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普通であることが難しい。

自分の当たり前は、周りの人の当たり前じゃないという言葉を、これまでたくさん聞いてきた。

なのに、周囲の人はなんで「普通」であることを、または自分と同じであることを、他者に、社会に求めているんだろうって、漠然と考える時間があった。

人は人と同じであれば安心するし安定だと錯覚しがちだと思う。
特に、自分が田舎も田舎の離島で育ってきた経験もあり、身内でや学校という組織、部活内で非常に感じてきた窮屈な感覚が「同じ」や「普通」や「当たり前」であった。

体のいい言葉を並べては自分を正当化し、周りと同じ意見であることが正義の若者文化に嫌気が差しているのが正直なところで、言葉を選ばなかったら「周りと一緒で何がおもろいねん」という自分が幼い頃からずっと内側にいた。

今では特に正解も不正解もなく、自分の生きたいように生きるが僕の「当たり前」なのだが、当時はいかに人と違うかという価値基準で生きてきたのもあり、見栄は張るわ、嘘は吐くわでどれだけ大きく自分を見せようか、お前らとは違うんだぞと見せつけてやろうかと性根腐った感情を抱いていたと振り返る。

情けない話ではあるが、そうやって自分を叩き上げてきた感覚すらある。

それが故に「普通」や「常識」というのが良くも悪くもわからず、協調性が著しく損なわれている感覚すらある。

それでも、そんな中でも、自分を承認し、尊敬してくれる人さえいる暖かい世界線でぬくぬくと息させてもらって、自分は幸せ者だなと本気で思っている。
だから自分も他者の「普通」や「当たり前」を受け入れるだけの器量と度胸は持っていこうと思って生きている。

そうやって社会的な普通を知らない若者が社会に出て荒波に揉まれ、今持っている常識や普通が全部消えるかもしれない不安に漠然と駆られてもいる。
自分がどれだけ周りを受け入れようとも、周りに自分を受け入れてもらえるかはまた別の話で、「俺のありのままを受け入れてください」なんて烏滸がましいお願いも見返りも毛頭求めていない。
しかし、その中で自分が耐えられるかが不安なだけ。そうやって騙し騙しの生活がまた帰ってくるのかなとビクビク震えているのが等身大の思いでもある。

それでも強く自分の「普通」に生きる人は本当にすごい。
世の中の「普通」に生きる人も本当にすごい。

自分だけだろうか。こんなにわがままなのは。

もっと自分の価値観、哲学、信念を、周りとの波長を合わせた上で、うまく生きていきたいと心底思う。
難しいこともたくさんあるが、結局自分の普通にどれだけ心酔できるかだろうなと思ったり。結局この記事で自分は何が言いたいのかわからなくなってきた。笑

最後に、僕の周りで1番自分の中の「普通」「当たり前」に忠実に生きている(世でいうギャル中のギャルである)妹の言葉で締めくくらせていただきたい。

「自分の人生の主人公は自分だけ」

21歳の妹からこんなありがたいお言葉をいただいた時は愕然とした。かろうじて兄の面子を保とうと何かしら返事をした気もしたが、何を話したか全く覚えてない。それだけ衝撃的な言葉だった。

自分の人生の主人公は自分だけ。
結局自分が生きたいように生きる。これに尽きる。

他者との普通を擦り合わせたとて、全く同じ人はいないのだから。

自分の「普通」にどんな時でも心酔できるかどうか。
それだけ自分のことに酔いしれる人生を歩けるかどうか。
こんなしょうもない悩みを一蹴してくれた妹には感謝している。

こんな正解のないようなことを考えているのが、僕にとっては「普通」なのです。
カッコつけてあまり使わない言葉を使うのも、好きな人には好きだとはっきりと言うのも、自分の欲望や好きや好奇心に忠実なのも、全部僕の「普通」である。

ご理解いただいた上で、今後も引き続き下地蓮太朗をよろしくお願いします。アゲェ〜。

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