見出し画像

【私の本棚#1】世界がガラガラと音を立てて変わった四半期(2020年4月~6月)

はじめに

ビル・ゲイツ氏が、読んだ本を定期的にブログ上で公開している。どの本も読みごたえがあるため、私は約2年間にわたり、その選書の中から次に読む一冊を決めていた。

ゲイツ氏が選書した本を読む習慣を続けてしばらくすると、自分でもブックリストを作り、公開したくなってきた。もちろん、彼には読書量でも思索の深さでも遠く及ばない。ただ、その時々の関心事を、読書歴で振り返ることは、備忘録として意味ある行為だと信じている。

今後、四半期に一度のペースで、読んだ本の「棚卸し」をする予定だ。記事で取り扱うのは、原則書籍とするが、時に記事や映画も織り交ぜる。

確かに本は、一定の知の体系化を助け、物事の新たな見方を提示してくれる。

一方で、情報の速報性やメッセージの強さという点で、電子記事や映像のほうに分があることも多い。その辺りを懸念して、拡張高いメディアである書籍以外にも依拠して、四半期を振り返ってみたい。

様々なメディアからのインプットを、まとまったストーリーとして紡ぐことができれば、知的生産性の意味では及第点であろう。

前置きが長くなった。では早速、2020年4月ー6月期を振り返る。

新型コロナウイルス(COVID-19)に翻弄されて・・・

東京オリンピックの開催延期、緊急事態宣言の発令・延長、そして前倒し解除。約束されていたはずの未来は、年初の予想とは大きく異なる様相を呈した。

市井の私たちは、感染者/死亡者数の報道に一喜一憂し、いつまでも届く気配のないマスクの存在を忘れ、テレビに映し出される渋谷スクランブル交差点の閑散さに新常態の気配を感じ、Zoom飲みにも飽きたところで、身体の弛緩を恨みつつ、恐る恐る「自粛期間」に区切りをつけて、再び街を闊歩し始めた。(もちろん、Stay Homeの在り方はもっと多様である。例えば、私は自粛期間で体脂肪率を2%下げられたし、少なくとも8月末までは在宅勤務のままだ)

世界中の人々が、時期の差こそあれ、一様に「コロナ禍」を経験した。いわば人類共通の体験となったと言えるだろう。しかし、よほど記憶力の良い人でない限り、高い解像度で自分の体験を思い出すことは、難しい。たった半年ばかり前のことでさえ。それほどまでに多くのことが同時並行で起こり、「イシューにすべき」論点が平時の比ではないレベルで発生した。

改めてこの上半期を振り返るのに最適な分量の情報を提供してくれるのが、日経XTECHの『アフターコロナ 見えてきた7つのメガトレンド』である。

冒頭の2020年1月~5月のイベントリストは、私たちの現在地を示してくれる海図のような役割を果たしてくれている。また、論客が各々の立場から語るコロナ禍が引き起こした変化と今後の展望は、老朽化し、時代錯誤となってしまっている日本社会の仕組みを換骨奪胎するヒントを提示してくれているように思う。

感染症はいつまで続くのか?

私が勤めているコンサルティングファームは2月末から原則在宅勤務となり、日本でも緊急事態宣言の発令を機にStay Home、リモートワークが本格化した。当初の見立てでは、これらの処置・決断は非常事態への暫定的な対応であり、ほとぼりが冷めれば元の木阿弥といった楽観論を語る識者も一定数いたと記憶している。

そんな最中『イシューから始めよ』、『シン・ニホン』の著者安宅和人氏がブログにて、「Afterコロナはなかなかこない。Withコロナを前提に意思決定すべき」という実感を基礎に、現状の整理(開疎化論)を展開して話題となった。(元ネタはNewsPicksのWeekly Ochiai)

実際、世界の有識者や各種レポート・論文のサマリ部分を見ると、抗体ワクチンの開発状況はあまり楽観できない見通しであることが、徐々にではあるが、明らかになっていった。

そもそも人類は、感染症とどのように向き合ってきたのか?

細菌やウイルスの存在を明らかにするには、電子顕微鏡の技術の向上を待たねばならず(例えば、野口英世の黄熱病研究)、人類は長い間、目に見えぬ存在に怯え、ただひたすら祈るしかなかったはずである。

まず、広く疫病の歴史に関する鳥瞰図は、W.H.マクニール氏が著した『疫病と世界史』(上下)で得られる。

著者は言わずと知れた歴史学者であるが、本書は限りある資/史料を紐解き、歴史的事実の因果関係に、感染症の要素を取り入れることに成功している。私たちの祖先はアフリカに起源を持つ。その後、各大陸へと生息域を拡大していったが、その過程で時間をかけて様々な病原菌に感染していったようである。

都市の形成は、人類の発明の一つであるが、当時の「都市部―農村部」の関係に関する考察は興味深い。すなわち、都市部で人口が集中し、栄えることができた背景の一つに、様々な病原菌を宿す人々が互いに交わることによる集団免疫の獲得を挙げていた点である。(英国ボリス・ジョンソン首相が、新型コロナ発生初期の頃に、政策として集団免疫の獲得を掲げていたことは記憶に新しい)

この説によれば農民は、立身出世や財貨獲得の機会に溢れる都市部へと繰り出すに際し、農村部では未発生の感染症に罹患するリスクを孕んでいたようである。このことは、都市と地方の格差を語る一要素として、保有している抗体に多寡が生じていた可能性を示唆している。(都市部の人間の方が抗体が多く、地方では少ない)

この都市・地方の抗体の有無/多寡の格差が、グローバル化によって加速したことは、「新大陸」に到達したヨーロッパ人によって蹂躙されてしまった南北アメリカの先住民の悲惨な歴史を紐解けば十分であろう。

上記格差に加えて、現在では、公衆衛生状態の要素も加わっている。清潔な水や栄養価の高い食糧へのアクセス権の有無が、感染症リスクの多寡を反映しており、今後、発展途上国での感染拡大が益々懸念される。

WHOは無用の長物なのか?

全世界的な広がりを見せた新型コロナウイルスを収束、そして終息させるためには、各国による連帯・協調が重要であることは言うまでもない。(ちなみに、感染症の文脈では「収束」は、感染リスクがある程度低空飛行している状態、そして「終息」は、根絶までには至っていないものの、対処法が確立され、ワクチン接種その他の対策が行き届いた状態を指す)

その陣頭指揮にあたるべきは、その設立目的からしても、WHO(世界保健機関)である。そのWHOの事務局長を務めるテドロス氏は、新型コロナウイルスの発生初期において、楽観論を示したことから集中非難を浴びている。

中国寄りの立場を採ったため、初動が遅れて、今回の感染をパンデミック化してしまったというのが辞任要求側の主張である。やはり国連は、大国間の集合体に過ぎず、まともな意思決定ができないのでは。そのような考えが頭をよぎった人は、こちらをぜひ読んで欲しい。

本書は、WHOを含む国際機関を眺める際に、重要な視座を提供してくれる。著者は、国際機関は大国の意向に左右されてきたことは、歴史的な事実として認めている。副題にもあるように、国家間で看過し得ないほどの健康格差があるのは、潤沢な資金を有している大国が、自国民を優先して、最先端医療の恩恵のグローバルな再分配を拒んでいることにも起因するからだ。

他方で、感染症に関しては、大国間の権力闘争を逆手にとって、医療を前進させた歴史があることにも言及している。

その代表例が、天然痘に関わる歴史である。天然痘は、1980年にWHOにより根絶が宣言された唯一の感染症である。宣言当初、米ソは冷戦の最中にあった。しかし、この天然痘根絶に際しては米ソは協調関係にあったという。

西側(自由主義国陣営)・東側(共産主義国陣営)で形容される冷戦の両陣営の盟主である米ソは、各々、両陣営側に与する協力国を増やそうとあらゆる手段を講じていた。その手段の一つとして行われたのが、この天然痘のワクチン提供である。

当初、先進諸国では天然痘はワクチン接種の効果で、もはや懸念すべき感染症ではなくなっていた。一方、発展途上国では十分な医療施設やワクチンにかける資金力が不足しており、ワクチンへのアクセス権がない状況下にあった。ここに目を付けたのが、米ソ両国であった。

WHOの当時の事務局長は、この冷戦構造を巧みに利用して、米ソを競争させつつ、結果的に発展途上国へのワクチン供与に向けた協調となるようにふるまったのだそうだ。

時計の針は残念ながら元には戻せないが、WHOの機能不全を憂慮するのではなく、WHOを含む国際機関の性質を踏まえた上での人選や根回しが必要だったようだ。

日本のポリテック(政治×テクノロジー)事情は一体どうなっているのか?

批判の矛先は、テドロス氏に限らない。第4次安倍政権も、支持率の低下が露見し始めた。(下記リンク以外にも、各メディアが世論調査を行っている。一説によれば、一部メディアに情報操作の疑義があり、政治学研究者の参考対象資料から外されたと聞く)

現政権を批判する材料は、残念ながら、枚挙に暇がないほどある(英国アクトン卿の箴言「Absolute power corrupts, absolutely.(絶対的な権力は必ずや腐敗する)」が何度頭をよぎったことか)

ただ、政権の揚げ足取りばかりしていても仕方がない。何か未来志向的な話題が政治領域にはないか?そのような問題意識で色々と調べると、ポリテック(Politics×Technology=PoliTech)という造語にたどり着いた。

これはテクノロジーを活用して、政治の変革を目指す取り組みを指す言葉であり、大きくは①電子化による効率性の追求(例えばネット投票)と、②電子化による意思決定の最適化(妄想の域を出ないがAIアルゴリズムを高度化することで、最適解を導出)に分かれるものと理解している。

このあたりの事情に明るい政治学者と憲法学者の対談が『デジタル・デモクラシーがやってくる』である。(政治学者の谷口将紀氏、憲法学者の宍戸常寿氏の講義を大学院で受講したが、講義中の小噺では積極的に時事を取り上げ、堅いイメージのある法学政治学の未来を予感させてくれるような語り口であった)

本書では、民意(輿論・世論)形成の現状と、民意の新しい醸成方法である熟議、その結果を反映する政治制度(選挙制度や議会運営の在り方等)に関して、第一線で活躍している識者にヒアリングをするという形式をとって理解を深めさせてくれる。

具体的な政治の効率化は本書に譲るが、医療崩壊の危機が回避され、予断を許さないまでも小康状態となった現在、政治がいかなる「物語」を描くべきかについて、高い視座を提示してくれている。以下、抜粋。

(日本のデモクラシー制度はどうなっているのか?という問いに対して)
シシド:
直接民主主義でイメージすると、目の前にいる有権者だけが大事だと考えがちですけれども、本来は、過去から現在、未来を通じた「全国民」(ネーション)が主権者なのだ、というのがふつうの国民主権の理解です。そんな主権者は、今・この場所に実在するわけではなくて、観念的な存在でしかないんですけれども、そういった中長期的にあるべき国の政策を考える、あるべき国民の総体が、憲法の下で統治機構をつくり、支えているという、物語ですね。(以下省略)

宍戸先生は、物語として創造された「国民」は大きく3つに分かれると話す。①過去から現在、未来を通じた「全国民」という観念的な国民、②憲法第43条が規定する「有権者としての国民」という制度で作られた国民、そして③憲法が保障する様々な権利を享受する「一人ひとりの個人」としての国民。

この三区分を下敷きにすると、ポリテックに期待されているのは、輿論(煽情的に生み出された世論ではなく、熟議を通した国民の総意)を可視化することと、それらを適切に反映・実行する仕掛けづくりなのではと思った。そして、その動きは日進月歩の進展が水面下で行われている。

定額給付金の先にある社会保障制度の在り方とは?

9月入学の検討が一時期盛り上がったものの、拙速な提案であったとして退けられた。経路依存性を示す好例となったわけだが、もう一つ真剣に腰を据えて議論をして、中長期的には政策に盛り込んで欲しいと思った施策がある。

それが昨今流行りのベーシックインカム(BI)論である。BI論は、論者によってイメージが異なることや、近代以降私たちの脳に装填された勤労観ゆえに冷静な議論が実際なされていないように思われる。

BI論を検討する上で、下記3冊の本を参照した。三冊目は、公衆衛生学の観点から見た不況期のあるべき経済政策に関して論じた本であるが、BI論を考える上での重要な示唆を与えてくれる。

上記三冊のインプットを通じて私が得た結論は、次の三点に集約される。

1. 個人は(教育水準を問わず)賢くキャッシュを使える
2. BI導入は中長期的な歳出減につながる政策となる可能性が高い
3. 各国の事情に合致したBI導入は富の再配分をシンプルにする

1. 個人は(教育水準を問わず)賢くキャッシュを使える
:歴史上、何度かバラマキ政策が実施された(今回の定額給付金よりも本格的な金額が支払われている)。それらの社会実験から得られた結論は、どれも概ね良好であった。すなわち、貧困層(低賃金労働者やホームレス)は手元にきちんとキャッシュが与えられると、自己投資に充てたり、自分たちが必要だと思うものに適切に活用して、生活の原資を増やす傾向にあったという。

よく、生活保護受給者がパチンコや博打をやって無一文になるといったニュースの印象に引きずられ「低賃金者・貧困者=怠惰で愚鈍」といった固定観念に駆られる。しかし、歴史を紐解けば、古代ギリシアの哲学者は働きもせずに勉強ばかりしていたし、平安貴族はその特権的地位ゆえに、勤めと言えば和歌を詠み、蹴鞠に興じていたはずだ。

またマリーアントワネットは「パンが無ければケーキを食べればいいじゃない」という発言するほど贅沢な生活をしていた。(実際は別人の発言だったようだ。最も、現代社会ではパンの代わりにケーキを食べることは造作もないことだが、糖尿病の罹患率を高めるだけだ)

上述の本が示す社会実験からは、そのような貧困者の怠惰で愚鈍なイメージは影をひそめる。

BIを論じる前提として、性善説と性悪説、いずれの立場で貧困者を見るべきか議論が分かれそうだが、性善説を採る方が賢明であることは過去の実証実験が証明してくれている(もちろん、外れ値的な人間は一定数いるだろう。が、もちろん外れ値に過ぎず大局的にみれば取るに足りない規模になるはずだ)

貧困は個人の性格に起因するのではなく、生まれ育った環境の要因が強烈に働くのである。

2. BI導入は中長期的な歳出減につながる政策となる可能性が高い
:2冊目の『ベーシック・インカム』(中公新書)は、日本でのBI導入実現に向けた試算を行っている。概要だけ説明すると、現在給付されている生活保護や年金等、受給に特定の条件が必要な給付金をすべて廃止したうえで、BIを全国民に配布するという制度設計を思考実験として行っている。収入の多寡は関係なく、一律配布のため文字通り平等な分配である。(厳密には、その配当原資は所得税や法人税等ではあり、収入や税引前利益に応じた徴収額の傾斜がかかっているが)

前提として認識しておくべきは、日本はOECD加盟国の中でも相対的貧困率(年収の中央値の半分以下で生活している世帯の割合)が高いということ。にも関わらず給付基準のハードルが高く設定されているために、生活保護受給者になるのが難しいという現実である。

統計上、低収入・貧困層は、生活習慣病になる傾向が中・高所得者層に比べて高く、様々な疾病に罹患するリスクが高い。当然、彼ら/彼女らが医療機関を利用すれば、歳出としての医療費を圧迫することは必至である。

加えて、生活保護受給の審査や、生活保護受給者の観察といった業務を地方自治体の職員が担っているが、これらの行政コストはバカにできない。(それに、高い志をもって生活保護受給者を監視する仕事はしたくないだろう)

治療から予防へ、審査から一律配布へと舵取りをすれば、一時的に歳出が増えたとしても将来の歳入・歳出のキャッシュフローは安定するはずである。その細かい試算は本書(2冊目の新書)に譲る。

3. 各国の事情に合致したBI導入は富の再配分をシンプルにする
:2と重複するが、BI導入によって、富の偏在が均される可能性が高い。

一億総中流社会と高度経済成長期の時は形容されていた日本は、徐々にそのジニ係数(富の偏在を示す数値。0が完全平等で1が甚大な格差社会)を高めている。

推計を含めたデータによれば、第二次世界大戦前の日本はジニ係数が約0.5ほどあり、現在(0.35程度)と比べてかなりの格差が存在した。それが、戦後焼け野原となり華族・名家が没落したことで偏在が均されたようである。そして高度経済成長を通じて、再び富める者と貧しい者が出始めて、現在に至っている。

このことは、自由主義・資本主義のルールを前提とする以上、格差は構造的に発生することを示唆している。何も私は格差を一律に否定しているわけではない。というよりは、出生時に生じてしまっている経済的な格差の補填機能をBIが秘めている点に、魅力を感じているのである。

今回の定額給付金が、単なる時限的措置に留まらず、中長期的な視座に立った社会保障政策を検討する一里塚になることが期待される。

多種多様な「いじめ」を目の当たりにして

人類が当たり前の権利として享受していた移動の自由は、感染拡大防止という大義の前に制限されざるを得なかった。人々は、責めるべき対象が不在しているコロナ禍において、行き場のない怒りや憤りを発散する手段を失っているかに見えた。

日本では、リアリティ・ショーに出演していた木村花さんの自死が報じられた。私は「テラスハウス」を見ておらず、込み入った話は分からないが、SNSの心無い書き込みによる私刑(リンチ)が彼女の精神を蝕んだ末の悲劇であったようだ。

私たちは、スマホを媒体に常時ネット環境に接続して、情報の送受信を時間の許す限り行える状況にある。このことは、Web2.0という言葉に代表されるように、好意的に迎えられていた。しかし、この楽観論はすぐに否定されることになる。

アラブの春は、市井の人々が情報発信することによる社会変革の可能性を提示したかに見えた。しかし、2013~2014年頃には同じくSNSを駆使したイスラム系過激派組織ISILの拡大とそれに伴う中東地域の権力の空白・混乱を見て失望に変わった。

もっと身近な例を想起しても、皆思い当たるところはあると思う。端的に言えば、不特定多数の人々が織りなすTwitter上のつぶやきやFacebook上の書き込みは、取るに足りない情報の集積に過ぎない。もっと言えば、大半の人はそんなに中身のあることを発信できる能力を持ちえないまま、手段だけ手に入れてしまったのである。

インターネットという言論空間を冷徹に見つめ、私たち個人がどのようにインターネットを活用すべきかを論じている宇野常寛氏の『遅いインターネット』は、こんな今だからこそ読まれるべき一冊なのかもしれない。

米国に視点を移すと、日本以上にディストピアな光景が目に浮かぶ。失業者数は日を追うごとに増え続け、Chapter7,8,13による破産申請のニュースが世間を賑わせている。世界最大の感染者数という不名誉な称号に浴した米国は、黒人男性ジョージ・フロイドさんの白人警察による暴行での死亡を機に、ここ数年間で一層の高まりを見せているBLM(Black Lives Matter)のデモ行進が各地でなされるに至っている。

教科書的に言えば、リンカーン大統領が南北戦争の最中に発した奴隷解放宣言とその後の修正第13条をもって、人種差別は制度上無くなったはずであった。しかし、実際はこの修正第13条の抜け穴(Loophole)を端緒に、今日に至るまで根強く残っている。このあたりの事情を、豊富な映像と識者のコメントで理解を深めさせてくれるのが、"13TH”だ。

BLM(Black Lives Matter)がコロナ禍の鬱屈とした世の中の事情も相まって、非常な盛り上がりとなって展開されている昨今。

本作はアメリカ合衆国憲法修正第13条が持つ「光と闇」のうちの闇の部分に焦点を置き、多様な立場の人々や専門家の語りを交えながら、有色人種(とりわけ黒人)の差別の歴史を描いている。

たしかに、奴隷解放宣言以降、法律上あるいは権利の上では、肌の色は問題(Matter)ではなくなった…はずだった。しかし、今日まで人種差別が続いている背景には、単に今問題視されている警察制度のみならず、その背後にある構造的な問題について、深く深く追究する構成となっていた。(黒人は、奴隷解放宣言以降、奴隷ではなくなったが、違う形で実質的に、かつ合法的に奴隷的な扱いを受け続けてきた。)

印象的な数字も、問題の根深さを際立たせる。冒頭、世界の囚人の25%はアメリカにいることが語られるが、終盤、その囚人の40%あまりが黒人であり、米国にいる黒人(人口全体の6.5%程度)の3人に1人は、生涯のうちに一度は刑務所に入る計算になるというショッキングな統計データが示される。

日本にいると、米国の有色人種差別の実態は理解し難いと思う(加えて、メディアでも余程の事件がないと報道されない)。私自身も米国に留学した際、アジア系ということで肩身の狭い思いや、理不尽な思いを何度か経験した(幸い、身の危険を感じることはなかったものの)

差別意識や偏見は、後天的に身につくものである。そして、一度身につくと払拭するのは並大抵でなさそうだ。だからこそ、教育が大切なのだが、現環境においては、家庭や地域コミュニティ、あるいはメディアの言論空間に於いて、良識ある市民を育める状況にはなさそうだ。

だからこそ、せめてこの作品を観た人は、一過性のものに終わらせずに、今後の差別や人権の問題と向き合う時間を持って欲しいと切に思った。

ちなみに、Netflixオリジナルの本作が公開されたのは2016年。今から4年前の作品である。怒れる米国市民たちが、何に憤りを感じているのか。まさにそのことに思いを馳せるのに最適な教材である。

激動の渦中にいるビジネスパーソンとして持つべき視座とは?

世の中の様々なことに失望や憂いを抱いたのち、そろそろ目の前の仕事に本腰を入れて取り組もうという意欲が沸々と湧いてきた。そんな中で手にしたのが、『コーポレート・トランスフォーメーション 日本の会社をつくり替える』。このコロナ禍は、失われた30年の清算と、昭和から訣別する機会と捉える論客が、本書の著者で経営協創基盤CEOの冨山和彦氏だ。

文芸春秋社から緊急出版された『コロナショック・サバイバル』の続編と位置付けられる本書は、コロナ以前の多くの日本企業が行ってきた「DX(デジタル・トランスフォーメーション)ごっこ」に対する回答として、日本の会社の在り方そのものを、今の時代に合わせて変革していくCX(コーポレート・トランスフォーメーション)にあると説明する。

詳細は本書に譲るが、日本企業がイノベーションを起こすにあたり「両利きの経営」を推進できる体制を構築すべき旨が説明されている。

両利きの経営(ambidexterity)とは、略述すると、知と知の組み合わせによって新たな商品・サービスを生み出す「Exploration(知の探索)」と、それら商品・サービスのさらなる収益化を目指す営みである「Exploitation(知の深化)」を同時並行で進めていくことで、収支の安定化とイノベーションの創出を目指す経営の在り方を指す。

知の深化は、いわゆる職人芸を磨くような営み。知の探索は、文字通り探検家が道なき道を進むイメージである。そして両者は、後者(新規事業への投資)を行うために前者(継続的なキャッシュを獲得)「も」必要という関係にある。しかし現状は、前者ばかりを行い、後者を疎かにした結果、日本企業の競争力を落とし続けたと冨山氏は見る。

そして組織が変わるためには、当然、その構成員である人も変化しなければならない。本書終盤では、With/Afterコロナの世界を形作る若者への激励であった。

また、本書の中に出てきたこぼれ話だが興味深かったので備忘的に記載する。

ラグビーの言葉で「One for all, all for one」がある。これは一般に、一人はみんなのために、みんなは一人のためにと訳されるが、後半のoneが誤訳であるらしい。

実際は「一人はみんなのために、みんなは勝利のために」なのだとか。つまり、誤訳は一人⇔みんなを循環させる構造になっているが、実際は単一線上(一人⇒みんな⇒勝利)をイメージした標語であったようだ。

この日本誤訳からも垣間見れるように、私たちは意識しないと生ぬるい仲間意識をもって、知らぬ間に沈んで行ってしまうのかもしれない。

番外編―ひとり生活の指南書

ソーシャル・ディスタンスの名の下、他者と交わる機会(とりわけ予期せぬ出会い)の機会は激減してしまった。シンガポールに駐在している友人は、厳格な法規制も相まって、一人生活を2.5か月もの間継続していた。

大局的にみれば、もともと単身者が増えている昨今、ひとり時間をいかに過ごすかは生活の知恵(ライフハック)のようになっているきらいもある。そんな中で、社会学と建築学を融合して、私たちが生活している空間そのものを見つめ直す機会を提示してくれるのが『ひとり空間の都市論』である。

本書は、物理的・意識的な「ひとり時間」を都市や企業のサービスがどのように演出してきたか、またそれによって、人々の価値観や感性にいかなる変容があったかを、多様な視点をもって論じている。

その中に、都市と程よい距離感を保って隠匿生活を送った人物として、鴨長明を挙げていることは興味深い。(とりわけ、ソーシャルディスタンスが喧伝される昨今、都市と地方の捉え方は大きな転換点を迎えつつあるため)

鴨長明は、日本三大随筆(枕草子、徒然草、方丈記)と評される『方丈記』の書き手であるが、今回、改めてテキストをじっくり読んでみた。方丈記は、原稿用紙にして20枚ほどの短い随筆であるが、内容の深遠さは他の二つの随筆の比較にならないくらい深い。

内容は、京の五大災害(地震、火事、飢饉、辻風、福原遷都)の報道記事のような状況描写に始まる。そして、それらの災害の帰結として、約束されたはずの立身出世・栄達の夢物語が、儚く散ってしまった不遇の人生に関する素直な感情の吐露がなされるに至る。

今回、テキストを読み込む際にNHK出版の解説書を参照した。鴨長明自身の来歴を知ることで、方丈記の面白さと完成度の高さを理解できたように思う。

かなり長くなったが、2020年4~6月期の本の棚卸しは以上である。

もっと紹介したい本があった一方、紹介するには及ばないほど中身の薄い本もかなり読んだ印象だ。

選書はやはり難しい。

この記事が参加している募集

推薦図書

大学院での一番の学びは「立ち止まる勇気」。変化の多い世の中だからこそ、変わらぬものを見通せる透徹さを身に着けたいものです。気付きの多い記事が書けるよう頑張ります。