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【長文感想】4回みた私が受け取った映画「君たちはどう生きるか」のメッセージ

※本記事は、宮﨑駿監督最新作「君たちはどう生きるか」のネタバレを含みます。また、作品の静止画は「スタジオジブリ」のものを利用しました。

君子豹変す。

本来、この言葉は「優れた人間は、過ちを直ちに改め、速やかによい方向に向かう。」と評価をする故事である。ただ、昨今では「要領の良い人は、今までの態度をすぐに変えて、主義も主張も捨ててしまう」といった後ろ向きな言葉としても使われてしまっているようだ。

映画「風立ちぬ」後に引退を発表した宮﨑駿監督が、引退を撤回し、創作に復帰すると聞いた時に、果たして宮﨑駿監督がどちらの「君子豹変す」であるのか…(もっとも、監督は頑固おやじで要領の良さとはかけ離れているように思うため、引退撤回の判断が良かったのか単なる悪あがきなのか)ということを注目していた。

4回劇場に足を運んだ。

1回目は、公開初日。事前情報なしで行った。ただただ、目の前で繰り広げられるアニメーションに圧倒された。

2回目は、物語のあらすじを整理した上で翌日観に行った。眞人が大伯父様のお屋敷(塔)に誘(いざな)われて以降の混沌とした世界に出現した様々なものたちが、一体何を表象しているのか、思案をしながら落ち着いて鑑賞した。

3回目は、自分の書棚にあった岩波文庫の『君たちはどう生きるか』(ちょうど10年前にBook Offで買って読んでいた)を始め、本作に関連する情報収集を行った上で、より分析的に鑑賞した。また、過去の宮﨑駿監督作品を一通り復習した。

そして、4回目はパンフレットを読み、監督の作品に賭けた想いの一端を諒解した上で、単に楽しむために鑑賞した。4回目の鑑賞に至り、敢えて専門家・批評家風に構えることを止めることができ、童心に帰って作品世界に没入する快楽に浸った。(このことは、記事後半で改めて書いていきたい)

4回観た上で、本作は3つの継承の物語だと私は受け取った。

  • 原作者の吉野源三郎氏から、少年宮﨑駿への継承の物語。

  • アニメーションの巨匠宮﨑駿監督から、次世代のクリエイターへの継承の物語。

  • 人間・宮﨑駿氏から、鑑賞者である私たちへの継承の物語。

すでに多くの考察系動画や記事がネット上に溢れており、私の記事もそれらに少なからず影響を受けていると思う。ただ、ここ3週間ほど意識的に他者の解説や感想から距離を取って、参考文献と向き合いながらこの文章を執筆した。(バランスを取った感想・考察をしている方もいたが、明らかに過激な表現を使って数字を稼ごうとしていたり、憶測の内容でありながら「断定的な」物言いをしている輩もおり、発信者のモラルを考えさせられた

本作はタイトルの通り、「君たちはどう生きるか」である。この突きつけられた命題に対する適切な鑑賞態度は、つまるところ自分で調べて、考えて、行動することであるのだと思う。

私自身は、本作の企図に共感しているし、成功しているとも思っている。すなわち、「分かりやすさ(間口の広さ)」に対するアンチテーゼとなっているし、その結果、世間の評価は真っ二つになっている。

もともと、宮﨑駿監督はディズニー映画とは違う方針でアニメーションを作り続けてきた人物である。それは、インタビュー・対談記事でも明言されており「アニメーションである以上、入口は広くて良い。しかし、出口も広いままではダメだ。」といった趣旨の発言を繰り返している。

その意味で言うと、本作は間違いなく出口が広いままではなく狭まっているが、「狭い」というよりは、観る人の鑑賞態度や人生経験によって幾つもの出口があるようにむしろ感じられた。(そうやって考えると、眞人たちがお屋敷から現実世界に戻るラストシーンでたくさんのドアがあったことにも、少し説明が付きそうな気がする。設定上、あれは自分たちが元々存在していた時空に帰ることの表現には過ぎないのだけれど。)

以降、継承という言葉を補助線としながら作品世界を振り返り、私なりに作品から受け取ったものを皆さんと考える過程を楽しみたい。

1.継承①:吉野源三郎から少年宮﨑駿へ

吉野源三郎氏が戦前に著した『君たちはどう生きるか』。マンガ版も発売され、眼鏡をかけた少年の大きな顔が印象的な表紙を書店で見かえた方も多いと思う。

戒厳令が敷かれて情報がほぼシャットダウンされた本作の数少ない事前情報の一つが、『君たちはどう生きるか』(以下、原作とする)の内容を映像化したわけではないということであった。

では、原作を読む必要はないのか?

これに対する私の回答は、否である。

読むことで作品の理解はかなり深まる。とりわけ、長編アニメーションである本作を、2時間の尺に収めるために、原作を読んでいる前提で物語を前進させている節すら感じられた。

私が日頃からよく使っている映画レビューサイト「Filmarks」で、公開から3日間あたりの感想を見ていると、こんなコメントが目に付いた。

  • これまでのジブリ作品と比べて、主人公・眞人の成長が分かりにくい

  • 眞人が夏子さんを救いに行く動機・理由が分からない

スティーブン・スピルバーグ監督の言葉を借りれば、"Character Defining Moment"(≒登場人物の作品における転換点)が、本作では少し分かりにくい、という趣旨のコメントであるように思われた。

私の解釈では、本作におけるCharacter Defining Momentは、眞人が実母のメモ付きで見つけた『君たちはどう生きるか』(原作)のハードカバー本を読むシーンではないかと思っている。昼頃に読み始めてから数時間で、原作の自動車の挿絵が入っているページまで読んでいるところを見ると、眞人は没入感のある読書体験をしている。読むシーン自体は僅か数十秒しかないが、眞人は涙を流し、内容に深く共感していることが窺える。

この読書体験こそが、本作の主人公・眞人の内面的な成長が為された場面なのである。言い換えれば、眞人は読書を通じた内省を通じて成長しているので、原作を読んでいないと、眞人の中でどのような内省が為されたのか、鑑賞者には分からなくなっているのである。

公開後に販売されたパンフレットで明らかとされたが、少年・宮﨑駿も母から『君たちはどう生きるか』を手渡され、その内容にいたく共感したという原体験を持っている。このことを踏まえて、眞人=少年・宮﨑駿とみて家族関係をパラレルに見ると、眞人の母が原作を通じて伝えたことがあったように、宮﨑・母も息子に伝えたかったことがあったのだと考えるのが自然に思えてくる。

このような構図から、本作は母(あるいは原作者である吉野源三郎)から少年・宮﨑駿は何を継承したのか、を示した作品であり、また巨匠となった宮﨑駿監督が作品(内面的な成長を果たした眞人が継母である夏子さんを救出する冒険活劇)を通じて私たちに何を継承しようとしているかを占うような性質を、監督自身の意図の有無にかかわらず帯びている作品であるのだと思った。

では、原作『君たちはどう生きるか』から宮﨑駿監督は何を継承したのだろうか。ここからは、原作を読み直して私が巡らせた想像に過ぎないが、作者の吉野源三郎氏が伝えたかった「立派な大人になる」とはどういうことかを紐解きながら記述していく。

1.1 経済活動に参加する(消費者から生産者へ)

原作の前半(四「貧しき友」)、コペル君は実家の豆腐屋の手伝いをしている同級生浦川君の境遇に想いを馳せる。浦川君は同級生に比べて家が貧乏であることから家業を手伝わざるを得ず、そのことで「油揚げ」などとあだ名を付けられ、いじめの対象となっていた。

そんな浦川君のことを一人の人間として向き合い、友人付き合いをしているコペル君を誇らしく思った叔父さんが、更にアドバイスする形で次のようなことを手紙に書いて送っている。

無論、誰だって食べたり着たりしずに生きちゃあいられないんだから、まるきり消費しないで生産ばかりしているなんて人はいない。また、元来ものを生産するというのは、結局それを有用に消費するためなんだから、消費するのが悪いなどということはない。

しかし、自分が消費するよりも、もっと多くのものを生産して世の中に送り出している人と、何も生産しないで、ただ消費ばかりしている人間と、どっちが立派な人間か、どっちが大切な人間か、——こう尋ねてみたら、それは問題にならないじゃあないか。生み出す働きこそ、人間を人間らしくしてくれるのだ。

これは、何も、食物とか衣服とかという品物ばかりのことではない。学問の世界だって、芸術の世界だって、生み出してゆく人は、それを受取る人々より、はるかに肝心な人なんだ。

『君たちはどう生きるか』 四 貧しき友 おじさんのNOTE

この一連のエピソードは、立派な大人になること=生産者になること、を説いている。私たち一人ひとりが、胸に手を当てて「自分たちは果たして生産者になれているか」を考えてみると、胸が痛む人が多いのではないだろうか。

宮﨑駿青年も、アニメーションの世界に足を踏み入れた時に、本書のこのエピソードを振り返り、「生み出してゆく人」(=アニメーター)として背筋を正す思いが込み上げてきたのではないだろうか。

1.2 人格の陶冶を目指す

本作で、おそらく眞人が涙を流して深い共感をしたのが、雪の日の出来事以降の一連のエピソードであろう。

以前から上級生に目を付けられていたコペル君の友達たちが、些細なことがきっかけで上級生と大喧嘩をする。コペル君は、喧嘩になったら自分も加勢すると言っていたが、いざ事態が生じるや勇気が出せずに物陰から傍観してしまった。自分が約束を守れなかったことを深く後悔し、家で何日も布団に籠って(ついでに熱まで出て)、学校を休みながら罪悪感に苛まれた。症状が快方に向かった折、叔父さんに事情を説明すると、普段は優しい叔父さんが、すぐさま手紙を書きなさいとコペル君に促し、手紙を一つのきっかけとして友達と和解する。(もっとも、和解というよりはコペル君が想像するほど、友達たちの方は何も思っていなかったのだが)

眞人が夏子さんを救出しに行く直前に読んでいたページ
(コペル君が友達と和解し、友情を深め合い、自動車に乗って帰宅する道中が挿絵となっている)

コペル君の母が語った石段の思い出は、ぜひ本書を確認して欲しい。ここでは、おじさんのNOTEから、眞人が最も胸に残ったと思われる一節を引用する。

(前略)
しかし、そういう苦しみの中でも、一番深く僕たちの心に突き入り、僕たちの眼から一番つらい涙をしぼり出すものは、――自分が取りかえしのつかない過ちを犯してしまったという意識だ。自分の行動を振りかえって見て、損得からではなく、道義の心から、「しまった」と考えるほどつらいことは、恐らくほかにはないだろうと思う。

そうだ。自分自身そう認めることは、ほんとうにつらい。だから、たいていの人は、なんとか言訳を考えて、自分でそう認めまいとする。しかし、コペル君、自分が誤っていた場合にそれを男らしく認め、そのために苦しむということは、それこそ、天地の間で、ただ人間だけが出来ることなんだよ。

(中略)
人間である限り、過ちは誰にだってある。そして、良心がしびれてしまわない以上、過ちを犯したという意識は、僕たちに苦しい思いをなめさせずにはいない。しかし、コペル君、お互いに、この苦しい思いの中から、いつも新たな自信を汲み出してゆこうではないか、――正しい道に従って歩いてゆく力があるから、こんな苦しみもなめるのだと。

『君たちはどう生きるか』 「七 石段の思い出」

コペル君が、悔恨の念に苛まれているのは、ナポレオンの英雄的精神への憧れもある。そして、この英雄的精神こそがまさに、本作で眞人が夏子さんを救出に行こうと行動させる原動力になったのである。

ジブリ作品を振り返ると、ナウシカ、シータ、キキ、ポルコ・ロッソ、サンとアシタカ(つまり「もののけ姫」までの主要キャラクター)は、使命感を持って行動する人物であった。アニメーションの王道の人物造形と言えばそれまでだが、私たちの多くが望む主人公キャラクターを宮﨑駿監督は描き続けていたともいえる。その原点の一つに、『君たちはどう生きるか』を加えても良いのかもしれない。

1.3 平和な世の中を希求する

原作は、日中戦争がはじまる、不穏な世情の中で出版された。そのため、原作者の吉野源三郎氏も反戦の想いを本書に託している。

コペル君が、叔父さんに向けて書いた手紙は、原作者自身がコペル君の口を通して宛てた、個人から出発する世界平和の狼煙である。

僕は、すべての人がおたがいによい友だちであるような、そういう世の中が来なければいけないと思います。人類は今まで進歩して来たのですから、きっと今にそういう世の中に行きつくだろうと思います。そして僕は、それに役立つような人間になりたいと思います。

『君たちはどう生きるか』 「十 春の朝」

パンフレットの中で、宮﨑駿監督は、本作の制作過程で戦争が起こる可能性を示唆している。実際、ロシアによるウクライナ侵攻を端緒とするウクライナ戦争は、本記事執筆の最中も継続しており、戦争は身近なものであり続けてしまっている。

吉野源三郎の反戦・平和の願いは、宮﨑駿監督にも継承されたが、戦争に加えて私たちは今、自然災害にも直面している。そのような忸怩たる思いが、引退宣言の撤回と創作への意欲を駆り立てたことは想像に難くない。

ここまでの整理

吉野源三郎原作の『君たちはどう生きるか』から何を受け取るかは、読み手に委ねられているが、上述したことは読者もすぐに読み取れることだと思う。

映画「君たちはどう生きるか」は、あくまでもアニメーションによる冒険活劇を謳っている。そして、宮﨑駿監督自身は、吉野源三郎氏の想いに深く共感をしているものと思われる。(映画のタイトルにするくらいだから)

そのため、原作のメッセージを繰り返すことはせず、原作のメッセージを下敷きにしながら、ファンタジー作品を制作したのだと私は解釈した。考えてみれば、本作から「年長者の説教」の要素は感じられなかった(感じ取った人もいるかもしれないが)。それは、作中に出てくる『君たちはどう生きるか』にすでに書かれており、眞人が上記の要素(特に英雄的精神)を受け取って成長し、行動していることを以て表出しているものなのかもしれない。

2.継承②:巨匠宮﨑駿監督から次世代クリエイターへ

はじめにお断りしておくと、私はアニメーターではなく一介のビジネスパーソンである。そのため、アニメーションの技術的なことは何も知らないし、当然実務経験はない。

他方で、宮﨑駿監督作品はこれまで全部観てきた。加えて、高畑勲、押井守、庵野秀明、新海誠、細田守をはじめとする新旧様々な日本のアニメーターの作品に触れて、作品世界に没入してきたファンではある。

そんな私が、この作品を観た時にまず思ったのが、巨匠宮﨑駿監督が、本作を以て引退することを宣言し、後に続くクリエイターたちに檄を飛ばしているのだなと。

そう思った要素のうち、私の中で説明がつくなと思えるものを箇条書きすると…。(まだあるかもしれない)

  • お屋敷の離れの塔(青鷺屋敷)

  • 門に刻印された「我を学ぶものは死す」

  • ワラワラとペリカン

  • 石と積木

一つ一つ、簡単に振り返ってみたい。

2.1 お屋敷の離れの塔(青鷺屋敷)

これほど分かり易いモニュメントは、他にないだろうというほど、本作を象徴する建物である。(公式パンフレットでは、青鷺屋敷と表現されていたため、以降青鷺屋敷とする。)

青鷺屋敷は、書棚で囲まれた通路、及び青鷺(サギ男)に導かれることで進むことになる深層世界から構成される。言わずもがな、クリエイターは、過去の無数の物語(その多くは書籍という形で保存されている)に影響を受けながら、クリエイター自身の内面世界、ひいては深層心理に深く入っていって、奥行きをもった作品を創作することが期待されている。

蛇足だが、村上春樹の小説も、深層世界に入っていく。長編小説では特に顕著で、村上春樹氏も長編を書くときはマラソンを走るつもりで毎日数時間のルーティンを守って書き続け、書き終えると休暇に入るといったことをしている。本作と村上春樹最新作『街とその不確かな壁』でも、主人公の中年男性は図書館から異世界へと意識が飛んでいく。現実と夢、生と死が混然一体となった世界という皮相的なところだけを取り出せば、容易にその共通点は指摘できる。

この青鷺屋敷=宮﨑駿監督のジブリ作品と捉えると、宮﨑駿監督自身が影響を受けた作品たちの面影や過去のジブリ作品、ジブリ作品に影響を受けて同時代に創作された作品の要素が散りばめられていることに気が付く。

多くの物事に触れて、感性を磨き、自分の深層世界に戯れ、物語を紡ぐ

青鷺屋敷は、宮﨑駿監督作品が積み上げていった象牙の塔に他ならないのではないだろうか。だからこそ、最後に青鷺屋敷が倒壊することは、宮崎駿監督世界の終焉を暗示しているように思えてならなかった。

※ここからは更に蛇足だが、青鷺屋敷は明治維新の折に落ちてきた巨大隕石の周りを囲むように屋敷を建設するよう大伯父様が指示をしたことが、作品の中盤で、ばあ様から語られる。大きな隕石は、宮﨑駿が少年期を送った戦後当時の舶来品であった「海外アニメーション=ディズニー」と捉えることもできるのではないだろうか。また、それらの物語や映像表現に感化されながらお屋敷(ジブリアニメ)を築いていった、というようにも読める。もっとも、青鷺屋敷に入ってからのストーリー展開は、ダンテの『神曲』のようでもあり、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」のようにも見えた。お屋敷にいるおばあさんたちは、「白雪姫」の7人の小人であり、夏子さんは小人たちにとってはお嬢様であることから白雪姫的な性質を持ち合わせている。(深層世界の産土(うぶすな)における眞人の「夏子かあさん!」の言葉で夏子は”目覚める”。)

7人のおばあさん 1番手前のおばあさんが勝一に「ドーーーン」と言うシーンは妙に印象に残った

2.2 門

奥に石棺が見える黄金の門が登場する。その門には、「ワレヲ学ブ者ハ死ス」との文字がある。これは何を意味しているか?

あまりにも使い古された言葉だが、学ぶことは真似ることである。
だが、この言葉と門に刻まれた言葉は矛盾しているように思える。なぜ学ぶと死ぬのだろうか。

少し踏み込むと、単なる模倣をするな、というようにも読める。

敢えて作品を名指しすることは避けるが、影響を受けた作品を皮相的に模倣して、それっぽく仕上げた作品というのも、世の中には残念ながらある。適切なオマージュとなるか、単なる過去の作品の継ぎ接ぎとなってしまうかは、作品利用の背後にある思想の有無によるのだと思う。

これも使い古された言葉だが、「守破離」にも通ずる。つまり、学んだ型を破壊し、師を離れることを推奨しているようにも思えるのだ。ジブリ作品が好きであることは結構だが、模倣の域を出ない作品を世に出すことは慎むべきであるというメッセージが透けて見えたような気がした。

2.3 ワラワラとペリカン

本作に登場するゆるキャラ。愛くるしい見た目とは裏腹に、あっさりとペリカンに食われてしまう運命にある。それが、ワラワラである。

生と死の象徴 ワラワラ

滋養あるものを食べ、大きく成長して「生」の世界へと螺旋状に昇っていく様子は、生命の神秘を感じる。ワラワラは、さながらDNAの二重螺旋構造のように昇っていく。そのパターンを把握しているかのように、虎視眈々と狙いを定めてワラワラを食べるのがペリカンの群れである。

この両者の関係に何を見るか。

私は、長い潜伏期間を終えてようやく世に出ようとしている作品たち(ワラワラ)も、その多くは過去作品の模倣の域を出ずに、一過性の消費(ペリカンがパクリと食べる)が終わると忘れ去られてしまう儚げな様子を感じ取った。

語り継がれるような作品なんてほんの僅かなんだよ、と諸行無常を意識させる描写が、このワラワラとペリカンであるように思った。

2.4 石と積木

大伯父様が眞人に語る13の積木の話。これは複数の方がすでに考察しているが、宮﨑駿が監督を務めた作品数だと私も初回に観た時に思い立った。テレビアニメの「未来少年コナン」やスタジオジブリ発足以前の作品を含めると、これらがその監督作品に当たる。

  1.  未来少年コナン

  2.  ルパン三世 カリオストロの城

  3.  風の谷のナウシカ

  4.  天空の城ラピュタ

  5.  となりのトトロ

  6.  魔女の宅急便

  7.  紅の豚

  8.  もののけ姫

  9.  千と千尋の神隠し

  10.  ハウルの動く城

  11.  崖の上のポニョ

  12.  風立ちぬ

  13.  君たちはどう生きるか

大伯父様は、作中、「私(宮﨑駿)の世界はもうすぐ終わりを告げる。私(宮﨑駿)が積み上げた積木(作品たち)を引継、眞人が継承者として新しい世界の秩序を作って欲しい」と訴える。しかし、眞人はその提案を拒み、現実世界に帰り、友達を作り生きていく決心を固める。その際、大伯父様に会いに行く途中で拾った何の変哲もない小さな石ころ一つをポケットにしまって。

この一連のシーンは何を象徴しているか?

私はここでも、宮崎駿監督の次世代クリエイターに対するくり返しのメッセージを感じざるを得なかった。

自分の積木(作品)を積み上げなさい。その拠り所となるのは、自分の中での小さな取っ掛かりや拘り(道端で拾った何気ないけど惹かれた石)であったりするのだよ、と。当然のことながら、イシは石と意志の言葉遊びも兼ねているのだと思う。

大伯父様 作品世界を統べる創造主のような風格と年老いて生気が無くなりつつある佇まいが共存

ここまでの整理

私が気になった、青鷺屋敷、門の刻印文、ワラワラとペリカン、石と積木が表象していることは、宮﨑駿監督の引退宣言と後継者に対する激励(あるいは檄を飛ばす)ということのような気がした。

細かいシーンを取り出してみると、庵野秀明作品(例えばエヴァ)や新海誠作品(君の名は。)の何気ないワンカットと重なるような描写も見え、同時代で作品同士が共鳴しているようにさえ思われた。今回、本田雄氏が作画監督を担ったことも、アニメーションとしての繋がりや同時代性を帯びることに一役買っているようにも思う。

※芥川賞で話題となった「ハンチバック」が読める雑誌・文芸春秋では、本田雄氏が宮﨑駿監督とどのようなやり取りをしていたのか。作画監督を担った経緯に「シン・エヴァンゲリオン劇場版」とのトレードオフがあったことなどが赤裸々に綴られている。

3.継承③:人間宮﨑駿から私たちへ

では、アニメーターを始めとするクリエイティブな仕事ではない私たちに対して、本作は何を継承しようとしているのだろう。

継承というと大げさかもしれないが、作品を通じて表現したかったことは、ジブリ作品(ナウシカも含む)で一貫しているのだろうなと思っている。

それは、次の言葉に集約されるのではないだろうか。

「先入観なく、自分で見て、考え、行動すること」

本作が、広告PR一切なしで公開されたことも、この思想と深く結びついている。宮﨑駿監督の師匠でもある故・高畑勲も映画「かぐや姫の物語」のPRで「姫の犯した罪と罰」というキャッチコピーを入れることに反対していた(最後には折れてしまったが…)。背景には、キャッチコピーによって観る側に「これから観る作品は、こんなテーマの作品である」という先入観が生まれてしまうからだ。

確かに「罪と罰」と入っている時点でドストエフスキーの同名作品がまず浮かんでしまう

昨今の情報環境を見ると、映画作品に関する事前情報が見るともなく入ってきてしまう。私たちは、その情報に踊らされて、自分たちが作品そのものから何を感じ、何を受け取ったのか、ということにずいぶんと鈍感になってしまっているように思う。作品に関する小ネタや蘊蓄が山のように増えても、それは必ずしも作品そのものと向き合っているとは言い難い。これは何も映画作品に限らず、あらゆる物事で言えるだろう。

今、私たちは、目の前にあるものを、率直にどう感じているか。逃げずに向き合えているだろうか・・・?

実際、私自身も1回目の鑑賞では、「どのように観ていいか分からない」という事態に陥ってしまった。そもそも、このように思ってしまっている時点で、事前情報なしに作品鑑賞をすることが出来なくなった現代人の病理に罹っているということなのであろう。

実際、映画「君たちはどう生きるか」は、ハイコンテクストな作品ではある。しかし、純粋にアニメーションとして観た時に、私は果たして本作を楽しめたのだろうか。

ある程度の分析や考察を終え、他者の解説・考察を見ることも止めた私が、時間を置いて4回目に鑑賞した時に抱いたのは…

  • 様々な生き物の躍動感

  • 眞人を導く女性の強さへの憧れと爽快感

  • ある一つの世界が終わりを迎えようとしていることへの寂寥感

だった。これくらいシンプルでいいのだと思う。それに、また時間を置いてみたら違う感想を持つのだと思う。そこに作品の価値があるのだ。

4.こぼれ話

書くのに疲れたので、このあたりで締め括ることにするが、本作についてはいろんな登場人物に焦点を当てて、あれこれと意見を交わせる余地が膨大にあると感じている。

一例を挙げると…(私の中でも暫定的な回答はあるが、説明に労力がかかり過ぎると判断してこれ以上は書かない)

  • ヒミ(火を扱う少女。眞人の母となる人)が、なぜ火事で死ぬ未来を眞人から告げられても「眞人を産めるんだから」といって現実世界に颯爽と戻っていくのか?

  • サギ男と青鷺屋敷でやり取りする最中に落ちてきたバラの花は一体何か?

  • インコとインコ大王は、何を表象しているのか?

  • ジブリアニメで定番の「美味しそうなご飯」の代わりに、排泄物(青鷺やインコの糞尿)が目立つようにした理由は?

  • インコはなぜ、青鷺屋敷を離れた途端に普通のインコに戻るのか?

  • キリコさんが唱えた呪文は何か?また、キリコさんにもついている頭の傷は何を意味しているか?

少しだけ、最後に思ったことを記載する。

眞人の母の目線で本作を整理すると、ヒミと眞人の別れのシーンでの会話とその後のやり取りの意味が少し浮かび上がってくるように思う。

  • ヒサコ(眞人の母の本名)が少女時代に1年間、青鷺屋敷から深層世界に入る

  • ヒサコはその世界でヒミという名で生活をする

  • 深層世界に夏子(妹)と眞人(未来の息子)が現れる

  • ヒミは火の力を使って眞人を導き、夏子や大伯父様に会わせる

  • 大伯父様の世界の倒壊を眞人と共に見届けて、現実世界に帰る

  • 現実世界に帰り(しかし青鷺屋敷での記憶は無くし)、ヒサコとして再び現実世界を生きる

  • 勝一と結婚、眞人を産み、母となる

  • どこかのタイミングで『君たちはどう生きるか』の1ページ目に「大きくなった眞人くんへ」とメモを残す

  • 病院の火事が原因で亡くなる

おそらく、ヒサコはヒミと名乗っていた時分に深層世界の家で『君たちはどう生きるか』を読んでいたのではないか。だからこそ、原作を読み英雄的精神を纏った眞人に対して「お前っていい子だな。眞人を産めるなら素晴らしいではないか。」と確信できたのではないか。そして、記憶を無くして現実世界に戻ってから、生まれてくるわが子(眞人)に対して、『君たちはどう生きるか』を読むようにメモを残したのではないか。このメモがなければ、眞人は英雄的精神を持つことなく、本作で描かれるような内的成長はなかった。つまり、ヒミは現実世界には帰ってくることがなかったのではないか。

と思うと、本作は『君たちはどう生きるか』を軸にした円環と継承の物語になっているようにも思われた。

参考文献

※政治学者 丸山眞男の解説がついている文庫本を強く推奨

※本作のプロットとなった本。第二次世界大戦の最中のイギリスで、主人公のDavidが、母の声を頼りに異世界に入り、真実を見つけるまでの冒険譚。面白くて一気に読んでしまった。

※スタジオジブリがどのような経緯で誕生して、その後、スタジオジブリを取り巻く環境がどのようになっていったのかを知ることができる記録的な新書

※ナウシカから千と千尋までの宮﨑駿監督の想いの一端を理解するのに役立った。

※養老孟子氏との対話を通じて、宮﨑駿監督が何を思っているかを理解する形式の本。『風の帰る場所』と重なる部分も多かったが、養老さんのジブリアニメ観が面白い。

※想像の域を出ないが、宮﨑駿監督より年上の高畑勲の戦争体験が、冒頭の眞人の描写に影響を与えているように思う。詳しくはブックレットをご覧あれ。

そのほか、映画「君たちはどう生きるか」のパンフレットを参考にした。

追記(2023/8/29)
鈴木敏夫氏を始め、声の出演者のインタビューがボリュームたっぷりの80ページに渡って掲載されている。一部答え合わせのような箇所もあり、私の深読みも若干外れているところがあったが、「どのような感想を持っても、どのようなものを受け取ってもそれで良いのだ」という思想が貫かれており、非常に満足する内容だった。

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