインに連れ帰ったのだ。

スペイン両王は、スペインでは奴隷制を非合法化・植民地では奴隷制を合法化という、おかしな行動をとるに至った。

コロンブスが悪かった話や、エンコミエンダ制からの流れを解説できるが、所詮はコンキスタドールに関わったスペイン両王だ。書いてやらない。

スペインも、ポルトガルも、イギリスも……。大西洋奴隷貿易が成り立ったのは、いろんな国がそれをよしとしたからだ。


先に、アメリカ先住民を奴隷にしていたが、アメリカ先住民は、土地を熟知していた。他の部族と協力するなどできた。結果、逃げ出すこともできていた。見知らぬ場所へ連れてこられたアフリカ人は、そうはいかなかった。

植民地時代のアメリカにおける奴隷制とは、「イギリス人入植者がアフリカ人を奴隷化したこと」からはじまったと言える。イギリスの植民地ヴァージニアのジェームズ・タウンから。

最初のアフリカ人奴隷は、1619年にヴァージニアに到着した20人だった。補給を必要としたオランダの船が、ジェームズ・タウンに入港した。物資と20人のアフリカ人が、交換されることになった。このアフリカ人は、それまでは奴隷ではなく、年季奉公者だった。

労働力としての奴隷が、物々交換に活用され、取引きの対象となった。


アフリカ人奴隷は、ヨーロッパ・西アフリカ・アメリカ大陸の間で、取引きされた。三角貿易だ。物品と人の循環的な交換。 

アフリカで捕えられた人々は、目的地に到着する前に、半数は死亡すると予想されていた。それだけ、過酷な環境で船に乗せられた。いや、積まれた。まるで物品かのように。

貿易委員会が保管していた表によると、60,783個の “商品” が出荷され、 “配達” の結果は46,394個だった。赤字にならないようにと、できるだけ多くの “商品” を船につめこんだ。

横に寝かされた。スプーンみたいにと表現された。

男性は手かせをされた。ほとんどから完全な暗闇。天気の良い日は甲板へ出されるが、海へ飛びこまないように(泳いで逃げるのは不可能なので、自殺防止だ)鎖でつながれた。

『アミスタッド』の中で、モーガン・フリーマン演じるアメリカ生まれで奴隷でない黒人が、奴隷船の内部を見て精神パニックを起こす。良い作品。史実と異なる部分があってもいい。歴史はまた別に学べばいい。

1703年までに、ニューヨークの人口は、その42%が奴隷に。ウォール街のイースト・リバーで、奴隷市場が運営されていた。

「1655年ニューアムステルダムでの最初の奴隷オークション」 ハワード・パイル
イースト・リバーは川と言うより海峡

連れてこられたアフリカ人の大半は、南部植民地へ送られた。奴隷労働は、アメリカ北部よりも南部で、圧倒的に必要とされていた。南部のプランテーションに。


奴隷は、大きな音を立てるなと言われた。集団で歯向かう合図になり得るからと。
逃亡計画の密告や逃亡者の連れ戻しには、報酬が与えられた。新しい服などだった。仲間内の裏切りはひどい?人が人としての尊厳を保てない状況に、追いこむ方がひどい。
反逆の疑いをもたれた奴隷は、有罪の証拠がなくとも、絞首刑や火刑にされた。他の者たちへの見せしめに、支配者は、なるべく残酷な罰を選ぶ。

それでも反乱はあった。1676年「ベーコンの反乱」では、白人の年季奉公者と黒人の奴隷が団結して、ジェームズ・タウンを焼き討ちした。1739年サウスカロライナの「ストーノの反乱」は、イギリス13植民地で最大の、奴隷による反乱となった。

『自由への乗車ー逃亡奴隷ー』
イーストマン・ジョンソン

奴隷をキリスト教徒にさせる主人もいた。キリスト教の洗礼を受けた奴隷も、奴隷という身分を免れはしない、というルールが作られた。

創世記の一節が用いられ、つじつまあわせがされた。ノアの方舟の話から。長くなるので詳細は省くが、そこに黒人という描写などなく、完全なこじつけ。

宗教上の葛藤が薄れ/消え、正当化されてしまえば、いかなる法も通った。奴隷は財産→自分の財産を好んで破壊などしない→奴隷を殺すことは規律を求めた結果→殺人行為ではない。

世界はよくよく間違っている。

『プランテーション・チャーチ』観点が良い本。
ノエル・アースキン著

フレデリック・ダグラス の言葉から2つ引用

「奴隷競売人の鐘と教会に向かう鐘が鳴り響き、心の傷を負った奴隷の悲痛な叫びは、敬虔な主人の宗教的な叫び声にかき消される」

「奴隷刑務所と教会は互いに近くに立っています。刑務所では足かせのカチャカチャ音や鎖のガタガタする音が、教会では敬虔な詩篇と厳粛な祈りが同時に聞こえるかもしれない」

若き日のフレデリック・ダグラス。暴力に暴力で対抗することを否定していた。黒人だけの集落を作っていく仲間たちに、諦めるなと言い続けた。

独立戦争(13植民地がイギリス本国から独立するために戦った戦争)が勃発した時、「自由」「正義」「抑圧の終焉」などの言葉を白人が叫んだため、黒人は期待した。

個人的に、この辺りに泣ける。その気持ち、自分たちにも適応されるはずだもんね。じゃなきゃ、おかしいよね……。

南北戦争。複数の対立点があったが、主な争点は、奴隷制を存続するか否かだった。北部経済は奴隷労働にさほど依存していなかったため、反対できたとも言えるが。南部は、奴隷制度を継続したがった。

タバコ葉の栽培

想像する。「そりゃああんたらはそれでいいかもしれない。こっちは明日からどうしろってんだ。このデカい農園を」「綺麗事言いやがって。所詮みんな、奴隷制の恩恵を受けて生きてるんだろうが!」
自分ならどうするだろうと考える。私は、このために、たとえ戦争になったって構わないと言うだろうか。

本当にわかりやすく分断していた。
アメリカ連合国。アメリカ合衆国と戦ったアメリカ南部の諸州が結成。反連邦主義=州権主義などもうったえた。これ以外にも複数の旗のデザインがあった。

今回は、独立戦争の話も南北戦争の話も、これ以上は書かない。


1863年1月1日、アメリカ合衆国大統領から正式に、奴隷解放宣言があった。

映画『アミスタッド』のワンシーン。
3語だけの英語を繰り返す主人公。Give, us, Free.

今回のタイトルの言葉を述べたパトリック・ヘンリーは、ジェームズ・タウン生まれの白人。奴隷制の発端となった場所に生まれたが、奴隷制に疑問を抱き、その廃止に協力した人物。

私たちとは全く関係のない話だろうか。視点による。私たちは、大西洋奴隷貿易に関わってなどいなかった。しかし、思うに、これは天秤の話なのである。たとえば。あなたがわたしが、金儲けを優先して、愛や友情を二の次にした日の話である。あなたがわたしが、自分の欲望のために、真実から目を背けた日の話である。