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「何も考えてない」は嘘だ(と信じたい)

 仕事をしている中で直面する問題がある。
 誰かが何かミスをする。それはまあ人間だからいいのだが、少し考えたら分かるだろう? というようなミスをされると少しイラっとしてしまう。そして後で、出来る限り責め立てないように、「変だと思わなかった?」と聞いてみる。すると「こういうもんかなあと思って」と返される。もしくは、「何も考えていなかった」と言われる。
 以前、誤って処分しなければならない資材が残っていたとき、まだ使える資材と混ざらぬよう別の場所に置いておいた。そうして資材を処分していなかった当人に処分をお願いしたら、なんと使えるものまで捨ててしまった。後であまりに数が少ないことに気付き、当人に聞いて発覚した。
 私はそのとき、我慢できずに聞いてしまった。「量が多過ぎると思わなかった?」と。そしたら当人は「こんなに無駄にしちゃったんだーと思った」と回答してきた。何故別のところにあるのに一緒に捨てたのか等々聞きたいことはまだあったが、もう聞く気が失せた。
 本人ではなく、周りに愚痴という形で発散することもある。「なんで気付かないんだろう」と漏らせば、ほぼ確実に「何も考えて無いからだよ」と返ってくる。
 そして私は決まってもやもやした想いを抱えることになる。本当に何も考えていない人間なんて居るのか? そんな訳無いだろう。
 勿論、人間だから反射的に行動することもある。防衛反応だったり、パブロフの犬的な「こうしたらこうする(こうなる)」という条件反射による行動もある。
 それから、決して馬鹿にしている訳ではないが、少し考えたら「この人はこの情報を知っているだろうな」と分かることでも該当人物に伝えることもある。これはまあ、99%知っているだろう状態で、仮に1%の勘違いや確認不足、その人の忘却によりミスが発生したら困るからである。自分が与していないところでトラブルが起きても正直どうでもいいが、1%でも自分に非にあるトラブルは出来るだけ避けたい。
 そうして様々な状況を差し引いても、何も考えていないと返ってくる、或いは何も考えていないんじゃないかという仮説に至ることが多くて辟易する。
 私が呼吸と同じくらい自然に思考をする人間だからだろうか。何も考えていないなどと言われても信じられないのだ。「じゃあどうやって生きてるの?」「今までどうやって生きてきたの?」と聞いてみたくなる。
 何も考えていないんじゃなくて着眼点が違うだけなんじゃないかとか、そこまで仕事に専念していないからじゃないかとか、疲労が溜まっているんだろうかとか、色々考えられる原因はある。先を読む力も想像力もちょっと足りてないのかな、なんて失礼なことを思うこともある。
 しかし一番は、些細な違和感の見逃しが原因なんじゃないだろうか、と思う。

 先の例でも、処分する量が多すぎることには気付いていた。気付いていながら、何も疑わず、確認することも無く処分してしまった。
 勿論人間なので、勘が鋭いときもあれば鈍るときもある。些細な違和感であれば気付かなかったりスルーしたりしやすいし、毎回のように猜疑心に駆られては仕事にならない。私とて毎回異変に気付く訳ではないし、違和感を見逃してしまうこともある。全てに気付けたらそれは人間ではない。
 とは言うものの、こうも「ちょっと考えたら分かるだろ!」という場面に遭遇する頻度が高いと参ってしまう。もう少し疑え、観察しろ。
 違和感を見逃したり普段から観察を怠ってそもそも違和感に気付かなかったりするという点では、やはりそれ程頭を働かせていないのかもしれない。自分が当たり前のようにやっていることだから、他人も当然出来るだろうと思ってしまいがちだけれど、実はそうではないのかもしれない。以前「当たり前など存在しない?」という記事を書いたが、これもその一つなのだろうか。
 個人的には思考の対象が違うのであって、何も考えていないなどという恐ろしいことは有り得ないと信じているのだが、どうだろうか。私が内向直感と外向思考を組み合わせて「なんか変だぞ?」と懐疑的になっている間に、今日の夕飯どうしようと頭を悩ませていたり、最近の面白い出来事を反芻していたり、明後日の方向に思考を持っていっているせいで齟齬が発生するのではないか、と疑っている。
 もし私の仮説が正しいとするなら、人は何故「何も考えていなかった」と言ってしまうのだろうか。別のことを考えていたことを咎められたくないのだろうか。或いは私の様に考えることが自然過ぎて、意識しないと何を考えていたのか覚えていられないのだろうか。「何も考えていない」もそれはそれで咎めたい発言だし、私は別に考えていたことを覚えているが。

 私の疑問や悩みに「相手は何も考えてないよ」と返されるのもそれはそれで癪である。まあ私自身そのように一刀両断してしまうこともあるから、人のことは言えないのだが。
 一人の人間を理解しようとするのは時間も労力も相当にかかる。その結果徒労に終わってしまっては気の毒だと思って、私にそういう助言をしてくれるのだろう。流石にこの助言をしてくれる当人も「何も考えず」ただ極論を言っている訳ではないと信じたい。
 しかしそれでも、私は人を理解したい。理解しないままでは気持ち悪いからだ。自分のことすら全てを把握することは出来ないのに他人のことまで把握しようとは、我ながら強欲なものだ。しかし、理解したいという欲求こそ、私が他人と関わる最大の理由なのだ。もしかしたら唯一かもしれない。故に多目に見て欲しい。

 長々と愚痴っぽく語ってきたが、何も考えていない人間など居ないと信じたい、というのが私の想いの全てである。
 もし本当にそのような人間が居るのなら、どうしてそうなってしまったのかも非常に興味深いところである。言われるがまま生きてきたとか、周囲の人間が良くも悪くも守ってくれたとか、そういうところだろうか。もっと違う理由もあるかもしれない。疑問は尽きない。
 尤も、私もまだまだ考えが足りない部分がたくさんある。人のことばかりに目を向けて自分を棚に上げることの無いよう、私も日々精進していきたい。


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