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幸せにしてもらうという言葉の不自然さ|エッセイ

幸せにしてもらうという言葉に少し苦手意識がある。

私は、幸せだからこの人と結婚したい!ずっと一緒にいたい!と思うんじゃないの?という考えだ。結婚してそこから幸せになるというのは、なかなか難しい。
名字を変える等の手間、結婚に伴う面倒な慣習、他人と共同生活することで生じるストレス、金銭的な負担、様々な場面で揉める可能性が増える。
それを含めても結婚してよかったと思うが、結婚には面倒な面が多い。

結婚する際に「幸せにしてもらいな」と同僚から声をかけられて違和感があった。
夫に幸せにしてもらわなくても、私は勝手に幸せを感じる。夫を喜ばせたいと思うし、夫が私のために何かしてくれたら嬉しいが、幸せにしてもらう気なんてさらさらなかった。

幸せというと人によってイメージが違うかもしれないが、あの頃の私の幸せは1LDKの真ん中に置かれたこたつの中にあった。
冷えた部屋に響く2人の笑い声、物が少ないせいで大きな声を出すとビンと響いた。
外食するお金なんてなくて、休日は小さなキッチンにぎゅうぎゅうに立って「ああでもない、こうでもない」と言いながらおかずを作った。完成したものを寒い寒いとこたつに運んで、2人でくだらない話をしながら食べた。こたつ布団はペラペラで出入りするたびに中が冷えたので「ちょっと!めくらないでよ!」なんて言いながら自分も肩まで入った。そういうささやかなものだ。

そんなことが幸せなの?と思う人もいるかもしれないが、貧乏なりに工夫して過ごした毎日は今でも宝物だ。
夫と穏やかに過ごす毎日が幸せだったので、
「この人となら幸せになれる!」というより、「私は既に幸せだから、この人を幸せにしたい!」と思っていた。
元々子供を持つ気もなかったので、ただ2人で居たいという気持ちで結婚を決めた。今となっては子供が居なかったらなんて子供に失礼で考えられないが、居なくてもそれはそれで幸せだった。

幸せにしてもらう!という人を非難したいわけではない。私が言葉にとらわれすぎている部分もあると思う。
でも幸せは自分で感じないと、誰も与えてはくれない。どんなに恵まれた環境にあっても、本人がそれを受け取れないなら不幸だ。ありきたりな表現だが、穴のあいたコップにいくら水を注いでも、いつまでたっても満たされない。穴は自分で見つけて塞がなくてはいけないし、自分のことは自分しか幸せにできないのだ。

いつの間にか私の幸せは、夫の笑いシワや私の顔をベタベタと触る子のしっとりとした手の形になった。
家は手狭になって引っ越してしまったが、デジタルフォトフレームに映し出される写真が、あの頃の気持ちを思い出させてくれる。

この間デジタルフォトフレームを見つめている息子を後ろから覗くと、若い頃の私の写真を至近距離で見ていた。
母でない頃の私は、今では考えられないほど穏やかな顔でカメラを構える夫を見つめていたに違いない。そこにしかなかったはずの空気が写真として残っていた。

賑やかな子供の声に包まれながら、夫と2人だけの世界だったあの1LDKを思い出す。
今も昔も幸せは自分で見つけていると思うが、もしかしたら夫に幸せにしてもらってる面もあるのかもしれない。何故なら、夫とならどういう人生を選んでも幸せになれると思えるからだ。

この気付きで苦手な言葉がひとつ減ったが、幸せ幸せと連呼しすぎて、しばらく幸せという字を見たくない。幸せを自慢したいわけではなかったのに、なんだか押し付けがましい文章になってしまった。
苦手な言葉が減ったようで、実際は増えてしまったかもしれない。

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